眼前の麗はしい景色から、彼等は喜ばしい慰藉を感ずるであらう。松風は『いざいざ汐を汲まんとて汀に満干の汐衣の』と歌つて村雨と向き合ふ。『袖を結んで肩に掛け』と村雨は歌ふ。『汐汲む為めとは思へども、』『よしそれとても、』『女車』と両女性が互に歌ふと、地謡が『寄せては帰る潟をなみ蘆辺の田鶴こそは立ちさわげ』と歌ひ始める。今松風は舞台の所謂目附柱の方に置いてある作物の車の前へ進む。車の上には小さい水桶が二つ載せてある。松風は下に居つて扇を開き、『松島や雄島の海人の月にだに、影を汲むこそ心あれ』と地謡につれて、右の方を渚と思ひ汐を汲む様子をする。汲んだ汐を彼女は車上の桶へすくひ入れる。又同じことを繰返すと桶は半分ほど汐で満ちる、直きに一杯になる、……見よや、静かな月影は桶の中に浮かんでゐる。ああ、諸君は想像の眼で月の姿を見ねばならない。この能楽芸術は『想像の王国』である。想像の力で無が有を産みださねばならない。この能楽芸術は『空虚の王国』である、諸君にして真実この王国の住者であるならば、諸君は現実の痛みと喜びとが幻像となつて、空間を満たしてゐることを知るであらう。能楽芸術は虚偽の芸術でない……詩の魂が祈祷を捧げる聖殿である。ここへ顕れる女性でも男性でも、その一挙一動は、香気を吐きだし終る一つの息だ。今松風と村雨が月の滴に濡れる花のやうに、幽麗な恍惚境に彷徨ふ有様を見よ。彼等は汲みいれた汐を車に載せて、波音近い海人の家へ運び帰らうとするのである。諸君は彼等がさうしようとするのだと想像せねばならない。
『さしくる汐を汲み分けて見れば月こそ桶にあれ』と地謡は歌ふ。村雨は車の前に進み、長柄についてゐる網を松風に持たせる。松風は『是にも月の入りたるや』と、一つの桶に月の映れるを見る。『うれしや是も月あり』と地謡の言葉で、もう一つの桶にも月があることが知れる。天の月は一つだが、『影は二つ満つ汐の夜の、車に月を載せて憂しとおもはぬ汐路かなや』とあつて、二箇の桶に月を入れて塩屋へ帰るのである。私がこの一番を最も詩的な暗示に富む一篇であることを語るには、此処までで十分である。私自身の目的からいふと、これからの事は蛇足の一種に過ぎない。この一番の詩劇としての生命は、橋掛から舞台に入つて、『あら心すごの夜』の月影を汲んで家へ帰る所で尽きてゐる。
 塩屋で諸国一見の僧が、一夜の宿を借りようとして待つてゐる。塩屋の女主人は最初断つたが、仕舞に『月の夜影に見奉れば世を捨人、よしよしかかる海人の家、松の木柱に竹の垣、夜寒さこそと思へども蘆火にあたりて御泊りあれ』と僧を家の中へ迎へる。僧は磯辺に立つてゐる一本の松が、松風村雨の旧跡だと聞いて逆縁ではあるが弔つたと語る。二人の女性はそれを聞いて涙を拭ひ、『あまりになつかしう候ひて、なほ執心の閻浮の涙再び袖をぬらしさぶらふ』といつてなほも泣く。僧は不思議な言葉を聞くものだと問ひつめる。二人の女性は自分等こそ松風村雨の幽霊だと白状する、さうして僧に一辺の回向を頼む。
『あはれ古へを思ひ出づればなつかしや行平の中納言、三年はここに須磨の浦、都へ上り給ひしが、此程の形見とて御立烏帽子狩衣を』とクセの謡が進むと、後見役のものが烏帽子と長絹とを舞台へ持ち出して松風に持たせる。松風は『これを見る度にいやましの思草』と、持たせられた烏帽子と長絹を高く上げて見る。それから『よひよひに脱ぎて我寝る狩衣』と歌ひ、立つて『忘れがたみもよしなし』といふ。長絹を見て『取れば面影に立ちまさり』と云ひ、長絹をかかへるやに持つて、『起き伏し分かで枕より跡より恋の攻め来れば』とあつて、橋掛の方を振返り、長絹を顔に推しあてて悲歎の涙にくれる。
『装束着せ』のものが切戸から出て来て、松風に水衣を脱がせ、長絹に小烏帽子を着せる。松風は今作物の松を見上げて、『三瀬河絶えぬ涙の憂き瀬にも乱るる恋の淵はありけり』と歌ひ始める。松風……いな松風の麗はしい幽霊は狂してゐるのである。彼女は『あら嬉しやこれに行平の御立あるが、松風と召されさぶらふぞやいで参らう』と、立上つて松を目掛けて行かうとする。村雨はさうでないと松風に諭す。松風は『うたての人の言事や、あの松こそは行平よ、たとひ暫しは別るるとも、松とし聞かば帰りこんと連ね給ひし言の葉は如何に』といふ。村雨も『げになふ忘れてさぶらふぞや』といつて、心が乱れて来る。これよりイロエ掛り中の舞となつて、『いなばの山の峯に生ふる松とし聞かば今帰り来ん、それは因幡の遠山松』と、松風村雨は遠く橋掛の方を眺める。
『これはなつかし君ここに』と作物の松に胸ざしする。『須磨の浦わの松の行平』と右の方を向いて、須磨の浦を見渡す様子をする。『立ち帰りこは我も木陰に』と右へ廻り、『いざ立ちより磯馴松』と作物の松の側に寄り添ひ、松に両袖かけて、『なつ
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