かしや』と涙を流す。ここで所謂破の舞が始まつて、地謡は『松に吹き来る風も狂じて』と歌ふのであるが、私共の想像は眼前に、波の高い須磨の浦で、終夜妄執に取りつかれてゐる二人の幽霊が恋の狂乱を演じ終わるのを見るのである。秋の月下で狂ふ恋の幽霊……これくらゐ詩の題材として感傷をそそるものはない。さうしてこの一篇『松風』ぐらゐ詩劇として情景の点で成功してゐるものは、何処の文学にもあるまい。実に永劫の価値がある。恋は人間自然の発露である。絶対的に原始的に人間に与へられた感情の節奏である。このこんがらかつた糸のやうに纏綿として尽きない恋の夢幻曲を松の夜陰に聞くのだから、この一篇が人を動かすのである。
 ああ、何たる精緻で然も力強い生命の表現がこの『松風』にあるであらう。どんなものでも人間性の根原を暗示する芸術は尊い。私共はそれから一つの不思議な力が強制的に迫つて来るやうに感ずる。私共は『松風』を読み、それを幾層倍も増して舞台で見る時、悲んでも傷まない感情の恍惚世界に入るのである……この世界は現実と想像の境目にある世界で、悲哀と歓喜とが互に反照し合つて濃霧のやうな光沢を放つてゐる。この世界では自然も人間も共に幻像化して、観念の静寂を味つてゐる。ここに流れる感情は変幻自在でも抽象的な単純を忘れない。この神秘的な世界に詩といふ霊祠があつて、すべての現象はそれを中心として顕れてゐる。この霊祠に寂しい恋愛といふ女性が住んでゐて、樹間を洩れて来る月の影を眺めて、魂の痛みを歌に歌つてゐる。さうしてその声が、この世界を取捲く憂愁の水へ波動するやうに感ぜられる。実にこの世界は痛ましいが麗はしい。
 私共は観阿弥が『松風』の一篇で私共に詩の世界を与へて呉れたことを喜ばねばならない。私は二度も三度も眼をつぶつて、松風村雨といふ憐れな二人の女性が今、『我跡弔ひて給びたまへ』と言葉を残して橋掛へ消えてゆく姿を想像する……彼等の小さい魂は見る間に朽ち、何の音も発せずに永劫の海へ沈んでゆくやうに感ずる……永劫の海は恐ろしく静寂である……今しも女性二人の魂をのんで仕舞つた海は、鈍重で灰色の波を静かに蜿らせる……さうしてこの永劫の海は眠つてゆく……
 秋の須磨を語つた私は次に春の東山を語りたい。月を語つた私は桜を語らねばならない。『松風』を語つた私は、『熊野』を語るであらう。遠州は池田の長者の娘熊野は平宗盛の愛妾である。今舞台へ顕れる熊野は、葛、葛帯、唐織着流しで、手に扇子を持ち、顔に小面を被つてゐる。小面には細長い目の上に、ずつと離れた一対の眉が附き、割りに太い低いどつしりと坐つた鼻だ……この平たい鼻に、軽快で理智的な現代を離れた土臭い昔の暗示がある。下脣が一寸上の方へしやくり上つた小さな口から、白い歯並が見える。これはまた不思議な芸術品で、彫刻家は女性の感情を蒸留し尽して、最後に残る尊い気分をそれに封じこんだものであらう……特殊な想像の世界をじつと見詰めてゐる顔である。この面ぐらゐ人間の感情を保留して慎しやかな表現をもつ仮面は何処にもあるまい。実際、世界に類のない面である。感情の驚くべき節約が面の上に行はれてゐるのであるから、見る人の想像で、涙の面ともなり又微笑の面ともなる……さうして眼前の熊野は心の中で泣いてゐるのである。それでも彼女は顔の表面で笑つてゐる。表で微笑して心で泣く……其処が、昔の女性の麗はしい点でなくて何であらう。この麗はしい女性美の幽霊が熊野となつて、現実の世界へ顕れてゐるのである。何故に熊野は心の中で泣いてゐるのか。彼女は今国元にある大病の老母からの手紙を、使者から受取つて読んだのである。手紙の中の言葉に、『年ふりまさる朽木桜、今年ばかりの花をだに待ちもやせじと心よわき、老の鶯、逢ふ事も涙に咽ぶばかりなり』といふ文字もあつて、彼女は、一時も早く主人宗盛から帰国の許可を得ようと悶えるのである。能の場面に手紙を読上げる場所がいくつもあるが、この『甘泉殿の春の夜の夢』で始まる手紙は、恐らく人を動かす感情で満ちる点で、随一の大文章であらう。熊野の歎願を宗盛はきかない。彼は『牛飼車よせよ』と急いで車の用意をさせ、熊野に花見随行の厳命を下す。熊野は止むを得ないので車に乗る。彼女に対しては『心は先にゆきかぬる足弱車の力なき花見』である。
 この一番から私の感ずる興味はここで始まる。牛飼車といつても、後見が舞台へ持出し見附柱の側に置く作物の車に過ぎない。又車の作物としても、変な恰好でただ車といふことを暗示するのみだ。ツレの朝顔はこの作物の後に、ワキの宗盛はその左に立つが、これも彼等が車中にあるものと思はなければならない。牛飼車は動き始めて東山へ向ふのであるが、後見がその車を動かすのでもない……観客は想像の力で、東山の春を飾る爛漫たる桜花を心に描かねばならない。然し、
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