郎と云うお瀧の情夫《いろおとこ》で、其の時分は未だ髷が有りました。細かい縞の足利織では有りますが、一寸《ちょっと》気の利いた糸入の単物《ひとえもの》に、紺献上の帯を締め、表附《おもてつき》のノメリの駒下駄を穿《は》き、手拭を一寸頭の上へ載せ、垣根《くね》の処から這入って往《い》く後姿《うしろすがた》を見て、
茂「むう松五郎か、来たな汝《うぬ》」
と息を屏《こら》して中へ這入る様子を見て居りますると、ガラ/″\と上総戸《かずさど》を開けると、土間口へお瀧が出迎い、
たき「お這入りなさいよ」
と坐敷へ上げました。お瀧は情夫に逢うのだから嬉しい、夜《よ》に入《い》れば少し寒うございますなれども五月|上旬《はじめ》と云うので、南部の藍《あい》の子持縞《こもちじま》の袷《あわせ》を素《す》で着て、頭は達磨返《だるまがえし》と云う結び髪に、*平《ひら》との金簪《きんかん》を差し、斑紋《ばらふ》の斑《ふ》の切れた鬢櫛《びんぐし》を横の方へ差し、年齢《とし》は廿一でクッキリと灰汁抜《あくぬけ》の為《し》た美《よ》い女で、
たき「何うしたえ、私の手紙が往違《いきちが》いにでもなりやアしないかと思って何んなにか心配したよ」
松「宜《い》い塩梅《あんばい》に僕の手に這入ったが、家主《やだま》ア東京へ往ったじゃアねえか」
たき「宜いよ。私は本当に案じたよ、お前の来ようが遅いから待ちぼけは詰らないと思ってたが能く来たね、何ね少しお金の出来る事が有って東京へ往ったんだが、一体|才覚《はたらき》の無い人だから出来る気遣《きづかい》は無いよ、誰がおいそれと金を貸す奴があるものかね、屹度《きっと》出来やア為《し》ないが、二百両借りて来ると云ったから十日や十五日は帰るまいと思うよ、□□□□、□□□□□□□□□□□」
松「だって体裁《きまり》が悪くて成らねえんだ、親指《これ》が感附きゃア為《し》ねえか知ら」
たき「大丈夫だよ、彼《あ》んなでれすけだから気の附く気遣は有りゃア為ませんよ」
と云うひそ/\話を窓の下で聞いて居りました茂之助は腹を立て、
茂「己の事をでれすけ呼《よば》わりをしてえやアがる、罰当り奴《め》、前橋の藤本で手を合せて、私を請出して素人にしておくんなさる此の御恩は忘れないと云やアがった事を忘れたか」
とグーッと癇が高ぶって来ると、額に青筋を現わし、唇を慄《ふる》わし、踏込《ふんご》もうかと思ったが、いや/\二人枕を並べて居る処へ踏込まなければ遣り損うと思いましたから、尚おそっと窓の下に茫然《ぼんやり》立って居ると、藪蚊と毒虫に螫《さゝ》れるので癢《かゆ》くて堪りませんから、掻きながら様子を立聞をして居ました。
* そろばんがたの、すかしのあるかんざし、この頃流行せしもの。
七
たき「何んにも無いが、魚屋に頼んで置いたら些《ち》っとばかり赤貝を持って来たからお食《あが》りな」
松「何んだか何うも心配だなア」
たき「大丈夫だよ、お前が前橋へ来た時には私は貧乏して居たが、縁と云うものは妙だね、私が芝居町で芸妓《げいしゃ》をして居た時分に、まだ私が十五六で雛妓《したじっこ》で居た時分からお前さんに岡惚をして居て、皆《みんな》に嬲《なぶ》られて居る中《うち》に、一度が二度逢引をすると、其の時分には幾ら私が惚れたッてお前さんは未だ殿様株で、立派な気の詰るような人でありましたが、思う念も遂げられたけれども、それがため借金が出来て、此様《こん》な田舎へ出稼《でかせぎ》するような身になって、前橋に居た時にもお前さんに逢いたいばかりで、厭だけれども茂之助を金持だと思って来て見れば、矢張《やっぱ》り金は有りゃアしないんだアな、彼《あ》の時は有る振りをしていたから、此の人に取っ掴《つか》まって居たら、またお前さんに逢える時節も有ろうかと来て見ると、立派な女房も有るんだよ、是まで余《あんま》り道楽をしたとか云うので、実家《うち》へも帰られないので此様な汚ない空家を借りて世帯《しょたい》を持たして、爺むさいたッてお前さん茅葺《かやぶき》屋根から虫が落ちるだろうじゃアないか、本当に私を退《ひか》したって亭主振って、小憎らしいのだよ、此間《こないだ》の晩も種々《いろ/\》話したいことが有るんだけれども出来ないと云うのはね、茂之助が、寝て居て鼾は掻くが時々動いたりバタ/\したりして気味が悪いから、じっと我慢をして居たが、本当に松さん居難《いにく》いと思っておくれ、お前に逢って斯う云う訳に成ったら、茂之助が厭に成って何か彼奴《あいつ》に云われると、本当に身の毛立つほど厭なんだよ、併《しか》し大金を出して、私の身を請出してくれた恩が有るから、黙って居るけれども、実は厭なんだよ、私は半年でもお前さんと夫婦に成らなけりゃア置かないよ、若《も》し夫婦に成れなければ寧《いっ》そ死んで仕舞う積りだよ」
と話して居るを聞き、茂之助は一層怒りを増し、
茂「畜生め/\芝居町にもと居た時分からくッついて居やアがったんだ、己と口をきくのも厭だてえやアがる、うーむ彼奴に逢いてえばッかりに己をお客にして騙《だま》しやアがッて、畜生めむうー」
と余《あんま》り腹が立つと鼻がフー/\鳴るから、自分で鼻を押え、猶《なお》も身を寄せて立聞くとも知らず、
たき「ちょいとこれを喰《た》べて御覧よ、□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□、お前に逢うと、何んだか私は我儘になって変になっちまうんだよ、と云って此家《こゝ》を出る訳にも往《ゆ》かず、何うかして茂之助が死ねば宜《い》いと思って居るのに、中々|悪達者《わるだっしゃ》で死なゝいのだよ、此間《こないだ》もお腹《はら》が甚《ひど》く痛むと云うから、宜い塩梅だ、コレラに成るのかと思ったと云うは、悪いお刺身の少しベトつくのを喰べたから、便所《ちょうずば》へ二度も往《い》きゃア大丈夫だと思ってると一日経つとサバ/\熱が取れて薩張《さっぱ》り癒《なお》って仕舞ったから、私はがっかりして仕舞ったのさ」
茂「畜生、亭主の病気が癒ってがっかりする奴が有るものか」
ともう耐《こら》え兼ねて、短い脇差へ手を掛けて抜き掛けて土間口から這入って来るとも知らず、奥では一盃飲みながら松五郎の膝へもたれ掛り、
たき「□□□□□□□□□□□□□□□」
と、一盃の酒を飲み合い、もたついて居るのを見たから堪りません。平素《ふだん》温和《おとな》しい善《よ》い人の怒《おこ》ったのは甚《ひど》いもので、物をも云わずがらりと戸を開けて中へ飛込み、片手に抜身《ぬきみ》を提《さ》げて這入ると、未だ寝は致しません、お膳の前でピッタリ寄添って酒を飲んで居る処へ飛込んだから、少し間合が早かったけれども、我慢が出来ませんから松五郎を目懸けて斬り込むと云う、此の事が騒動の始まりでございます。
八
東京でも他県でも色恋の道では随分自分の身を果します、間男をされて腹を立てぬものは、一人もございません、男同士でも交情《なか》が善《よ》くって手を曳合《ひきあ》って歩いても、他《わき》の人とこそ/\耳こすりでもされますと男同士でも嫉妬《ちん/\》を起して、彼《あれ》は茂山《しげやま》氏の傍《そば》へばかり往って居る、一体|彼奴《あいつ》は心掛けが宜くない、軽薄を以て彼《あ》の方《ほう》へ取附こうと云う考えだろう、などと詰らない事を云って怒《おこ》ります。同じようなお膳が出まして鯛の浜焼が名々《めい/\》皿に附いて出ましても、隣席《となり》の人の鯛は少し大きいと腹を立て、此家《こゝ》の亭主は甚だ不注意|極《きわ》まる、鯛などは同じように揃ったのを出せば宜《い》いんだ、と云っても然《そ》う揃ったのは有りません。また隣で蔵でも立派に建てますと、何うだえ此の頃は忌《いや》にぎすついて来たが、成上りてえものは宜《い》けねえ者だ、旦那然とした面《つら》を為《し》やアがって、朝湯で逢っても厭に肩で風を切って、彼奴が蔵を建ったので丁度南から風の這入る処を、蔵の為に坐敷が暗くなっていけません、何|彼《あれ》だって好《い》い蔵じゃア有りません、毀《こわ》しか何か買って来たんでしょう、火事でも有りゃア直《じき》に火が這入ります、などゝ自分で建てる事が出来んとグッと込上げて参りますが、誰も此の嫉妬心《しっとしん》は離れる事は出来ませんものと見えます。況《まし》てや大金を出しまして連れて来たお瀧が、松五郎の膝へしなだれ寄って亭主の事を悪口《あっこう》を云うのだから腹の立つのも道理、茂之助は無茶苦茶に斬込んで来ましたから二人は驚き、お瀧は慌てゝ逃げ出《いだ》す。松五郎は旧《もと》は士族だけに腕に覚えの有る奴、素《もと》より剛胆の奴ゆえ左《さ》のみに驚きませんで、一歩|退《さが》って後《あと》に有りました烟草盆を取ってポカリと投げ附けると、茂之助の肩をかすッてパチリと柱へ当ると、灰は八方へ散乱致す、其の中《うち》にお瀧は一生懸命だから四巾布団《よのぶとん》を取って後《うしろ》から茂之助を抱き締めましたが、女の事で身丈《せい》が低いから羽がい締めと云う訳には参りません、脇の下をお瀧に押えられたが、茂之助は無茶苦茶に刀を振り舞しながら、
茂「間男見附けた、さア二人重ねて置いて四つにしようと八つに為《し》ようと己の了簡次第だ、間男見付けた」
と死物狂いの声で呶鳴《どな》り立てゝ、ピン/\と鼻へ抜けて出る調子で、精神《たましい》はもう頭へ上《のぼ》って居ます。松五郎は何か無いかと四辺《あたり》をキョロ/\探すと、巻手《まきて》と申しまする何か機織道具で、長《たけ》二尺ばかり厚み一寸も有ります巻手と云うものを取って打って掛る。
たき「誰か来ておくんなさいよ、家《うち》の良人《ひと》が大変でございますよ、人殺《ひとごろし》イ」
と云っても田舎の事ゆえ誰有って来るものは有りません。すると一軒|隔《お》いて隣に川村《かわむら》三八|郎《ろう》と云う者が居ますが、妙な堅いような耄《とぼ》けたような変な人でございまして、早く開化の道理を少し覚え、開化は宜《よ》いもんだと考えを起して居りますが、未だちょん髷が有りまして、一体何うも此の人は聞覚えの分らぬ漢語を交ぜて妙な言《こと》を云います、漢語と昔のお家流の御座り奉るを一つに混ぜて人を諭したり口を利くのが嗜《す》きな人でございます。処が今茂之助の家《うち》で女の声で、キイーキイー人殺しイと云うを聞き付け、捨置き難いと存じましたから飛び込んで見ると、茂之助が抜刀《ぬきみ》を振廻して居ます。松五郎を目懸けて打って掛るを抱き留め、
三「先ず待ち給え」
と云いながら茂之助の手を押え、
三「聊《いさゝ》か待ち給え、急《せ》いては事を為損《しそん》ずるから、宜しく精神《たましい》を臍下丹田《さいかたんでん》に納めて以て、即ち貴方ようく脳膸を鎮《おさ》めずんばあるべからず、怒然《どぜん》として心を静め給え」
茂「へえ有難う……ございますが、どうか放して下さい」
と云う。
九
茂「三八さん、誠にお恥かしい事でございますが、此のお瀧の畜生|奴《め》、間男を引摺込んで貴方私の事を悪口《あっこう》して居るのを私が聞くとも知らず、大それた枕を並べて寝に掛ったから助けちゃア置かれません、私だって素《もと》は御領主さまの家来で、聊《いさゝ》か御扶持《ごふち》も戴いた者ゆえ親父に聞えても私が顔が立ちません、名義が廃《すた》ります、ヘエ」
三「いや、御尤もの事だが、能く爰《こゝ》の道理を君|肯《き》かんと宜しく無いて、何《ど》のような事が有ろうとも僕が斯う遣って此処へ仲来《ちゅうらい》して、今君だちの困難を発明することは公然たる処を得たりと雖《いえど》も、お瀧どのが一体逃去ったる義で御座り奉つり候《そろ》、茂之助さんが大金を出《いだ》して身請に及び、斯《かゝ》る処の一軒の家まで求め、即ち何不足なく驚愕|安然《あんぜん》として居《い》られるのを有難く存じ奉る義と心得あるべからんに、密夫《みっぷ》を引入れてからに、何うも酒肴《さけさかな》を
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