「はい…それじゃア貴方御免遊ばして」
 と好《い》い程に其の場を外して下婢《かひ》は下へ降りて仕舞いました。治平は少し色気がありまして、何となく間が悪いから煙管で腮《あご》の処を突衝《つッつ》いて見たり、くるりと廻して頬辺《ほッぺた》へ煙管の吸口を当てたり、ポン/\と叩いて煙草ばかり喫《の》んで居ります。
女「貴方は何でございますか、前橋の何と云う処で」
治「ヘヽ竪町と云うごた/\して居ります処で」
女[#「女」は底本では「治」]「お盛んな大層|好《い》い処だそうで……貴方は御新造さまをお連れ遊ばしませんのですか」
治「家内は無いのです、手前の妻《さい》は五年|前《ぜん》に歿しまして、それからは独身《ひとりみ》で居ります、へえ、至って手狭ではありますが、些《ちっ》とお立寄を願いとうございます」
女「はい……まだ私は参った事はありませんから一度見物したいと思って居りますが、お寄申して万一《ひょっと》奥さんか又権妻さんでもいらしって、お悋気《りんき》でもあるとお気の毒だと存じまして」
治「いえ家内は全く無いのでございます、尤も世話をして呉れるものもありましたが、長し短かしで何うも善《よ》いのがありませんから独身《どくしん》で居りますが、却って気楽でございます」
女「それはマア好《よ》いお身の上で……貴方のようなお方の御新造になる方は本当にお仕合せで」
治「へゝ、なに仕合せでもありますまい、何うもヘヽ誠に不粋な人間で何も心得ませんからなア……貴方さまもお一方で、お子供|衆《しゅ》はございませんか」

        六十九

女「はい子供はございません、親類が深川に居りまして、これが銀行へ出ますので、私は其の方《ほう》へ引取られて参るより他に仕方のない身の上でございますが、疾《と》うッから嫁付《かたづ》け/\再縁しろと申しまして、兄が申すには官員は忌《いや》だから遣らない、商人《あきんど》が一番|好《い》いが、何《な》んなら他県で堅い商人であって、横浜へ来て取引をするような田舎の商人の方が、田地なども持って居て身代が堅いから、然《そ》う云う処へ縁付けたいと夫《そ》ればかり申して居りますが…何処かに好い口があったら縁付けると兄が申すので」
治「へえーなアる程……実は東京《とうけい》も盛んな処《とこ》でげすが、また手堅い処《ところ》へ参っては田舎の方が手堅うございますからな、へえー成程お世話ア致しましょうか」
女「お世話たって私のようなものですから、誰《たれ》も貰ってくれる人がありませんもの……貴方は本当に奥さんがありませんか」
治「本当にありません、真実でげす、本当にないから無いと申上げましたので」
女「貴方はまアお調子が好過《よす》ぎますよ……ま一杯お酌を致しましょう……何んですね……私の様なものだってサ、本当に貴方のような結構なお身の上はありませんね」
治「なに余り結構じゃアございません」
女「巧く云っていらっしゃるよ」
 と治平の手首を握るを振払い、
治「ヘヽエ御冗談なすっちゃアいけません」
女「好《い》いじゃアありませんか、貴方本当にお独身《ひとかた》ですか」
治「へえ……」
女「私は当家へ参りましてから、貴方の在《い》らっしゃるお座敷ばっかり見て居りましたことを御存じですか」
治「ヘヽ何かどうも、飲酔《たべよ》いまして誠にどうも」
女「飲酔ったっても私は嘘は云いませんが、貴方は本当にお罪だと思いますよ」
治「其様《そん》なことを仰しゃると、私《わたくし》は田舎者ですから本当に為《し》ますよ」
女「嘘にされると却って腹が立ちますが、私のようなものでも貴方本当に貰って下さると仰しゃるなら、直《すぐ》に兄の方へ話しを致しますが、本当ですか」
治「奥さん本当だって……貴方はそりゃア真実に仰しゃるんですか」
女「私に嘘はありませんが、貴方《あんた》が真実なら何うか確《しっ》かとした貴方のお心の証拠が見とうございます」
治「心の証拠と仰しゃっても別に何もありません、と云って、まさか髪を剪《き》るの指を切るのと云う訳にも往《ゆ》きませんが」
女「女の口から此の様な事を云い出すは能々《よく/\》の事ですからよう」
治「ようたって……私《わたくし》にも何うして好《い》いか分りません」
女「何うしてって、貴方《あんた》のお心の証拠をさ」
治「いえ決して私《わたくし》は嘘を吐きません、神かけて嘘は云いません、若《も》しお疑りなさるなら、書付でも何んでも証拠を上げます、へえ」
女「本当に貴方《あんた》然《そ》うなんですか」
 と少ししなだれ掛る途端にガラリと障子を開け、スーッと立った男は鬚《ひげ》の生えて居る、眼のギョロリとした、鼻の高い、年紀《としごろ》三十四五にも成りましょうか、旅行《たび》洋服で、一方の手には蝙蝠傘とステッキとを一緒に持ち、片手には鞄を提げて居るを見て治平は驚きましたから、俄《にわ》かに飛退《とびの》き両手を突き、
治「これは入らっしゃいまし……何方《どなた》かお客さまが」
 と云われて女も驚きまして飛退きますと、
男「此の始末はマア何う云うもんか、呆れて仕舞《しも》うたなア……僕が僅かに十日|許《ばか》り東京《とうけい》に参って居た留守の間に、隠し男を引入れるとは実に怪《け》しからん事じゃ……これ密夫《みっぷ》貴様は何処の者《もん》じゃ」
 といわれて治平は「はてな此の人は銀行に出ると云った阿兄《あにき》か」と思いましたが、彼《か》の女に向い、
治「此れは何処のお方で」
女「はい、貴方に対しては誠に済みませんが、私の良人《つれやい》でございますよ」
治「えゝ……御亭主」
 と治平は真青《まっさお》になりブル/\慄え出すを見て、ガラリと鞄を投《ほう》り出し、どたアりと大胡座《おおあぐら》をかいて、隠《かくし》からハンケーチを取出《とりいだ》し、チンと涕《はな》をかんで物をも云わず巻煙草に火を移し、パクーリ/\と喫《の》みながらジロリ/\と怖い眼で治平の顔を見るばかり、此の時桑原治平の驚きは一方《ひとかた》なりません。此の者は谷澤成瀬《たにさわなるせ》と申す青山信濃殿町の官員でございます。

        七十

 彼《か》の洋服打扮《ようふくでたち》の人がスッと這入って来ました時には、桑原治平も驚きました。丁度今風呂に這入って来ましたお文と云う女中が、湯から上って来て此の体《てい》を見て恟《びっく》り致し、一旦座敷へ這入ったが次の間から再び出かゝるを目早く見付け、
成「コラ/\……コラー何処へも往《い》かんでも宜しい、其処に居れ、跡をピッタリ閉《た》って其処に坐って居れ……さ高《たか》これは何うか、ウーン此の始末は何う云うもんじゃ……貴方は何処の者《もの》じゃ、えゝ……貴公は何《いず》れの者か姓名をお聞き申したい、僕は東京《とうけい》青山信濃殿町三十六番地谷澤成瀬と申すものじゃが、貴公の姓名をお聞き申そう」
治「へえ/\手前は前橋竪町の商人桑原治平と申します」
成「コレ高、己が五日か十日の間東京へ往ってる間《ま》に斯う云う密夫を引入れて、此の為体《ていたらく》は何う云うものか、実にどうも何とも何うも言語道断の仕末じゃアないか、お前は僕に斯《か》くまで恥辱を与えたからには、僕も此の儘では捨置く訳にはいかん」
高「はい重々私が悪うございますけれども、此の治平さんと云うお方には些《ちっ》ともお咎《とが》はないので……貴方の有る事を申せば遊びにも入らっしゃいませんから、私は孀婦暮《やもめぐら》しのものだ、亭主はない身の上だと申しましたから遊びに入らしったのでございます、が、何も訝《おか》しい事のあったと云う訳ではございません、併《しか》し斯うなる上は何も彼《か》もお隠し申しは致しません、実は私も此のお方を嗜《す》いたらしい好《よ》いお方だと思いました了簡の迷いから、私の方で無理に入らしって下さいとお勧め申して引入れたのでございますから、此のお方には少しも悪い事はありません、重々私が悪いのですから、貴方の思召通《おぼしめしどお》りお手討にでも何でもなすって下さいまし」
成「ムー……それは女の方が悪いのじゃろう、訝しな眼遣いをするか、私の方へおいでなさいと云うか、何か怪しからん挙動《そぶり》がなければ、そりゃア男の方から無闇に主有る女の処《とこ》へ這入って来るものではありません……じゃが仮令《たとえ》婦人の方で此方《こっち》へ来いと招いても、主ある者と席を倶《とも》にすると云うのは、治平殿|貴方《そなた》も心得てなすったので有ろうが、君も前橋では立派な商人《あきゅうど》じゃと云う事だが、実に此の上ない不品行な事じゃアないか」
治「へえ…それでは貴方が此のお方の御亭主さんで」
成「左様」
治「これは何うも心得ませんでしたが、奥様《おくさん》の仰しゃるには御亭主はない、とこう仰しゃってでございました……がそりゃア困りましたね、何うも貴女《あなた》、然《そ》う云う嘘をお吐きなすっては私が迷惑いたしますからな」
成「今に成って兎や角云ったとて跡へは還らん事じゃのう、僕は詰らん者でも、マ幾らか官職を帯びて居《お》る者《もん》じゃ、亭主の留守には宅に居る下男といえども、家内と席を倶《とも》にせんと云うのが女子《おなご》の道じゃ、然《そ》うなければ家事不取締の譏《そしり》は免がれん事じゃ、僕も御用に付いて他府県へ出張する事もあり、又は洋行をもする、其の長い間、三年でも五年でも僕の留守中まさか禽獣《とりけだもの》じゃアなし、鎖で繋ぎ置く事も出来ん、併《しか》し斯う云う心掛の悪い女子《じょし》なれば、僕じゃとて決して連添って居《お》る事は出来んから即刻離別して、戸籍は後《あと》から送る事に致そうが、マ何うも主ある身の上でありながら、密夫を引入れるなどと云う事がありますか、左様な事を知らん其方《そなた》でもあるまいが、余程此の人を想うて居《お》るに相違ない……治平殿、此の高と云う女を引取り、女房にして遣る心か、但し斯う遣って遊びに来て居《い》る中《うち》の慰みものにする気か、亭主のあるものとは知らんと云いなさるが、風体《ふうてい》を見たって大概分ろう、是が茶屋女や芸者じゃアなし、宿帳《しゅくちょう》を検《あらた》めんと云うのは不都合じゃアないか、併し貴公も手を出したからには万更《まんざら》気に入らん訳でもあるまいから、真に貴公の妻《さい》に致して呉れるなら、改めて僕が離別して実家へ沙汰をするから、貴公の方で此婦《これ》の実家へ貰いに往《い》けば話も早く纒《まと》まって、少しも手間の要らん事《こっ》ちゃ、見合も何も要らん訳じゃが、何うか」

        七十一

治「へえ…左様でございます、貴方の方で全く愛想が尽きて御離縁に成りまして、此の御内室が御実家へ帰る事になれば、此の方から御実家へ話をしてお貰い申すかも知れませんが、何も枕を並べた訳じゃアございません、其処へお帰りがあって私を密夫に落されては甚だ残念でがすからな」
成「残念だって女の首筋へ手を掛けて抱締めた処《とこ》へ僕が帰って来て、障子を開けたればこそ離れたのであろうが、然《そ》う云う事を云って何処までも情を張れば、止むを得ず公然《おもてむき》にするばかりだ、けれども然《そ》んな事を為《し》ちゃア僕も此の上ない恥辱じゃから、敢《あえ》て好みはせん、好みはせんが貴公の出ように依って之を公然《こうぜん》にすれば、云わずと知れた重禁錮、貴公に土を担《かつ》がせる事を好みはせんが、止むを得ん、何うだえ」
治「へえ……私も決して好みは致しません、何うかソノ内分《ないぶん》のお計《はから》いが出来ますれば願いたいもので」
成「ウン然うせんければ僕も実に此の上ない恥辱じゃアないか、若《も》し此の事が人の耳に這入って、明日《あす》にも新聞紙上へでも出るような事があっちゃア僕も勤《つとめ》は出来ず、何うしても職を辞さんければならんから、今霄《こよい》の中《うち》直《すぐ》に僕は此者《これ》を一旦連れ帰って、前橋から高崎まで下《さが》って、それから実家へ帰る積りだ、離縁のうえ籍を送ったら、治平殿貴
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