りませんから」

        二十一

由「御新造《ごしんぞ》様、私《わたくし》は余計な事を申すようでございますが、岡野《おかの》三|太夫《だゆう》様なぞは、以前は殿様/\と申上げたお方だが、拙宅《うち》へお手紙で無心をなさるとは、どのくらいの御苦労か知れません、私《わたし》に手を突いて御無心をなさる有様にお成りなすったかと、少し恵むと云う程な訳ではござりませんが、それから見ると御新造様なんぞは御《ご》気楽で、何んだって朝夕斯様な好《よ》い景色を庭のように見て居る、此のくらいな御養生はありません、お気楽でげしょう」
女「皆来る方は其様《そんな》ことを云いますが、お前さん方は偶《たま》に来るからで、朝夕のべつゞけに山を見ると山に倦々《あき/\》しますよ」
由「そうでしょう、こりゃアそうでしょう、私《わし》の懇意な者が高輪《たかなわ》に茶店を出して、旧幕時分で、可笑しかった、帆かけ船は見えるし、二十六|夜《や》の月を見て結構でしょうと云うと、左様《そう》でない、通るものは牛馬《うしうま》ばかりで、島流しに遇《あ》ったようだと云ったが、これは左様でげしょう、併《しか》し男子山《おのこやま》と子持山《こもちやま》の間から足尾庚申山《あしおこうしんざん》が見える、男子子持の両山の景色などは好《よ》いねえ……あゝ子持で思い出したが、お嬢さんはお身大きくおなりでしょうね」
女「あれも十九になります、お耻かしい事でありますが、詮方《せんかた》なしに身過|世渡《よすぎ》、下《しも》の福田屋龍藏《ふくだやりゅうぞう》親分さんの処で抱えもすると云うので、行立《ゆきた》たぬから、今では小峰《こみね》と云って芸妓《げいしゃ》になって居ります」
由「お嬢様が……だからねえ、もうお鼻などは垂れやアしますまい、お少《ちい》さい時分にお馴染の方が芸妓に出て、お座敷でお客様に世辞を云うようになるのだから、此方《こっち》はベコと禿げるのは当前《あたりまえ》で、左様《そう》でげすか……旦那ちょうど好《い》いのでげす」
幸「御新造様、旧来のお馴染である旦那様にも種々《いろ/\》御懇命《ごこんめい》を蒙むったこともありますから、またお力になるお話もありましょう、またお嬢様にも久し振でお目にかゝりたい、事に寄ったら明日《あした》の晩|向山《むこうやま》へお嬢様を連れておいでなさい、あなた是非連れて来てください」
女「有難うございます、どんなに悦ぶか知れません、東京の知った方がお出でになると帰りたいと涙ぐんで話すので、中には連れて行《ゆ》こうと云う人もありますが、私があるから行《い》く訳にも往《ゆ》きません、私も行《ゆ》きたいと云うと、婆《ばゞア》が一緒じゃア困ると仰しゃる、それゆえまア此処に居ります……お前さんは相変らずお元気で」
幸「何うも仕方がありません、親父が死んでからは何も為《し》ません、只遊び一方で仕様がない、怠惰者《なまけもの》になって仕様がありません」
由「御苦労なすった御様子ですが、まだ御新造さんなどは宜しいので、先刻木暮へ漬物を売りに来た方は五百石取ったとか云う、ソレ彼《あ》の色の白い伊香保の木瓜《きうり》見たいな人で、彼の人が元はお旗下だてえから、人間の行末《ゆくすえ》は分りません……じゃア御新造さん私も種々お話もありますから翌《あす》の晩」
女「屹度《きっと》見世を仕舞うと参ります、もう仕舞いましょうと思います」
由「翌の晩ですよ、左様なら」
 と其処《そこ》を出て暗くなって帰って来ましたが、木暮八郎の三階の八畳と六畳の座敷を借りて居る二人連れ、婦人の若い方《かた》の女中が癪《しゃく》が起って、お附の女中が落着《おちつ》く様に押して居《お》るが、一人では間に合いません、次の間に居た車夫の峰松が手伝ってバタ/\して居《お》る処へ帰って来ました。

        二十二

峰「由さん、今手こずったよ」
由「何うした」
峰「今お癪で困りますから、早々障子を開けて這入っておくんなせえ」
由「なにを」
峰「癪が起ったので」
由「男が癪を起すのは珍らしいじゃアねえか」
峰「私じゃアねえ、隣座敷の御新造様が起したので」
由「なに御新造がお癪」
 とガラリ障子を明けて見ると、御新造は歯を噛〆《くいし》め反《そ》って居《お》るを女中が押して居《お》るが力の強いもので男の二三人ぐらい跳《はね》かえしますから、由兵衞が飛込んで押えます。
女「有難うございます、此方様《こなたさま》で助かります、女一人では仕様がございません」
由「宜しゅうございます、此方《こなた》へ首をおかけなさいまして、脊割《せわり》を脛《すね》で押せば宜しいので、何しろお薬を……旦那お薬を」
幸「ナニ薬……峰公、床の間に己のカバンがあるから、あれを持って来な」
峰「カバン」
幸「早く/\」
峰「カバンはございません……貴方が其処《そこ》に持って居らっしゃる」
幸「おゝ、そうか……神薬《しんやく》がある、早く水を」
 というので薬を飲ませると好《いゝ》塩梅に薬も通って下《さが》る様子
「反らしちゃアいけない……」
由「あ痛《いて》え石頭を打付《ぶッつ》けて……旦那ナニを……咒《まじな》いでげすから貴方の下帯を外して貸して下さい下帯で釣りを掛けると好《い》いので、私のは越中でいけませんが、貴君《あなた》のは絹でげしょう」
幸「失礼な、僕の下帯で奥様方を……」
由「だッて御病気の時は、そんなことを云ったって仕方がありません、咒いでげすから、失礼だって構いません」
幸「じゃアまだ締めないのがあるからあれを」
由「締めないのではいけません、締めたのが宜しいので」
幸「だって此処で脱《と》れるものか」
 とやがて新しい絹の下帯を持って来て釣りをかけ漸くに治まりも着きました。
女「なに好《よ》いよ、もう宜しい、岩《いわ》や治まったから心配せんで宜しいよ」
岩「貴方どんなに心配したか知れません、お隣のお客様お三方がお出で下すって、結構なお薬を戴き治まりが着いたのでございます、確《しっ》かり遊ばせ」
女「宜《よ》いよ、あゝ……有難うございます、皆さんもう宜しゅうござります」
由「恐れ入りました、お癪は治まると後《あと》はケロ/\致します……中々お強いお癪で」
峰「私の拇指《おやゆび》はこんなになりました……随分強いお癪で」
幸「お薬はまだ私の方にありますから、これは此処へ置いて参ります、お構いなくおあがりなすって」
岩「誠に有難う存じます、お若衆様《わかいしゅさま》に一と通りならんお世話になりまして恐れ入ります……貴方能くお礼を仰しゃいな」
女「有難うございます」
幸「左様にお礼では痛み入ります」
 と是から自分の座敷へ帰りまして、
幸「強《ひど》いお癪だねえ」
由「強いたって癪の起るような身体つきであるよ、痩せぎすで、歯を噛《く》い〆めて居る処は人情本にあるようでげす、好《よ》い女でげすな、伊香保で運動して居る奥様方や御新造さん方を見るに一番別嬪はお隣の御新造で、彼《あ》のくれえ品が宜くって、あのくれえ身体つきの好いのはありません、外のは随分お形装《なり》は結構で、出るたんびに変り、でこ/\の姿で居ても感心しない、起《た》って歩く処を見ると、丈《せい》がづんづら低かったり、お臀《しり》が大きかったりするが、お隣の御新造は別で」
幸「峰公ひどかッたろう」
由「だけれども奥様のお癪を押すのは嬉しかったろう」
峰「そうさ、初めは嬉しかったが、段々ひどくなって来て、仕舞には一人で、押し切れず困りました」
由「そこへ私が後押《あとおし》で、旦那の下帯で綱ッ引《ぴき》と来たら水沢山もかるく引上げました」
幸「悪いよ、静かにしろ」

        二十三

由「何でもあれは後家|様《さん》だねえ……好《よ》い女だ」
幸「止しねえ、何だか知れるものか」
由「いゝえ後家さんだ、姿《なり》の拵えが野暮でござえます、お屋敷さんで殿様が逝去《おかくれ》になって仕舞ったので、何でも許嫁《いいなずけ》の殿様が戦争《いくさ》で討死《うちじに》をして、それから貞操《みさお》を立てるに髪を切ろうと云うのを、年が若いからお止しなさいとお附の女中がとめて、再縁をさせようと云うが、御夫人は貞操を立て、生涯尼になってと云うのでげしょう……形装《なり》も宜し、金側の時計に鎖は小さな珊瑚珠が間に這入ってゝ、それからこう頸《くび》へかける、パチンなどはこんな幅の広いので、竜が珠をこうやって居《お》る処が着いて居《い》るのは妙で」
幸「止しねえ」
由「大変に旦那に惚れて居ますぜ、初め私が話をして、彼《あ》れは東京の方だが、お家《うち》は川口町てえんで」
幸「下らねえことを云うな」
由「なにたゞ川口町と云ったので番地は云いません」
幸「番地など云ってはいかん」
由「どうも本当に品と云い人柄と云い、あんな方はないとお附の女中に云いましたら、本当に左様《そう》ですねと云って、お附の女中が横眼で見たが、これはどうも只ならんと思います」
幸「止しねえ、詰らんことを云って、聞えるぜ……峰公、止しな、覗いては悪い」
峰「覗きやアしません」
 と次の間で火鉢 火を[#「火鉢 火を」はママ]起して居た車夫の峰松は、火鉢へ火を取って湯を沸しながら耳を寄せると、此方《こちら》は癪も治まったと見えて。
岩「どんなにか恟《びっく》りいたしましたろう」
女「私は久しく起らなかったが、今日は強く起って………お湯に動ずると云うが動じたのだろうか」
岩「貴方のようにくよ/\して、斯う云う処へ入らっしゃっても頓とお宅のことをお忘れ遊ばさんからいけません、斯う云う処へ入らしったら悉皆《すっかり》お宅の事はお忘れ遊ばせ」
女「思うまいと思ってもそうは行くまいじゃないか」
岩「そうでございますが、其の替りには貴方|幾日《いくか》何十日お宅を明けて居らっしゃっても宜しいので、貴方のは気癪《きじゃく》でございますよ、それを癒《なお》さなければならないと旦那様が仰しゃって、私を附けて此処に幾日《いっか》何十日入らっしゃっても何とも御意遊ばさないじゃアありませんか、それで貴方どんな我儘を仰しゃっても、柳に受けて入らっしゃる、貴方はお仕合《しあわせ》じゃアありませんか、他家《よそ》には疳癪《かんしゃく》を起して、随分御新造様方を手込《てごみ》になさるお宅《うち》さえ有りますじゃアございませんか」
女「それは、御自分様に悪い事があるから、私へも優しく遊ばさなければお義理が悪いだろう」
岩「だけれども男は仕方がありませんよ」
女「それは男の働きで、偶《たま》に芸妓《げいしゃ》を買うか、お楽みに外妾《かこいめ》をなさるとも、何とも云やアしないけれども、旦那様ばかりは余りと思うのは、現在私の血を分けた妹《いもと》じゃアないか」
岩「それだから斯うやって長く居ても、何とも仰しゃらない、今年一杯居てもお小言は出ませんよ」
女「それは早く帰ればお邪魔になるから、たんと居ろと仰しゃるので」
岩「貴方はそうお思召《ぼしめ》すからいけません」

        二十四

岩「貴方木暮武太夫へ菊五郎《きくごろう》が湯治に来て居ります、家内を連れて来て居ります、松助《まつすけ》も連れて居《お》るそうです」
女「私は俳優《やくしゃ》は嫌い」
岩「落語家《はなしか》も来て居ります」
女「落語家は饒舌《おしゃべり》で嫌い」
岩「それでは貴方琴をお調べなさいな、どうせ借物《かりもの》で悪うございますが、何か一つお浚《さら》い遊ばせ」
女「私は厭だよ……芝居と云えば何《なん》じゃアないか、前橋へ東京の芝居が来て居るって」
岩「左様《さよう》で、慥《たし》か左團次《さだんじ》が来たそうで」
女「左團次と云えば、お隣の旦那様は左團次に能く似て居らっしゃるねえ」
岩「左様《そう》でございますよ、好男子《いいおとこ》で人柄で、そうしてお隣のお方ぐらい本当に御親切なお方はございません………そしてアノ若い気の利いた車を引く人、あんな身分に似合わぬ親切な人は有りません、まア一生懸命に汗を掻いて貴方のお癪を押してねえ、それにもう一人の方《かた
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