此処の湯は癪に宜しいから、癪を癒しながら働きに来て居るので、働きと云うような身分じゃアないが、只病気には敵《かな》わぬから余儀なく働き、運動かた/″\斯うして居ると云うのではありませんか」
幸「そんな奴があるものか、鯉こくを持って来るぐらいに運動てえ事があるものか」
由「けれども……オヤ是れはお出でなさい」
女「誠に遅くなりました」

        四十

由「おや先刻《さっき》から待って居ました、遅くっても結構、鯉こく結構、これは不思議で」
女「これは誠においしくは御座いませんが、召上るように」
由「此方《こちら》の家《うち》からかえ」
女「いゝえ鈴木屋からで」
由「そうで、鉄火煮は恐れ入った……貴方の様な別嬪にお酌をして貰うのを楽しみにして来たので、貴方の居るのを知って来たので、貴方が居ないと伊香保から此処まで来はしません……貴方|苦笑《にがわらい》してはいけません、何うもお品が好うがすな、何か云うとこう苦笑いなどは恐れ入りますねえ」
幸「姉《ねえ》さん、此の人はお饒舌《しゃべり》で失敬な事を言うから腹ア立っちゃアいけません」
女「どう致しまして」
由「いや何うも此の鯉こくなどは……中々どうも恐れ入りましたね」
幸「鯉こくなどは此処へは良《い》いのが来る、信州から来るのは不良《いけねえ》のがあるという……これは結構……ウム鯉の鱗《こけ》などを引いたのア不思議で、鱗が些《ちっ》とも無いねえ」
女「へえ、これは鱗《こけ》は引いてありますから」
由「鯉の鱗なしは軟《やわら》かい、羊羹《ようかん》をしゃぶったようで、鯉の鱗なしは不思議で、こりゃア頂戴……鉄火煮は好《よ》うがす……ウム、ゴソ/\するのは何んです」
女「あの鯉の鱗を煮ましたので」
由「へえ、鯉の鱗を引いて鱗ばかり煮たの……ヘエこりゃアどうもないね、ヘエこりゃア不思議で、鱗ばかりの鉄火煮、舐《しゃぶ》って居ると旨いが、醤油《したじ》ッ気が抜けると後はバサ/\して青貝を食って居るような心持で不思議な物で……姉《ねえ》さん一寸《ちょっと》此処に居て遊んで」
女「はい有難うございますが、余り長く居りますと厳《やか》ましゅうございますから、又御用がございましたら」
由「まア/\/\一寸おいでなさい、今旦那がね貴方のお身の上を酷《ひど》く心配して、お品と云いお行儀と云い、裾捌《すそさば》きと云い何うも抜目の無いお美しい嬢さんだが、どう云う訳で山の中へ来て居ると云うのでね、旦那が大変心配ですが、貴方は東京ですね」
女「はい東京でございます」
由「どういう訳で」
女「はい、いえなにもう種々《いろ/\》深い訳があります」
由「へえ、こりゃアどうも深い訳があるに違いないのでしょう、どうも此の鯉の鱗《こけ》ばかりを煮て出すなんてえのは恐れ入りました、不思議で、どういう訳で、えゝ」
女「なにもう種々」
由「そこをお聞き申したいので、姉さん困りましたねえ」
幸「これは真《ほん》の心ばかりです」
由「旦那がこれを」
女「誠に恐入ります」
由「構わずお仕舞なさい、落すといけませんから、仕舞い悪《にく》いものですが帯の間へ……宜しい私が挟んで上げましょう」
女「いえ、いけません」
由「どうも恐入った、手を付けて帯の間へヒョイと云う、これは遣りたがるからねえ、ヘエー、どうも有難い」
幸「姉さん東京は何処、私共も東京で」
女「はい、東京のお方と見ますと誠にお懐かしくって、つい何うもお座敷へ参りましても、東京のお方だと、種々御様子を承わりとうございますから、遂々《つい/\》長く居ります」
由「こりゃアそうでげしょう、伊香保でも、東京は違いはしませんか、観音様は矢張|彼処《あすこ》にありますかッて聞いた人がありましたが、あれだね、どうも妙なもので、此処は旅で、旅で会うのは親類で無くっても落合うと親類のような気がして、懐かしいもので、変なもので、伊香保なんぞへ往《い》って居ると交際《つきあい》が殖《ふえ》る、帰って見ると先達《せんだっ》ては伊香保でと云うので、麻布《あざぶ》の人が品川《しながわ》、品川の人が根岸《ねぎし》へ来て段々縁が繋《つな》がり、お前さんの処へ娘を上げましょう養子に上げましょうなどと云って、親類がこんがらかる事があります、湯治場は一体親類|殖《ふや》しの処で、貴方は東京は何方《どちら》で、何か訳があるのでしょう、えゝ秘《かく》したっていけません、何《ど》んな山の中でも思う人と添うならばと云う、これは当り前で、吾妻川で布などを晒《さら》して、合間に鯉こくの骨を取って種々な事をなさるんでしょう」
女「そんな訳で来たのではございません」
由[#「由」は底本では「女」]「どう云う訳で」
幸「止しねえよ…貴方お屋敷だねえ」
女「はい誠に不粋者《ぶいきもの》でございます」

        四十一

幸「私もお屋敷へお出入をした者で、大概お屋敷は存じて居りますが、貴方の御様子は御家中でも無いようですが、御直参《ごじきさん》かね」
女「はい」
 と段々聞かれゝば聞かれるほど胸が迫ると見えて、彼《か》の女は下を向いて居りますと、膝へバラ/\涙を落します。
由「旦那……少しお泣きのようだから、こんなことは深く聞かれません、此処で貴方癪でも起されると旦那が押すような事が出来ます、峰松は今日《こんにち》は居りませんから、二人で間に合えば宜しいが……御心配と見える」
幸「どう云う心配で」
女「はい……兄が放蕩で、私は田舎の事はさっぱり存じませんから田舎へ連れて往って、良い処へ奉公をさせる、却《かえ》って田舎には豪農や豪商があるのだからと申しまして、私も東京に居りまして知る人に顔を見られるも、恥かしゅう存じますから、そんなら田舎の奉公をしようと申しまして、宇都宮《うつのみや》へ参りますと、私《わたくし》は兄に欺《だま》されまして置去になりました」
由「酷《ひど》い兄《あに》さんで……旦那酷いじゃアございませんか、お兄い様がどうも……原の中か何《ど》っかでしょう」
女「いえ何、イエもうアノ……これで宜しゅうございます」
由「これで宜しいたって、言いかけて止《や》めてはいけません、搆《かま》わないから後《あと》をお聞かせなさい是非……まアお坐りなさい」
幸「お気の毒なわけでねえ」
由「えゝ貴方、どう云う訳で」
幸「失礼ながら何んですか、お兄い様は矢張《やっぱり》士族様か、違ったお兄い様かえ」
女「いえ真実の兄でございます」
由「どうしてお妹御《いもとご》を宇都宮へ置去に、何ですか宿屋かえ」
女「いえ、私はさっぱり存じませんで居りましたが、往来の方から這入りませんで裏路《うらみち》から這入りますと、広い庭がございまして、それから庭伝いに座敷へ通りまして、立派な席へ参って居ります中《うち》に、アノ表の方へ参って掛合を致して、私をソノ或処《あるところ》へ、なんで、質入れに致してお金を沢山借りて、兄は表から逃亡《だしぬけ》を致したのでございます」
由「こりゃアどうも酷うごすね、貴方を質に入《いれ》て流す気ですね、酷いこと」
幸「どうも酷い事をしたものですねえ、そりゃアまア貴方も恟《びっく》りなすったろう、後《あと》で勝手も知れず」
女「段々聞きますと宇都宮で娼妓《つとめ》をするだけの証文を貼って、アノお前も得心の上で証文は是れ/\で、金も五十円兄様に渡したから何んでもと申されますから、私も恟り致しまして、其様《そん》な事は出来ません身の上でございまして、老体の母もございますから、母に相談の上に致さんければなりませんと云って、十日のあいだに情を張りまして泣き明して居りました処が、此家《こゝ》の關善さんが日光からお帰りに宇都宮へお泊りで、段々様子をお聞きなすって、気の毒な事と御親切に五十円を貢《みつ》いで下すって、關善さんに連れられて参って、お手伝を致して居りますが、とても宿屋奉公では五十円と云うお金は返す事は出来ません、鈴木屋さんで人が足りないから御祝儀も貰えるし、そうしたが宜かろうと申されますが、關善さんと鈴木屋さんと両方で稼ぎを致しても五十円のお金では幾年此処に奉公をして居りましたら返せますか、承われば夏ばかり繁昌致しても、冬の中《うち》は遊んで居ると申しますから、中々お金の返しようもございません」
幸「それはどうも、で其の東京にお兄《あに》いさんが逃げてしまっても、お母様《っかさま》がお在《いで》なさるか、お母様はさぞお驚きで」
女「母はもう六十二になりまして、母はアノ恟りいたしまして身体も大分|悪《あし》くなりましたが、此方《こっち》より手紙を出しましても向《むこう》から参ることも出来ませんで、此の頃は兄が諸方の借財方に責められまして、僅《わず》かばかりの夜の物諸道具も取られまして、此の頃は煩《わずら》って」
由「へえ、どうもあるねえ、一度ね、私《わし》は伊豆《いず》の網代《あじろ》へ行ったことがある、其処に売られて来た芸妓《げいしゃ》は、矢張叔父さんに欺《だま》されて娼妓《じょろう》にされまして来たと云うので、涙を落しての話で有ったが、それはお気の毒な事だねえ、左様でげすか、お屋敷は何方《どちら》でございます」
女「屋敷の名前なぞは親共の耻になりますから、それだけは御免遊ばして」
幸「ハヽ、それじゃアお聞き申しますまい」
由「旦那、そんな遠慮をしてはいけません」
幸「それでも耻になると仰しゃるから」

        四十二

由「貴方、旦那が御親切だから貴方の身の上を心配して、お名前をお聞きなさるので、貴方は親の耻になると云うは御尤《ごもっとも》だけれども、何もこれは決して言いませんよ、誰が聞いても……私《わたし》は随分お饒舌《しゃべり》だが、旦那に対《むか》えば私《わし》だって言わぬと云ったら決して言いませんから、仰しゃい身の上を、旦那に縋《すが》れば何うにか成るかも知れません」
女「有難うございます、屋敷は旧麻布《もとあざぶ》の二本榎《にほんえのき》でございます」
由「麻布二本榎え、何処、六本木と云うのはあるが、六本木の方でありますか」
女「いえ二本榎で、瀧川左京《たきかわさきょう》と申す者の娘で」
幸「えゝ、アノお側を勤めた瀧川さん、千五百石も取った家《うち》のお嬢さん…」
由「えゝ、これは恐れ入った、失礼でございます千五百石も取った方の、私なぞは前《ぜん》からいまだに貧乏だから些《ちっ》とも変りませんが、只貧乏慣れている処が不思議で、少しも身代は開けないのだから、どうも恐れ入ったわけです」
幸「私《わたくし》は瀧川様へお出入をした事もありますが、真《まこと》に貴方は瀧川様のお嬢さんでございますか」
女「はい、決して神かけて嘘は申しません、どうぞ此の事は委《くわ》しくまだ大屋様へは申しませんから、どうか内聞になすって下さいまし、東京のお方で御親切に仰しゃって下さいまして、お懐かしいから迂濶《うっか》り申したので、どうぞ御免なすって」
 と娘は胸一杯になりまして口も利かれません、おろ/\して居ります。
幸「お前さんは幾歳《いくつ》で」
女「はい、廿一でございます」
幸「お気の毒だねえ、どうか貴方を五十円で失敬ながら身請をして上げたいと存じます、お母さんが御病気でお在《いで》なさる事ならば、私が關善へ話をして五十円の金《きん》を出したら、東京へ連れて帰ってお母様に会わせる事も出来ましょう」
女「はい、それが出来ます事なら……」
由「旦那、私も少し助けますよ十分の一……一度にはどうも出来ませんから、日掛《ひがけ》に追々入金をいたしますが、どうか身請をして上げて下さい」
幸「關善さんへは帰る時話をして、今パッと話すと面倒だから……それから貴方の身の上だけはお母様《っかさん》にお逢わせ申しますが、お母様《っかさま》は矢張《やっぱり》東京にお在《いで》でございますか」
女「はい唯今では小石川《こいしかわ》餌差町《えさしまち》に居ります」
幸「宜しい、屹度《きっと》連れて往《ゆ》きます、身請を致します」
女「あの、本当で」
由「本当だって心配なし、どんな事をしても虚言《うそ》は大嫌いの旦那さまで、十二時に
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