しいことはありません、時にお茶代の礼に来ましたか」
幸「未だ来ない」
由「へえ腰が温《あった》まり草臥《くたぶれ》が脱《ぬ》けます、這入ってお出でなさい」
幸「初めてで勝手が知れぬから、代りばんこに気を付けて、湯場《ゆば》は危険《けんのん》だから」
由「そう湯場働《ゆばばたらき》というのがあります、湯場を働くに姿を変えてというのは河竹《かわたけ》さんに聞いた訳ではありませんが、芝居の台詞《せりふ》にもありますから気を付けて、何かゞ面白いからうっかり致します……」
婆「こゝな処に世帯《しょたい》をお持ちなせえやんすか」
幸「恟《びっく》りした、何んだえ」
婆「こゝな所《とけ》え炭斗《すみとり》を置きやすが、あんた方又|洗物《あらいもん》でもあれば洗って参《めえ》りやすから、浴衣でも汚れて居《お》れば己が洗濯をします」
幸「お前何だえ」
婆「賄いの婆《ばゞア》で、あんた方のお世話アするからお頼み申しやんす」
幸「頼みやんすは面白い、勝手を知りませんから万事お前に委《まか》せるからよ、お前|何歳《いくつ》だえ」
婆「私《わし》は六十一になりやんす」
由「フウ田舎の人は丈夫だから此の年で働けるのです、これから見ると富藏《とみぞう》の婆《ばア》さんなぞは五十八で身体が利かねえって、ヨボ/\して時々|漏《もら》しますから、彼《あ》の人の事を思えば達者だ……是は汚いが茶碗は清潔《きれい》なのと取換えておくれよ、汚い物は見ぬ方が宜うございます、見ぬ事清してえから……お湯へ這入《へえ》ってお出でなさい」
幸「忙《せわ》しいね、お前茶を入れる様にしておくれよ……」
由「婆さん湯沸《ゆわかし》を借りて」
婆「なに」
由「湯沸」
婆「ええ」
由「ゆわかしだよ、分らねえなア、鉄瓶でも薬鑵《やかん》でも宜《よ》いから小さいのを借りて、急須へお湯をさす様に、宜いかえ分ったかえ、どうも……一寸《ちょっと》も通じねえのは酷《ひど》いな……それから菓子を入れる皿でも蓋が出来るような蓋物《ふたもの》を持って来て、宜いかえ、菓子器をお願いだから……宜しく万事此処へこう置いて……お茶は鞄の中《うち》にあります、茶が変るといきませんから………ハッ/\/\面白いどうも……もう御膳《ごぜん》が来るよ、早いねえ、もうそろ/\灯火《あかり》が点《つ》く、早いものです、膳が来ました……旦那に何か」
番頭「これは主人《おやかた》が左様《そう》申しました、今日《こんにち》お着《つき》の事でございますから、折角世帯を持って是彼《これあれ》とお取り遊ばしても、もう好いお肴もございませんから、今晩だけはこれで御辛抱なすって、明日《みょうにち》は又宜しいお肴をお取り遊ばして」
由「宜しい」
三十八
由「あなた湯へ這入っても一度《いちどき》に這入っちゃアいけません、私が伊香保で何度も這入って逆上《のぼ》せてね困りました、初めは面白いから日に七度も這入って鼻血が出ました」
幸「左様《そん》なに這入るから悪いや……お平椀《ひら》に奇妙な物が這入ってるぜ」
由「へえ、お平椀の下に青物が這入って麩《ふ》が切ってある、これは分った蕨《わらび》だ、鳥肉《とり》が這入って居る……お汁に丸まッちい茄子のお汁《つけ》は変だ……これは何んで」
幸「なにを」
由「皿に切ってありますが、これは東京で云えば鯛の浜焼が付くとか何とか云うので、何もなければ玉子焼だ、何だろうか、薄く切ったものが並んであるが、東京の者と見て気取りやがったんだ、何だかこれを一つ食《や》って見よう……婆さん灯火《あかり》を早く此処へ持って来て……何だ奈良漬の香物《こうこ》か、これは妙だ、奈良漬の焼魚代《やきものがわ》りは不思議、ずーッと並べたのは好《い》いな」
幸「此処は大層《てえそう》香の物を貴《たっと》むてえから、奈良漬を出すのは東京の者へ対しての天狗なんだよ」
由「何だか御法事の気味がありますからね、奈良漬にお汁《つけ》の油揚《あぶらげ》は恐れ入った」
女「えゝ鈴木屋で」
由「また来た、何んだ」
女「えゝ枕を持って来やした、何卒《どうぞ》お買いなすって」
由「枕をどうする」
女「枕、貴方方《あなたがた》がなさる枕」
由「此の宿屋では枕がないのかえ、新しい枕を買うのかえ」
女「へえ」
由「幾らだね」
女「左様です、二ツで十四|銭《せね》に致しやす」
由「高いねえ、此の枕は一寸《ちょっと》縁日で買うと安いが、これは小枕が小さくッて、これじゃア出来やしねえが、何うしてもこれは買わなければならねえのかえ」
女「十四|銭《せね》は高《たか》かアござえやせん」
由「この小枕は高天原《たかまがはら》に紙が一枚は酷《ひど》いねえ、これは酷いが、まアいゝ、これを買っても宿屋で夜具を出すから枕も付きそうなものだ」
女「えゝ宿屋のは古うございますから、若《も》し又お帰りの時お邪魔なら私が方へ引《ひけ》を立って取りますから」
由「幾らに取るえ」
女「左様《そう》でがんす、一つまア七厘|宛《ずつ》に取りやす」
由「じゃアまア買って置きますよ……七厘ばかり取ってお前の方へ売っても詰らねえから……申し旦那、これを買って東京へ土産に持って帰って、是は四万の名物|首痛枕《くびいたまくら》とか何とか云って提げて行《ゆ》くのは洒落です」
とこれから酒を飲み御膳を食べにかゝる。其のうち又由兵衞がおしゃべりをして居ると、しとやかに障子を明けて、
女「御免なさい、私は鈴木屋でございます」
由「鈴木屋さんか、先刻《さっき》から」
と見ると前の女とは大違い、年の頃は廿一二でございましょう、色のくっきりと白い、品の好《い》い愛敬のあります、何うして此様《こん》な山の中に斯ういう美人が住《すま》うかと思うくらいで、左様《そん》な処へ参ると又尚更目に付きますから二人とも見惚《みと》れて居ります。
女「お通《かよい》をこれへ置きますから、若しも御用がございますなら仰しゃり付けて下さいまし、度々《たび/\》出ますでございますから」
由「へえ宜しゅうございます、是非戴きます、貴方のなら何でも戴きます、何がございます」
女「はい、鳥と鰌鍋ができますので」
由「それもよし」
女「玉子焼」
由「それもよし」
女「鯉こくもございます」
由「それも」
幸「其様《そんな》に誂えてどうする」
由「まア誂えやアしませんがねえ……何か外に肴が出来ますか」
女「アノ鰥《やまめ》が出来ます」
由「寡婦《やもめ》、それは有難い、やもめ[#「やもめ」に傍点]の好《よ》いのはないかと心掛けて居《い》るので」
幸「お前の隣のは寡婦じゃアねえか」
由「ありゃア西洋洗濯を此の頃覚えた六十八歳という寡婦の大博士、毛が生えて天上する、ありゃアいけません……」
幸「じゃアお前さん後《あと》でその鰥を持って来ておくれ」
女「へえ誠に有難うございます……」
と云いながら静かに障子をしめて出て往《ゆ》く。
由「旦那何でしょう、どうもお辞儀の丁寧だってえないねえ、様子がずっとどうも、あのお辞儀の仕方は此方《こっち》が自然《ひとりで》に頭が下《さが》るくらいで、丁寧で、何でしょう」
幸「何だか知れねえが只者じゃアねえ」
由「山の中へ逃げて来たのでげしょう」
幸「何か仔細がある事だろう、關善の親類でもありはしないか、鈴木屋の身寄か、士族《さむらい》さんのお嬢さんの果《はて》だろう」
と云って居る。二度目に鰥と鯉こくが出来たというので岡持へ入れて持って来る、是から酒をつけて橋本幸三郎が此の婦人の身の上を問います、これは後《のち》に申上げます。
三十九
さて岡村由兵衞は頻《しき》りに幇間口《ほうかんぐち》でお酒が流行《はや》って居ります。
由「えゝ旦那唯今見た女は何うしても東京の言葉で、女は滅法好くって、旅出稼と云って湯治をしながら稼ぎに来る女は夥《いか》い事ありますが、彼《あ》の位《くれ》えなのは珍らしい女で、丁寧で口が利けねえのは余程《よっぽど》出が宜《い》いんですねえ」
幸「余程《よっぽど》品が好《い》いが、どういう身上《みじょう》か彼《あ》の位の女は沢山無い」
由「有りません、東京を立って伊香保へ来て、伊香保から此方《こちら》へ来るまでにありません、伊香保のお隣室《となり》の奥様ねえ、彼《あ》れは又品が違いますが、此方はあれよりもまだ年が往《い》かないようで、伊香保の奥様も明日《あした》来るか、又今夜来るかも知れませんよ」
幸「お前又なんとか云ったのか」
由「えゝ云ったのでげす、峰公にちゃんと話したので」
幸「お前悪いよ、此方《こっち》がお母様《っかさま》と一緒なら宜しいが、男ばかりの処へ女を呼ぶのは悪いから止しねえ、奥様然として居るが、殿様でもある者で知れでもすると悪いよ」
由「あれはもう何もございませんよ、主は無い、主なしの栄太楼《えいたろう》、彼《あ》の女は無いので」
幸「無い、だって分りゃアしめえ」
由「何んだッてお付の女中と伊香保の茶見世でお茶を売って居た村上の御新造が、お嬢様/\と申すのでしょう」
幸「あれは、お少《ちいさ》い時分に一つお屋敷に居てお乳を上げたので」
由「お乳は松でも笹巻でも此方《こっち》は構わねえ、彼《か》りゃアもう確かに亭主はありませんよ、御婚礼は済みませんが、是から追々御婚礼にもなりかゝると、其処に苦情があって、何うとか斯うとか話したと聞きました、向山の玉兎庵で申しました」
幸「だけれどもお前無理に呼んでは悪いよ」
由「悪いたって後《あと》から峰公が引張って来るので、お付の女中は忠義者でしょう、一緒に往《ゆ》きたいが、女二人であなた方と一緒に参っては、ひょっと人が訝《おか》しく思うといけませんから、後から参ると云うので、病身で時々癪が発《おこ》ると云うが、その持病を癒そう為に伊香保へ来て居たのだが、貴方に一寸《ちょっと》岡惚れでしょう、彼《あ》の新造《しんぞう》がサ」
幸「止しねえ」
由「そこは僕が心得て居ますよちゃんと認めを付けて居ます、貴方の傍《そば》に……居ると気分がいゝので、貴方のお顔を見るとお癪も紛れて居るので、くよ/\と思うが病の根で、病気だから何うかお邪魔ながらお連れ申したいと云う忠義の心から、堅い女中だけれども側に連れて来たい念が一杯あるから来ますよ」
幸「悪いよ」
由「悪いたって構やアしません、あれが来て今の別嬪が来て落合ったら面白うございましょう、だが御亭主《ごてえし》が無ければ町人だって身分が宜ければ縁付《かたづ》くという、其処は又相談ずくでねえ、もし奥様が貴方の処へ嫁に来ると云ったら何うなさるえ、それとも鯉こくを持って来る女が好うがすか」
幸「ウヽ、そんな事を云っても分りゃアしねえよ」
由「分らないたって向うが奥様で此方《こっち》は丁度|権《ごん》の方《かた》で」
幸「止しねえよ、詰らねえ事を云って、まア湯へ這入って寝ようと云うのだが、腹が北山になって草臥《くたび》れたから酔ったよ」
由「貴方を酔わしたい、貴方は酔わないと真面目でいけません、ズーと酔ったって正気になって、助平根性を出してお仕舞いなさい、旅では構やアしません」
幸「止しねえ……まア/\そんなについではいけねえよ」
由「だがねえ、唯後からくっついて来るなア可笑しいねえ」
幸「可笑しいたって悪いよ」
由「だがね真面目で一生懸命に来るので、変な事があるもので」
幸「旧《もと》お出入りをしたお屋敷の御妾腹《ごしょうふく》と云うが、けれどもお眼に懸った事もねえが、何んだかお可愛そうな様な筋合《すじあい》があるのだよ」
由「お可愛そうだって何んだか知れませんが、姑《しゅうとめ》の意地の悪い奴、叔母さんか御隠居さんかが在《あ》って、拗《ひね》った事を云って、そうお茶をつぐからいけねえの、そうお菓子を盛てはいけねえ、赤いのは上へ乗っけて又其の上へ乗っけては赤いのが染《つ》くからいかねえとか、種々《いろ/\》な事を云う奴があるので、それが種になって段々お癪になったのだから、お癪を癒そうてえので……お癪てえば今来た娘《こ》も癪持に違《ちげ》えねえ」
幸「何故」
由「なぜったって
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