霧陰伊香保湯煙
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)偖《さて》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)追々|御《ご》勉強

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)*平《ひら》との
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        一

 偖《さて》、お話も次第に申し尽し、種切れに相成りましたから、何か好《よ》い種を買出したいと存じまして、或お方のお供を幸い磯部《いそべ》へ参り、それから伊香保《いかほ》の方へまわり、遊歩かた/″\実地を調べて参りました伊香保土産のお話で、霧隠伊香保湯煙《きりがくれいかほのゆけぶり》と云う標題に致してお聴きに入れます。これは実際有りましたお話でございます。彼《あ》の辺は追々と養蚕が盛《さかん》に成りましたが、是は日本《にっぽん》第一の鴻益《こうえき》で、茶と生糸の毎年《まいねん》の産額は実に夥《おびたゞ》しい事でございます。外国人も大して之を買入れまする事で、現に昨年などは、外国へ二千万円から輸出したと云いますが、追々|御《ご》勉強でございまして、あの辺は山を開墾してだん/″\に桑畑にいたします。それにまた蚕卵紙《たねがみ》を蚕《かいこ》に仕立てます故、丹精はなか/\容易なものでは有りませんが、此の程は大分《だいぶ》養蚕が盛で、田舎は賑やかでございます。養蚕を余り致しません処《ところ》は足利《あしかゞ》の方でございます。此処《こゝ》はまた機場《はたば》でございまして、重《おも》に織物ばかり致します。高機《たかはた》を並べまして、機織女の五十人も百人も居りまして、並んで機を織って居ります。機織女は何程位《どのくらい》な賃銀を取るものだと聞いて見ると、実に僅かな賃でございます。機織女を抱えますのに二種有ります。一《いつ》を反織《たんおり》と云い、一を年季と申します。反織の方は織賃銀何円に付いて何反《なんだん》織ると云う約定で、凡《すべ》て其の織る人の熟不熟、又|勤惰《きんだ》によって定め置くものでござります。勉強次第で主人の方でも給金を増すと云う、兎に角|宅《うち》へ置いて其の者の腕前を見定めてから給料の約束を致します。又一つの年季と申しますると、一年も三年も或《あるい》は七年も八年もございますが、何十円と定めまして、其の内|前金《ぜんきん》を遣《や》ります。皆手金の前借が有ります。それで夏冬の仕着《しきせ》を雇主《やといぬし》より与える物でございます。これは機織女を雇入れます時に、主人方へ雇人請状《やといにんうけじょう》を出しますので、若い方が機に光沢《つや》が有ってよいと云うので、十四五か十七八あたりの処が中々上手に織りますもので、六百三十五|匁《もんめ》、ちっと木綿にきぬ糸が這入りまして七十寸位だと申します。其の中《うち》で二崩しなどと云う細かい縞《しま》は、余程手間が掛ります。一機《ひとはた》四反半掛に致しましても、これを織り上げて一円の賃を取りまするのは、中々容易な事ではございません。機織場の後《うしろ》に明りとりの窓が開いて居ります。足利|辺《あたり》では大概これを東に開けますから、何故かと聞きましたら、夏は東から這入りまするは冷風だと云います。依《よ》って東へ窓を開け、之をざま[#「ざま」に傍点]と云います。夏季《なつ》蚊燻《かいぶし》を致します。此の蚊燻の事を、彼地《あちら》ではくすべ[#「くすべ」に傍点]と申します。雨が降ったり暗かったりすると、誠に織り辛いと申しますが、何か唄をうたわなければ退屈致します処から、機織唄がございます。大きな声を出して見えもなく皆《みんな》唄って居ります様子は見て居りますると中々面白いもので、「機が織りたや織神さまと、何卒《どうぞ》日機《ひばた》の織れるよに」と云う唄が有ります。また小倉織《おぐらおり》と云う織方《おりかた》の唄は少し違って居ります。「可愛い男に新田山通《にたやまがよ》い小倉峠が淋しかろ」、これは新田山と桐生《きりゅう》の間に小倉峠と云う処がございます。是は桐生の人に聞きましたが、囃《はやし》がございますが、少し字詰りに云わなければ云えません、「桐生で名高き入山書上《いりやまかきあげ》の番頭さんの女房に成って見たいと丑《うし》の時参りをして見たけれども未だに添われぬ」トン/\パタ/\と遣るのですが、まことに妙な唄で。偖《さて》、足利の町から三十一町、行道山《ぎょうどうざん》の方《かた》へ参ります道に江川《えがわ》村と云う所が有ります。此処に奧木佐十郎《おくのぎさじゅうろう》と云って年齢《とし》六十に成る極く堅人《かたじん》がございます。旧《もと》は戸田《とだ》様の御家来で三十石も頂戴したもので、明治の時勢に相成りましたから、何か商売を為《し》なければならんと云うと、機場のこと故、少しは慣れて居りますから、忰《せがれ》の茂之助《ものすけ》を相手に織娘《おりこ》を抱えて機屋をいたしますと、明治の始めあたりは、追々機が盛って参り大分《だいぶ》繁昌で親父《おとっさん》も何《ど》うか早く茂之助に善《よ》い女房を持たせたいと思ううち、織娘の中で心掛けの善いおくのと云うが有りまして、親父《おやじ》の鑑識《めがね》でこれを茂之助に添わせると、宜《よ》いことには忽《たちま》ち子供が出産《でき》ました。総領を布卷吉《つまきち》と申して今年七歳になり、次は二月生れで女の児《こ》をお定《さだ》と申します。

        二

 扨《さて》、奧木茂之助は、只機が織り上るとちゃんと之を畳みまして綴糸《とじいと》を附ける。彼《あ》れもまた一役《ひとやく》で、悉皆《すっかり》出来た処で此品《これ》を持ち、高崎《たかさき》や前橋《まえばし》の六|斎市《さいいち》の立ちまする処へ往って売るのでございますが、前橋は県庁がたちまして、大分《だいぶ》繁昌でございまして、只今は猶《なお》盛んで有りますが、料理茶屋の宜《よ》いのも有る。其の中で藤本《ふじもと》と云う鰻屋で料理を致す家《うち》が有ります。六斎が引けますると、茂之助は何日《いつ》も其家《そこ》へ往って泊りますが、一体贅沢者で、田舎の肴は喰えないなどと云う事を平生《ふだん》申して居ります。処が此の藤本は料理が一番宜いと云うので、六斎市の前の晩から、翌日《あした》の市の時も泊り、漸々《だん/″\》馴染《なじみ》となり、友達が来て共に泊ると云うような事に成りました。すると此の藤本の抱えで、小瀧《こたき》と云う芸者は、もと東京浅草|猿若町《さるわかまち》に居りまして、大層お客を取りました芸者で、まだ年は二十一でございますが、悪智《あくち》のあるもので、情夫《いろおとこ》ゆえに借金が出来て、仕方なしに前橋へ住替えて来ましたが、当人は何時までも田舎に居るのは厭で、早く東京へ帰りたいと思うとお金が欲しくなって来ます。すると、誰でも遊びに来る時などには、宅《うち》に金瓶が八つに、ダイヤモンドが八十六も有るように大法螺《おおぼら》を吹きます。
茂「今度は何千反持って来て、何処《どこ》へ何百反置いて、此処へ何百反渡して金を何百円持って帰る」
 と云うように、大業《おおぎょう》な事を云うから、小瀧も此の茂之助を金の有る人と思いますと、容貌《こがら》も余り悪くはなし、年齢《とし》は三十三で温和《おとなし》やかな人ゆえ、此の人に縋《すが》り付けば私の身の上も何うか成るだろうと云うと、此方《こちら》は素《もと》より東京の芸妓《げいしゃ》と云うのを当込んで掛りましたのだから、ついした事から深く成り、現《うつゝ》を抜かして寝泊りを致しました事も度々《たび/\》なれども、茂之助の女房おくのは、苟且《かりそめ》にもいやな顔を為《し》ません。幾ら夫につらくされても更に気にも止めず、却《かえ》って夫の不始末をお父《とっ》さんに取成し、
くの「私はもとは此の家《うち》へ機織に雇われた奉公人を、斯《こ》うやって若旦那に添わして下さるとは冥加至極のこと、お父さんのお鑑識《めがね》にかない此の家の女房に成り子供まで出来ましたから、若旦那さまに幾ら辛くされようとも、旧《もと》の身分を考えれば何も云う処はございません、それは男の楽しみゆえ一人や二人|情婦《おんな》の有るは当前《あたりまえ》」
 と諦めて居るを宜《い》い事にして、茂之助は些《ちっ》とも家《うち》へ帰って来ません。終《しまい》には増長して家の金を持出して遊びに出て、小瀧に入上《いれあげ》て仕舞いますので、追々借財が出来ましたが、親父は八ヶましいから女房のおくのが内々で亭主の借金の尻を償《つぐの》って置きます。此のおくのは、年齢《とし》二十七だが感心なもので、亭主の借金をぽつ/\内証で返す積りで働きまするのだが、夜業《よなべ》を掛けても、一反半織るのは、余程上手なものでなければ出来ませんのを、おくのは一生懸命に夜業を掛けて、毎日二反ずつ織上げませんと、亭主の拵えた借金が払えないと精出して遣《や》って居ります。然《そ》ういう結構な女房を持って居ながら、茂之助は心得違いにも、とうとう多分の金を以《もっ》て彼《か》の小瀧を身請いたしました、尤《もっと》も其の頃の事ゆえ、身請と云っても旅の芸妓《げいしゃ》は廉《やす》かったもので、こま/\した借金を残らず払っても、百二十円も有れば治まりがつくと云うくらいのもので、藤本の方を綺麗に極りを附けて小瀧を連れて来ましたが、宅《うち》へ入れる事が出来ませんから、足利の栄町《さかえちょう》六十三番地に、ちょっとした空家《あきや》が有りましたから、これを借受け、飯事世帯《まゝごとしょたい》のように小瀧と二人で暮して居りましたが、小瀧は何か旨い物が喰《た》べたいとか、あゝいう物を織らして来てお呉んなさいと云う我まゝ気随でありますが、茂之助は宅へ往《い》く了簡もなく、差向いで酒を呑み、小瀧の爪弾《つめびき》を聞いて楽しんで居ります中《うち》に、商売を懶《なま》けて居るから借金に責められるが、持立ての女だから、見え張った事ばかり為《し》て居ります。

        三

 塩町《しおちょう》と云う処に、相模屋《さがみや》と[#「相模屋《さがみや》と」は底本では「相摸屋《さがみや》と」]云う料理茶屋が有ります。此家《これ》は彼地《あちら》では[#「彼地《あちら》では」は底本では「彼他《あちら》では」]一等の家でございます。或日《あるひ》のこと、桑原治平《くわばらじへい》と云う他所《よそ》へ反物を卸す渋川《しぶかわ》の商人《あきんど》と、茂之助は差向いで一猪口《いッちょこ》飲《や》りながら、
治「こう茂之助さん、君イね、何も彼《か》も心得の有る人なり、それに前々は先《ま》ず戸田さまの御藩中であって大小を差した人に向って、僕が失敬な事を云うようで済みませんが、何うせ君の気に入るまいけれども、君の妻君のような者を持つは、実に此の上ない幸福だと思うが、おくのさんの心掛てえものは別だね、其の代り田舎育ちだから愚図だと云うは、何うもまア何かその云うことが、私《わし》も田舎者だから田舎の贔屓《ひいき》をするてえ訳じゃア無いが、言葉が違うので貴方《あなた》の気に入らんか知りません、言葉は国の手形さ、亭主の留守を守るのが細君の第一の勤め、家事を治めるのが当然《あたりまえ》の処だが、如何にもその、おくのさんの家事の守りようが真実で、無駄のないようにして、織娘《おりこ》の手当から、織上げさせてからに自分ですっかり綴糸を附けて、直ぐに六斎へ持出せるように拵えて置くのに、貴方《あんた》は少しも宅《うち》へ帰らねえのは心得違いで有りましょう、尤も今じゃア別に成っておいでなさるから宅へ往《ゆ》く事も有りますまいが、
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