眼に三人の役者を見、耳に朗々と響く音吐の底力ある地謡の声を聞いてゐると、知らぬ間に私共の想像世界は展開し、展開しゆく……不思議や、『四条五条の橋の上橋の上、老若男女貴賎都鄙色めく花衣、袖を連ねて行末の雲かと見えて、八重一重さく九重の花ざかり』といふ長閑な東山の景が顕はれ、自分共も春の群集を眺め、又群集から眺められたりしてゐるやうな心持がして来る。実際を見ると、三間四方の舞台は檜で造られてゐる。正面に囃方が並んで、小鼓と大鼓は床几にかかり、笛と太鼓は下座してゐる。その後の鏡板には黒青い絵の具で、松の木が一本描いてあるのみだが、この背景(若し背景といふことが出来るならば)ぐらゐ邪魔にならず又多くの曲目とよく調和するものはない。少くも私共日本人がさう思ふに至つたといふ心理状態は、どうして養はれたであらうか。この点に関する心理的考索は他にゆづるが、今は私はただ、歳月を知らない永遠の表象としての松の木は、現実を超絶するこの夢幻詩劇の模様化を助けるものだといふに止める。舞台の右側二列に並び、手に持つ扇子を右の膝頭にあてて端坐してゐる人々は即ち地謡である。眼をつぶつて、男性的音律の正しい合唱を聞く時の私の快感は、何物にも譬へることが出来ない。森林を吹き払ふ風の声か、海岸へ打込んで来る波の音とでもいふことが出来よう。地謡と囃子方の前で、私の親愛なる能役者は、慎み深い態度で女性となり、幽霊となり、戦場の勇者となり、諸国一見の旅僧となつて、観客の想像に訴へ、一枚の緞帳も用ひずに現実世界と幽霊界との二つの舞台を変化してゆく。これは最も完全に近い舞台の綜合芸術で、ここに関係するもの何一つ失つても破綻を来すに相違がない。この舞台芸術は欧米の世界へ、国宝として持出す価値がある。さうして欧米の舞台芸術は、きつと能劇から粗雑な凡俗主義を打破する暗示を受けるであらう。私はこれが日本に発達して、今日も盛であることを喜ぶものである。ああ、何たる完全な舞台の綜合芸術であるだらう。この特殊な芸術が放散する高調抒情詩気分に触れると、私共は直に現実から逃れて想像の世界へ入るのである。多くの場合に於ける想像は、無理な努力の仕事であるが、この能劇の殿堂では想像することぐらゐ容易で楽なことはない。私共は想像を追掛けるのでなく、想像が向ふから遣つて来る……私共は自由にそれを掴むだけだ。故にこの能楽堂に入るものは誰でも詩人となるであらう。此処こそ人生といふ沙漠中の沃地である。私共はこの沃地に湧き出る詩の霊泉を汲んで、もつと広く深い想像の世界へ踏込まねばならない。
私は再び『熊野』へ帰るとする……ロンギ地は『河原おもてを過ぎゆけば急ぐ心の程もなく、車大地や六波羅の地蔵堂よと伏し拝む』と歌ふ。私は熊野の一行と共に、愛宕の寺や六道の辻を過ぎ、今右の方に鳥部山を見るであらう。間もなく清水坂にさしかかりて山門に近づくであらう。熊野は『経書堂は是かとよ』と左を眺め、『車やどり馬とどめ』と左右を見、『ここより花車』とあとじさりして車を出る。熊野は母の心配で胸一杯になつて心慄いてゐる、清水の本堂を合掌礼拝して病母の加護を祈る彼女の姿は哀れである。
宗盛は面白く咲きほこる桜の木の下で宴を張る。御堂で祈誓をこめてゐる熊野は、呼びたてられて花見の酒宴につらなる。彼女は『あら面白の花や候、今を盛りと見えて候、何とて御当座などをも遊ばされ候はぬぞ』と人々から怪まれる。彼女は花見どころではないが、心を引立て思ひ直し、立つて『花前に蝶舞ふ紛々たる雪』の歌をうたふ。それから『清水寺の鐘の声祇園精舎をあらはし』で始まるクセ地謡になるが、このクセ即ち曲は、昔の曲舞の名残りで謡曲文中の花だと云はれてゐる。然し多くの場合に意味をなさない不規則な修辞的文字であるにとどまつて、精神的に全篇の有機体的情調を破壊してゐる。得て技巧上から見ようとする専門的見地に禍されない私共に取つて、このクセ(曲)は寧ろ迷惑である。もとより能楽の舞台効果からいふと、舞の関係上なくてはならないものであらうが、今日上演されてゐる曲目を通じて、舞そのものの価値でさへあるとは思はれない。然し私でも能楽の理解が進むに従つて、多くの人のやうに舞の歎美者となるかも知れないが……まだまださうなるには年数がかかる。或は私は到底舞の歎美者となれないかも知れない、クセの妙趣がいつまで過ぎても分らないかも知れない……それでいい、私の能楽に対する鑑賞は私の鑑賞である。他人からかれこれ云はれる筈がない。今『熊野』のこのクセに帰るが、これは私も満足しなければならない名文章ともいふべきもので、実際今日存在する三百番の中で、最も成功してゐる特殊な一例であるかも知れない。清水から見渡す風景も想像されてなかなかに面白い。熊野はクセにつれて遙か南を眺め上扇して大左右し、『稲荷の山の
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