殺し、自分も腹を切って死ぬ決心故、是がもうおくのゝ顔の見納めかと、後《あと》を振返り/\脇差を腰に差して帰って往《ゆ》く後姿を見送って、
くの「はてな、彼《あ》の顔色は……うっかり脇差を渡したのは悪かったが、事に寄ったらお瀧さんを殺す心でも有りゃア為《し》ないか、私《わし》が猿田へ先へ往って此の由をお瀧に知らせようか」
 と心配して居ります。斯《か》くとも知らず茂之助は猿田村の取付なる彼《か》の松五郎の掛茶屋へ斬り込むと云う、大間違になりまする処のお話でございます。

        十五

 えゝ、久しく上方へ参りまして大分御無沙汰を致しました。新聞にも僅か出しまして中絶いたしました霧隠伊香保湯煙のお話で、央《なかば》からお聴《きゝ》に入れまする事でございますが、細かい処《とこ》を申上げると、前々よりお読み遊ばしたお方は御退屈になりますから、直《すぐ》に続きを申上げます、足利の江川村で茂之助が女房に別れるとき、横浜へ行《ゆ》くからお父さんに内証《ないしょう》で脇差を持って来てくれと頼みました。これは恨み累《かさ》なるお瀧と松五郎を殺して、自分は腹でも切って死のうと云う無分別、七歳《なゝつ》になります男の子と生れて間もない乳呑児《ちのみご》を残し、年取った親父や亭主思いの女房をも棄《すて》て死のうと云う心になりましたが、これは全く思案の外《ほか》、色情から起りました事で、此の色情では随分|怜悧《りこう》なお方も斯様になりますことが間々あります。女房おくのは夫茂之助に別れる時に、何うも様子が変で、気になってなりませんから、万一《ひょっと》して軽躁《かるはずみ》な事をしてはならぬと、貞女なおくのでございますから、一歳《ひとつ》になりますおさだと申す赤児《あかんぼ》を十文字に負《おぶ》い、鼠と紺の子持縞の足利織の単物《ひとえもの》に幅の狭い帯をひっかけに結び、番下駄を穿《は》いて暮方から江川村を出まして、猿田の松五郎の宅へ参りました。見世は片付けて仕舞い、縁台も内へ入れて一方《かた/\》へ腰障子が建って居ります、なれども暑い時分でございますから、表は片々《かた/\》を明け放し、此処に竹すだれを掛け、お瀧が一人留守をして居りますと、門口から、
おくの「はい、御免なさいまし」
お瀧「何方《どなた》でございますか」
くの「松五郎さんのお宅は此方様《こちらさま》でございますか」
瀧「はい手前《てまい》でございますが、何方《いずれ》からお出でゞす」
くの「はい貴方《あなた》がお瀧さんでござりますか」
瀧「はい私が瀧でございますが何方《どちら》からおいでゞすか」
くの「はいお初にお目にかゝりまして、お噂には毎度承知いたして居りやんしたけれども、是迄はおかしな訳で、染々《しみ/″\》お目にかゝる事も出来ませんで、私ゃア茂之助の女房のおくのと申す不束者でござんして、何うかお見知り置かれましてお心安う願います」
瀧「おや然《そ》うですか、私もおかしなわけで、かけ違ってお目にかゝりませんでしたが、能くまア斯んな処へお出で下すって、まア此方《こちら》へお上んなさい、何だか暗くっていけませんから、今|灯《あかり》を点《つ》けます、這入口は蚊が刺していけませんから、まア此方へ」
くの「はい有難うございます、まア是ア詰らん物《もん》でございますけれども、私が夜業《よなべ》に撚揚《よりあ》げて置いたので、使うには丈夫一式に丹誠した糸でございます、染めた方は沢山《たんと》無《ね》えで、白と二色《ふたいろ》撚って来ました、誠に少しばいで、ほんのお前様《めえさん》のお使い料になさるだけの事でござります」
瀧「はいそれはまア何よりの品を有難うございます、さアずっと此方《こちら》へお出でなさいまし、おや子供|衆《しゅ》を負《おん》ぶで、其処は蚊が刺しますから団扇をお遣いなすって」
くの「はい、団扇は持って居ります、私《わしゃ》ア貴方《あんた》に少しお目にかゝってお願い申したいと存じまして」
 と是からおくのが話し出します事は明日《みょうにち》。

        十六

くの「家《うち》へはちょっくら買物に往《い》くって嘘を吐《つ》いて参《めえ》りましたが、私《わし》が良人《うちのひと》の茂之助もまア御縁があって、あんたを前橋から呼ばって栄町に世帯《しょたい》を持たせて置いた事は聞いて居ましたけれども、男の働きで当前《あたりまえ》のことゝ思《おめ》えましても、年寄てえ者は取越苦労して、私にあんた義理もあるだから、やかましく云いますし、やかましく云えば意故地《いこじ》になって家へも帰んねえようにする彼《あ》れが気象でござりまして、あんな我儘な気象、あんたも知っての通り誠に心配《しんぺえ》して、まア縁が切れても男の未練で、ひょっとして貴方《あんた》のとけえでも来て、詰らねえ事でもハア言い出せば、貴方だっても、まア松五郎さんでも黙っては居なさらねえ、縁の切れた所《とけ》え来て、たわいもねえ事をいえば合点しねえぞと云えば、売言葉に買言葉、何《ど》んなえらい事になるかも知れねえとまア、女の狭《せめ》え心で誠に案じることでござります、年寄子供を扣《ひか》えて軽躁《かるはずみ》な事がなければ宜《よ》いがと思って居ます処の、昨日《きのう》私が処《とけ》えねえ……少し家へ来られねえだけれども、逢いてえッて来た様子が誠に案じられますから、それからまア何うかしてと思って居ましたけれども、太田へ参《めえ》ったことを聞きましたから、また此方《こちら》へでも来《き》めえか、ひょっとして軽躁な事がありはすめえかと心配《しんぺえ》して、栄町へ参《めえ》りましたら栄町《あちら》の世帯《しょてえ》は仕舞って、太田の方へ行ったてえから、気になってなんねえで、此方へ参りましたが、若《も》し茂之助が此処《こけ》え参りまして、どんなハア詰らねえことを言いかけても、あんた取合わずにまア柳に受けて居て下さると、荒《あれ》えことも為《し》めえから、打遣《うっちゃ》らかして居て下すって、其の時云った事が貴方のお気に障れば、其の時はどんなに胆《きも》がいれる事があっても、後《あと》でまた気の静まるときに意見をすれば聴入れてくれる人でござりますから、何うか若し参りましたらば、何卒《どうぞ》あんた逆らわずに柳に受けてお置き下さるようにお願《ねげ》え申してえもので」
瀧「はい、そうで御座いますか、困りますねえどうも、まア貴方《あんた》には初めてお目にかゝりましたが、茂之助さんは前橋の六斎の市のたんびにお出でなすったが、お前さんという立派なお内儀《かみさん》や子供のある事は存じません、当人も隠して女房はないから斯うもしてやると仰しゃって下さるから、頼り少い身体で、そんならばと云って来て見ると、子供|衆《しゅ》もあり、お内儀さんも在《あ》って、手前《てめえ》は家《うち》に置かれないからと栄町へ裏店《うらだな》同様な所《とこ》へ世帯《しょたい》を持たして、何だか雇い婆《ばゞあ》とも妾ともつかぬ様な仕合《しあわせ》で、私も詰らねえから、何しろ身を固めるには夫を持たなければ心細いからと思いまして、それで浮気をしたてえ訳じゃアありませんが、今の松さんが前橋へ来なすったが、私も東京《とうけい》に居た時分からねえ馴染のお方で、恩になった事もあり、それに少しハイ約束をした事もありました、それが縁でちょく/\遊びに来たのを茂之助さんが嫉妬《やきもち》をやいて、むずかしい事を言ったから話も破《ば》れて仕舞って、まア示談《はなしあい》で離縁になったのですよ、それから斯うやって夫婦になって居ると、未練らしく此の間も来て酷《ひど》い事を言って、私の髻《たぶさ》を把《と》って引摺り倒し、散々に殴《ぶ》ちましたから、私も口惜《くやし》いから了簡しませんでしたが、それは兎も角もまた茂之助さんが来て種々《いろん》な事をいうのをハイ/\と柳に受けて居《お》れば、また増長して手出しをする、そうなれば良人《うちのひと》も腹を立てゝ茂之助さんを手込《てごみ》に打擲しまいものでもない……まアあるかないか知れませんが、他人《ひと》の家《うち》へ来て、縁の切れた人が刃物三昧でもすれば聴きません、松さんも元は武士《さむらい》だから黙っては居りません、お互いに男同士で切り合って、松さんがまた茂之助さんに傷でも付けまいものでも有りませんから、それだけはお断り申して置きます」

        十七

くの「はい、それが心配《しんぺえ》でござります、そんだから苦労でござりますから、斯うやって此処《こけ》え参《めえ》ったのです、どうか軽躁《かるはずみ》な事をして参《めえ》るような事がござりましたら、松五郎さんも腹も立ちましょうけれども私《わし》や年寄子供に免じて下すって、私らを可愛相と思って、そこだけ御勘弁なすって……時経ってまた意見を致す事もござりますから、何うぞお願で、お瀧さん」
 と田舎|気質《かたぎ》の正直に手を突き、涙ぐんで頼むので、流石の悪婦も気の毒に思い、
瀧「まア私の一了簡にも往《ゆ》きませんから、福井町の店受《たなうけ》の処《とこ》へ往って松さんが遊んで居ますから、私は是から行って呼んで来ましょうから、松さんにお前さんが逢って頼んで下さい、ね、そうして相談ずくに致しましょう、私も気味が悪い、松さんは留守勝だから無闇な事をして刃物三昧でもされると困りますから」
くの「私《わたし》もお目にかゝって是非お頼み申しやすが、貴方《あんた》からも能くお話なすって……年寄も居りますが、私《わし》も機織奉公に参《めえ》りまして、それが縁になって嫁《かたづ》きましたのだから、誠に私《わし》が中へ這入《へえ》って困りやすから、どうかお願いで」
瀧「宜うございます、私が往って来ます……アノ明けッ放して置きますから、貴方《あんた》さん少し留守居をして下さい」
くの「はい、宜しゅうござります、お留守いたします、帰ってお茶でも上る様にお湯をかけて置きます」
瀧「じゃア私は一寸《ちょっと》往って来るから、アノ子供衆に乳でも呑まして緩《ゆっ》くりしておいでなさい」
 と台所へ立って、ぶら提灯を提げて、福井町までは近い処でございますから出て往《ゆ》きました。すると秋の空の変り易く、ドードーッと一|迅《じん》吹いて来ます風が冷たい風、「夕立や風から先に濡れて来る」と云う雨気《あまけ》で、頓《やが》てポツリ/\とやッて来ました、日覆《ひよけ》になった葦簀《よしず》に雨が当るかと思ううちに、バラ/\と大粒が降って来ました。あゝ降出して来て困るだろうと思って居ると、ドーと吹込む風に灯取虫《あかりとり》でも来たか行灯《あんどう》の火を消して真暗《まっくら》になりましたから、おくのは手探りで火打箱は何処にあるかと台所へ探しに参った。其の頃はまだマッチは田舎では用いません、火口箱《ほくちばこ》を探しに参りますると、雨は益々《ます/\》烈しくドッ/\と吹降《ふきぶり》に降出して来る。赤城の方から雷鳴《かみなり》がゴロ/\雷光《いなびかり》がピカ/\その降る中へ手拭でスットコ冠《かむ》りをした奧木茂之助は、裏と表の目釘を湿《しめ》して、逆《のぼ》せ上って人を殺そうと思うので眼も暗《くら》んで居《お》る。裏手へそっと忍んで来て見ると、ピカ/\とさし込む雷光に女の姿が見えたから、お瀧が彼処《あすこ》に居《お》ると心得、現在我が女房とも知らず、引抜いた一刀を持って飛掛かった。おくのは真暗闇に人が飛掛かったから驚き、
くの「何方《どなた》か」
 と云う声も雷鳴《らいめい》の烈しいので聞えません。素《もと》より逆せ上った茂之助ゆえ無慚にも我が女房おくのが負《おぶ》って居《お》る乳呑児の上から突通したから堪りません。おくのは
「アッ」
 といって倒れた。茂之助は乗っかゝって、
茂「此の悪党思い知ったか」
 と力に任して二ツ三ツ抉《こじ》りましたから、無慙にもおくのは、一歳《ひとつ》になるお定を負ったなり殺されました。
茂「あゝ……畜生め……あゝ能くも/\己に耻をかゝしたな、足利ばかりの耻ッかきじゃアねえぞ前橋の友達ま
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