茂「耐らないとは何んだ…」
たき「私はもう縁が切れて見れば赤の他人だよ、その他人へ失敬な事を云うと肯《き》かないよ」
茂「失敬も何も有るものか」
 と腹立紛れに突然《いきなり》お瀧の髻《たぶさ》を取って引倒す。
たき「何をするんだえ、お前」
茂「何もねえもんだ、殺して仕舞うのだ」
 と互いに揉み合って居たが、やがて茂之助はお瀧を組み伏せ、乗し掛って拳を振り揚げ、五つ六つ打《ぶ》って居る処へ村上松五郎が帰って参りました。

        十二

 村上松五郎は此の体《てい》を見るより飛掛り、茂之助の髻《たぶさ》を取って仰向けに引倒し、表附の駒下駄で額の辺を蹴ったからダラ/\と血が流れるを、
松「やい手前《てめえ》も愛想の尽きた女だから金まで附けて手を切ったんだろう、何をするんでえ、僕の妻に対して失敬な事をすると免《ゆる》さんぞ、僕の妻を捕まえて無闇に打擲《ちょうちゃく》する事が有るかえ」
茂「僕の妻も無《ね》えもんだ……やア己の頭を割りやアがったなア」
 と口惜しいから松五郎に喰《かぶ》り附きに掛ると、松五郎は少しく柔術《やわら》の手を心得て居りますから、茂之助の胸倉を捕《とら》えて押して往《ゆ》きますと、彼《あ》の辺には所々《ところ/″\》に沼のような溜り水が有ります。これは水溜《みずため》で、旱魃《かんばつ》の時の用意でございます。茂之助は其の水溜の沼のような処へポンと仰向けに突き落され、もんどりを打って転がり落ち、ガブ/\やって居るを見て、二人とも嘲笑《あざわら》いながら帰って参り、
たき「私を厭という程五つ打《ぶ》ちやアがったよ」
松「打たれながら勘定をする奴もねえもんだ、今度来やアがると只ア置かねえ、本当に彼奴《あいつ》は狂人《きちげえ》だ、ピッタリ表を締めて置け」
 と云う。此方《こちら》は茂之助が泥ぼっけになって沼から這上りましたが、松五郎に踏んだり蹴たりされたので、身体も思うように利かず、
茂「あゝー残念だが何うする事も出来ねえか」
 と善《よ》い人だけに逆《のぼ》せ上り、ずぶ濡れたるまゝ栄町の宅へ帰り、何うやら斯うやら身体を洗い、着物を着替えたが、袂《たもと》から鰌《どじょう》が飛出したり、髷の間から田螺《たにし》が落《おっこ》ちたり致しました。
茂「もう只ア置かねえ、彼奴等《あいつら》を殺して己も其の場で腹を切って死ぬより他に為《し》ようは無い」
 と無分別にも善い人だけに左様な心得違いを思い起しましたが、差料の脇差を親父が渡しませんから、何うかして取りたい、是は女房を頼んで取るより外《ほか》に仕方が無いと、往《ゆ》き難《にく》いけれども勘忍して、丁度午後三時少し廻った時分でございましょう、恐々ながら江川村へ這入りました、此処から我家《わがや》に近いから、寺の門の下に立って居たら子供でも出て来やアしないかと思って居ります処へ、布卷吉と云う七歳になる、色の白い、下膨れな可愛らしい子供が学校から帰りでチョコ/\と向うから出て来たのを見附け、
茂「おい布卷吉」
布「いやアお父《とっ》さん能く来たねえ、お母《っか》さんがね案じて居るよ」
茂「あい……誠にお父さんは面目ないから、お前からお母さんに詫言《わびこと》を云ってくれ、お祖父《じい》さんは何うした」
布「アノ祖父《おじい》ちゃんはね、恐ろしく怒ってるよ、お祖父ちゃんはね、アノ彼《あ》んなやくざな者は無い、駄目だって、アノ芸妓《げいしゃ》や何かに、アノ迷って、アノ此んな大切《だいじ》なお金を費《つか》うようなものは愚を極《きわ》めたんだって、それだから迚《とて》も此の身代は譲れないから、汝《てまえ》の親父は寄せ附けないって、アノ坊が大きくなると此の身代は悉皆《みんな》坊にやるから、彼奴を親と思うじゃア無い、お母《っかあ》ばかり親と思って勉強しろってね、それから学校へ往《い》くの」
茂「私《わし》はお前のお祖父さんにもお母《っかあ》にも面目無い、私はもう縁が切れて居るから他人のようなものだが、只《たっ》た一目お前のお母に逢って詫言《わびごと》を為《し》たくって、お父さんは態々《わざ/\》忍んで来たんだが、ちょいと内証《ないしょ》でお母を呼び出してくんな」
布「呼び出せってお母は来やアしないよ、お父さんに内証で逢うと、然《そ》うするとアノ誰も彼も家《うち》に置かないとお祖父ちゃんが然う云ってるのだから、お母さんに来いたって、お父さんには逢えないよ」
茂「それは然うでも有ろうけれども、お祖父さんに内証《ないしょう》でお母に逢い、一言詫がしたいんだ、お父さんは最う悉皆《すっかり》眼が覚めて、本当に辛抱人に成ったと然う云って、ちょいとお母さんを呼んで来てくれ」
布「だってお祖父ちゃんに叱られるもの、愚を極めた者に逢うと此方《こっち》も愚になるから逢うなと然う云ったもの」

        十三

茂「お前は俄かに怜悧《りこう》に成ったの、年が往《い》かなくって頑是《がんぜ》が無くっても、己が馬鹿気て見えるよ、ハアー衆人《みんな》に笑われるも無理は無い」
 と差俯向《さしうつむ》き暫らく涙に沈み居たるが、漸く気を取直して面《おもて》を擡《あ》げ、袂から銭入を取出し、
茂「こゝにお銭《ぜゝ》が有るからお前に遣る、もう私は要らないから是だけ悉皆《すっかり》お前に遣るから、これをお父さんの形見だと思って、これでお母さんに何か買って貰いな」
布「イヤー大変にくれたね、今までは何処へ往ってもお土産《みや》を買って来てくれた事は無いが、そのお銭は皆《みん》な芸妓《げいしゃ》に入り揚げちまって、女郎買の糠味噌《ぬかみそ》が何うとか為《し》たって然《そ》う云ったよ、今度坊にお銭をくれるようではお父さんも辛抱人に成ったんだろう」
茂「お祖父さんに然う云ってはいけないよ、お父さんの来た事が知れると、あの通りやかましいから、お祖父さんに内証《ないしょ》でお母を呼んでくれ、私《わし》に逢ったと云うではないよ、あのざま[#「ざま」に傍点]の処から、内証《ないしょ》で呼んでくれ」
布「じゃア内証で往って来るよ」
 何心なく頑是なしに走って参り、織場へ往って見ますると、おくのは夜は灯火《あかり》を点《つ》けて夜業《よなべ》を為《し》ようと思い、襷掛《たすきが》けに成って居る後《うしろ》へ参り、
布「お母さん/\」
くの「何んだよ、昨日《きのう》も学校から帰ると日暮方まで遊んでいたが、余《あんま》り表へ出ねえようにしな、何んだよ」
布「あのね、お父さんが来たよ」
くの「え……何処へ」
布「あのね内証《ないしょう》でお母さんに逢って詫言をしたい、辛抱人に成ったてえが、本当に成ったかも知れないよ、内証でお母さんに逢いたいって坊に斯様《こんな》にお銭をくれたよ、お銭をくれるくらいだから辛抱人に成ったかも知れないから、お前逢ってお遣りな」
くの「逢いたいってお祖父さんがに知れると、でけえ小言が出るが……決して云うじゃアねえよ、黙って居なよ、然うして少し此の機を気イ附けて居ろ、蚊遣火《くすべ》が仕掛けて有るから」
 と夫婦の情で逢いたいから、直《すぐ》に飛出して往《い》こうかとは思ったが、一歳《ひとつ》になるお定《さだ》の顔を見せたいと思いまして、これを抱起して飛んで参り、
くの「おやまア貴方《あんた》は何うしておいでなせえました」
茂「あい誠に面目次第も有りません」
くの「お父さまが物堅くって家《うち》へ寄せ附けないと云っても、おくのが附いて居ながら、事の済んだ暁には何とか詫言をして家へ出這入りの出来るように為《し》そうなものだ、それとも私がお父さんに悪く取做《とりな》しでもして居や為ないかと、貴方《あんた》が腹でもたてゝいやアしないかと、そればっかり心配して居やしたよ」
 と云われて、流石《さすが》の茂之助もおくのの貞実に感動され、暫く泣き沈みました。
茂「アノー誠に何うも面目次第もない、もう此処が辛抱の仕処《しどころ》だから、私《わし》は一生懸命に稼いで親父に確《しか》とした辛抱の証《しょう》を見せて家《うち》へ帰る積りだが、もうあの女には懲々《こり/\》したから真面目になって夫婦仲善く可愛いゝ子の顔を見て暮そうと云う心になったよ、併《しか》し只辛抱するったって親父が中々得心しまいから、横浜へ往って、少し商売の取引の事が有るから往《い》く積りだ、これまで私は馬鹿を為《し》て拵えた借財をお前が内証《ないしょう》で払ってくれた借金の極りも附けなければならないから、是非横浜へ往きたいのだが、何うも身装《みなり》が悪いと衆人《ひと》の用いが悪いから、羽織だけは他《わき》で才覚したが、短かい脇差を一本お父さんに内証で持って来てくれねえか」

        十四

くの「脇差なんぞを差さねえでも宜《い》いじゃア有りませんか」
茂「脇差を差さねえと人の用いが悪いのだから持って来てくんな」
くの「お定がこんなに大《でか》く成りやしたよ、ちょっくら抱《でえ》て遣っておくんなせえ」
茂「じゃア己が抱いて居るから持って来ておくれ」
くの「あんた、大分《でえぶ》顔の色が悪いが、詰らねえ心に成ってはいけませんよ、一人のお父さまを見送らねえ中《うち》は貴方《あんた》の身体では無《ね》えから、譬《たと》え何《ど》んなに厳《やか》ましいたって、お父さまが塩梅《あんべえ》が悪くなって、眼を引附《ひきつ》ける時に来て死水を取れば、誰が何と云っても貴方の家《うち》に極って居るから、腹の立つ事も有りましょうが、子供や私《わし》に免じて何うぞ軽躁《かるはずみ》な事を為《し》ねえようにしてお呉んなせいよ」
茂「はい/\……決して軽躁は為ない、是までは殺して仕舞おうかと思った事も度々《たび/\》有ったが、お瀧の畜生に騙されて、子供の傍へ来る事も出来ねえ身の上になったが、彼《あ》ん畜生|余《あんま》りと云えば悪い奴だけれども、さっぱり縁を切って仕舞ったから、彼奴《あいつ》は松五郎と夫婦になったし、もう何も彼奴に念は無いから其処《そこ》に心配は有りません」
くの「それでも能く思い切ったね、勘弁する時にしねえばなんねえが、それも是も子供や私《わし》に免じて勘忍したで有りましょうが……おや貴方《あなた》の頭《つむり》に疵が出来てるのは何う為《し》やした」
茂「此の間中|独身者《ひとりもの》で居るから、棚から物を卸そうとすると、砂鉢《すなばち》が落《おっこ》って此様《こんな》に疵が付いたのさ」
くの「あらまア然《そ》うかね、危ねえ、定めて不自由だろうと思っても、近い処《とこ》だが往《い》く事も出来ないんだ、……然んなら私《わし》が脇差を持って来るからお定を抱いて居ておくんなさいよ」
茂「泣くといけねえから成《なる》たけ早く」
くの「はい、直《じき》に往って参《めえ》りますよ」
 と是から家《うち》へ帰り、親父に知れぬように脇差をこっそり持って来て茂之助に渡しました。
茂「有難う/\……さア、お定は少し泣いたよ」
くの「誠に御方便なもので……布卷吉は何うやら一人学校へ参《めえ》りますし、私《わし》はお定を寝かし付けて、出来ない手で機を織って些《ち》っとずつ借金を埋めて置くように為《し》ます、悪《わり》い跡は善《よ》いだアから貴方《あんた》も気を落さずに身体を大切《でいじ》にして下せえまし、何事も子供と年寄に免じて勘忍しておくんなさいよ」
茂「あい……あいお前のような貞実な女房を余所《よそ》にして悪党女に騙されて迷ったのは、己の身に罰《ばち》が当ったのだが、何うぞ私《わし》の留守中親父を頼みます、宜《い》いかえ、私は是から一旦栄町へ帰って直《すぐ》に立つ積りだ」
くの「お茶でも上げたいが往来|中《なか》で」
茂「なに、お茶も何も飲みたくはない、留守中おくの身体を大切《だいじ》にしなよ」
くの「はい、貴方《あんた》が横浜から帰って来たらば、ちょっくら栄町の家《うち》を訪ねますから」
茂「あいよ、子供を頼むよ」
 と何も彼《か》も人情が分って居ながら、諦めの附かんと云うものは因縁の然《しか》らしむる処でもございましょうが、茂之助は松五郎お瀧の二人を
前へ 次へ
全29ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング