けじゃないかと軽蔑するのは易《やす》い、しかし生きているというこの事実は絶対のものでありそれ自身貴いのだ、とそんなことを考えるのだった。
もう大分前のことだったが、私はこういう文字を読んだことがある。「癩者の復活など信じられないし――(むしろ死が美しく希《のぞ》ましい場合もある)――不健康な現実への無責任な拝跪《はいき》など、末期以外には感じられない。生というものはだいたい不健康な部分に対して仮借なく、審判し排除する物である」
これを読んだあと、数日は夜も睡《ねむ》ることができなかった。この無慈悲な言葉が、私にはどうにも真実と思われたからである。しかし今はこんな言葉は信用しない。死が美しく希ましい場合など一つだってありはしないのである。私はまた理くつがいいたくなったようだが、それはやめにしよう。しかしただひとつだけいいたいのは、癩者の世界は少しも不健康ではない、ということである。これだけの肉体的苦痛、それを背負って、しかも狂いもせず生きているということは、それだけでも健康、何ものにも勝って健康である証拠ではないか! 肉体的不健康など問題ではない。また右の言葉を吐いた人も肉体上の不健
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