能楽論
野口米次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拍節《ビーツ》を踏むと

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『あなたが橋掛りで慎しやかな白い拍節《ビーツ》を踏むと、
あなたの体は精細な五官以上の官能で震へると思ふ……
それは涙と笑の心置きない抱合から滲みでるもの、
祈祷で浄化された現実の一表情だ、
あなたは感覚の影の世界を歩く……暗いが澄み切つた、冷かで而かも懐しい。
ああ、如何なる天才があなたを刻んだか、
彼はあらゆる官能の体験を蒸留し、蒸留し、
最後に残つた尊い気分をあなたに与へたに相違ない。
故に、あなたは特殊の広い深い想像の世界……いや詩の世界に目覚めた。
私はあなたを見て、いつも感情の貯蔵とその表現に驚く、
あなたは偉大な感情の保留者だ、
あらゆる世界の舞台で、あなたのやうな感情の節約者は見出されない。
(真実の芸術は感情の節約から始まる。)
然しあなたは、適当な一語勢《エンフアンス》を得て即座に涙となり、
また笑ともなる。
(私は笑と涙が同根元から流れ出ることを知つてゐる。)
ああ、何たる中性的驚異があなたにあるであらう。
あなたの細長い眼を高く離れた所にある一対の眉、
割にふとく低くどつしりと坐つた鼻、
白い歯並を見せた下唇が上の方へしやくり上つた小さい口、
如何なる女でも、自分の類似をあなたの何処かに見出すであらう、
あなたは一箇の女でない、
すべての女だ、
すべての女を臼で砕き、その粋を集めて出来たものが即ちあなただ……
あなたはすべての女の幽霊だ。』
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     一

 情景兼ね備はる詩劇の逸品は松風の一番に止めを刺す。これぞ正に日本文学中比類のない、柔かな月影が野分の海岸を照らし海人の呼声が物凄い須磨の浦の一場面である。恐らく世界の文学へ持ち出しても、この一篇に優る艶麗と悲痛の詩劇はあるまい。これを舞台で見ると、恰も阿片でも飲んだやうに麻酔させられ、夢心地に追憶的な恋の悩みを感ずるであらう。『妄執の夢に見ゆるなり、我跡弔ひて給びたまへ』と憐れな二人の女性が合掌して、心に響く波の声を聞いて拍子を踏み、『吹くや後の山おろし関路の鳥も声々に』とあつて、明け始める東の空を眺め、『村雨と聞きしも今朝見れば、松風ばかりや残るらん』とこの一番が終る時、誰もほつと一息ついて痛ましい詩の恍惚境から目覚めるの感があるであらう。ツレもシテも幕の内に入つて仕舞つても、観客の耳には永劫に吹く風と波の声が残るであらう。掛橋を独り帰つてゆく旅僧を見て、誰もその寂しい姿に打たれるであらう。
『痛はしやその身は土中に埋もれぬれど名は残る世のしるしとて、変らぬ色の松一本、緑の秋を残す事のあはれさよ』と諸国一見の旅僧が歌ふ時、諸君は薄暮が須磨の海岸を包み始めると想像せねばならない。想像は不思議な魔法使だ。私共はその杖に触れて、静かな青白い寂しい月が天に上つてゐると想像する……『松風』の一番はいよいよ始まる。眼前に見る二人の女性は松風と村雨である。彼等は葛、葛帯、箔、腰巻、腰帯、白水衣の装をして掛橋で向き向ひ、『汐汲車わづかなる』と同音で歌ひ出す。正面を向つて村雨は『波ここもとや須磨の浦』と歌ふと、松風も一緒になつて『月さへぬらす袂かな』と歌ひ終り、両人が向き合ふ……ああ、このたつぷり溢れる情趣は到底言葉で語られない。詩的なこの一番は最も麗はしく始まる一篇の詩劇である。私はここでいつて置く……能楽(能劇といつてもよい)の真生命はこの橋掛にある。橋掛で芸術的効果を納めない曲は、不成功な作品であると言つても過言でない。舞台に比較して素敵に長いこの橋掛ぐらゐ暗示的なものは、世界の舞台芸術いづれを尋ねても見当るまい。女性に扮する能役者が白い足袋をはいて、静かだが音律的にこの掛橋を歩む工合を見て、私はいつも『なんといふ女性的香気のある歩み工合であらう、小股の内気な運び工合は実に天下一品だ……この歩み工合だけでも、芸術として世界に誇ることが出来る』と思はないことがない。遠方から足だけを眺めてゐると、(実際に私は喜多六平太君が女性に扮する時、その足だけを見てゐることがある、)まるで白い二つの魚が泳いでゆくやうだ。かういふ天下一品の足をした松風村雨が、今橋掛から舞台に入るのである……『里離れなる通路の月より外は友もなし』と歌つて、彼等の心と環境とを貫く寂しさを語り、『汐汲車よるべなき身は海士人の袖ともに思ひを乾さぬ心かな』と、自分達の心細い生活を歎きかこつ。
 天には寂しく光る秋の月が懸つてゐる。彼等は『羨ましくも澄む月の出汐をいざや汲まうよ』と渚に近寄る。彼等は自分等の浅ましい姿が、月夜の水に映るのを見て恥ぢる。然し
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