ちゃアいけねえ」
馬「ハイ/\/\」
と中の条を降りまする、左方《ひだり》へ曲ると沢渡|右方《みぎ》へ這入ると彼《か》の四万の道でございます。是から折田へ一里、折田を離れて下《しも》沢渡へ参ると、是迄中の条から二里でございます。六七年以前より新道が開け、道も大きに楽になりましたが、其の折は未だ道幅狭く、なだれ登りに掛ると、四方《どちら》を見ても山また山でございまして、中を流るゝ山田川、其の川上は日向見川《ひなたみがわ》より四万川に落る水で有りますから、トツ/\と岩に当って砕ける水の色は真青《まっさお》にして、山の峰には松|柏《かしわ》の大木ところ/″\に見えて、草の花の盛りで、いうにいわれぬ景色でございます。到頭四万の山口へ参りましたが、只今は車道《くるまみち》が開けましたので西の方の山岸へ橋をかけまして下道《しもみち》を参りますが、以前は上《かみ》の方を廻りましたもので中々|難所《なんじょ》でございました。
三十五
此の山口と申す処にも五六軒温泉宿が有ります、其の他《ほか》餅を売ったり或《あるい》は鮓《すし》蕎麦などを売る店屋が六七軒もあります。小坂《こざか》へかゝると馬士《まご》が、
馬「もし旦那さん誠にねえお待遠《まちどお》だろうが、少しねえ荷イおろして往《ゆ》かなければなんねえ、貴方《あんた》おりて下さい、おりて何もねえが麦湯《むぎゆ》があるから緩《ゆっ》くりと休んで、煙草一服吸ってまア些《ちっ》とべい待って居ておくんなんしよ」
由「宜しい、じゃア下りるから、さア」
馬士「さアおりられやすか、腰イ抱いてやるから待ちなせえ」
由「大変《ていへん》だ、まるで病人の始末だねえ、あゝ腰がすくんであるけませんが……やア大層《ていそう》立派な家《うち》だが……おかしい、坂下から這入るとまるで二階下で、往来から真《すぐ》に二階へ入《は》いる家は妙で、手摺が付いてある……」
馬「嚊《かゝ》ア麦湯でも茶でも一杯上げろよ、中の条から打積《ぶっつ》んで来たお客様だ…」
由「打積んだは恐れ入った、まるで荷物の取扱いだ」
幸「向《むこう》に土蔵《くら》があって、此の手摺などの構えはてえしたものだ……驚いたねえ、馬方《むまかた》さんが斯ういう蔵持《くらもち》の馬方さんとは、此方《こっち》は知らぬからねえ、失礼な事をいいましたが、実に大したお住居《すまい》で、二階などが斯うお神楽《かぐら》でもなさるように妙に欄干が付いて居りますねえ」
馬「えゝ、是からねえ盆過《ぼんすぎ》になると、近村《ちか》の者が湯治に参《めえ》りますので、四万の方へ行《い》くと銭もかゝって東京のお客様がえらいというので、大概《ていげい》山口へ来て這入《へえ》る、此処が廿年|前《さき》には繁昌したものだアね、今じゃア在のものばかりのお客しますからねえ」
由「驚いた、それじゃア大屋さんだ大屋さんで、馬方《むまかた》は恐入った……そう精出したら銀行へ預けきれめえが、金持だろうねえ、是から關善といううちまで八丁かえ」
馬「えゝ是から八丁は山道でがんす、關善まで送って、それから帰《けえ》るのでがんすが、御用があるなら關善から己《おら》の方までそう云って来れば、中の条の方へ出る用があるから、用を聞きに毎日|往《ゆ》きますから、入《い》る物があるなら四万で買うと高《たけ》えから、中の条で買えば砂糖でも酒でも何でも安いものがあるからねえ、買って来やんす、また退屈なら己方《おらほう》で蕎麦ひいて、又麦こがしも出来るからねえ私《わし》イ持って往きやすから、どうせ毎日往くだからねえ駄賃はいりやしねえ、馬《むま》の上へ積《えっ》けていくから、彼処《あすこ》で貴方《あんた》買わねえでねえ己が持って来て上げやんすからねえ」
幸「そりゃアどうも御親切に馬方《むまかた》さん何分願います、どうも感心なもので、是は少しだがお茶代だよ」
馬「へえ、これは有難うがんす……」
由「もし旦那……内儀《かみさん》でしょうが、結髪《すきあげ》に手織木綿の単衣《ひとえもの》に、前掛細帯でげすが、一寸《ちょっと》品の好《よ》い女で……貴方《あなた》彼処《あすこ》に糸をくって、こんな事をして居るのは女房の妹でしょう、好く肖《に》て居る、鼻が高くって眼がクッキリとして、眉毛が濃くって好い女です、斯ういう処に燻《くすぶ》らして置くからいけねえが、これが東京の水で洗って垢《あか》が抜けた時分に、南部の藍万《あいまん》の袷《あわせ》を着せて、黒の唐繻子《とうじゅす》の帯を締めて、黒縮緬の羽織なら何処へ出しても立派な奥さん、また商人《あきんど》の内儀にも好し、権妻《てかけ》にも、新造だって西洋げんぶく大丸髷《おおまるまげ》でも好し、束髪《そくはつ》にして薔薇の簪《かんざし》でも挿さしたらお嬢さま然としたものです、何しろ此の山の中に居て冷飯《ひやめし》を喫《く》って、中の条のお祭に滝縞の単物《ひとえもの》に、唐天鵞絨《とうびろうど》の半襟に、袂《たもと》に仕付《しつけ》の掛った着物で、縮緬呉絽《ちりめんごろ》の赤褌《あかゆまき》で伊香保の今坂見たように白く粉《こ》のふいた顔で、ポン/\跣足《はだし》で歩いて居てはいけませんが、洗い上げるとよっぽど好い」
幸「悪口《わるくち》をきゝなさんな」
由「そうですが、妙なもので、山の中にも斯ういう別嬪があるのでございますからねえ」
馬「へえ、身支度が出来ました」
由「おゝ来た/\、馬方さんいゝかえ」
馬「さア乗《のっ》かってくんなせえ、山道だから荷鞍へ確《しっ》かりとつらまって、えゝかえ」
と是れからまた馬《むま》に乗り、駕籠を先に立たせ馬も続き、關善平《せきぜんぺい》方へ着きました。
三十六
幸三郎と由兵衞が關善の玄関に着くと、皆迎いに出ます。昨年|私《わたくし》が堀越團洲子《ほりこしだんしゅうし》とともに或る御大臣様お供で關善へ参りましたが、只今では三階造りの結構な新築でございますが、その以前は帳場より西の方が玄関でございまして、此処に確か十畳の座敷、入側《いりがわ》付きで折曲《おりまが》って十二畳敷であります、肱掛窓《ひじかけまど》で谷川が見下《みおろ》せる様になって、山を前にして好《よ》い景色でございます。二階家で幾間も座敷《つぼ》がございます。其処へ着きますと直ぐ湯を汲んで来たから、足を洗って上り、
幸「あゝ好い心持だ、おい由兵衞さん、何か忘れ物のないように」
由「万事心得ました」
幸「若い衆《しゅ》、湯にも這入るだろうが、緩《ゆっ》くり今夜泊って、旨い物でも食わせるから彼方《あっち》の座敷《つぼ》に居ねえ」
由「よし/\心得ました、葡萄酒の瓶が毀《こわ》れるかと心配した、斯ういう処《とこ》へ来ては何もないからねえ……」
甲女「へえ叶屋《かのうや》でございます、なんぞ御入用なら通《かよい》を置いて往《ゆ》きますから」
由「なにを」
甲女「叶屋で鰌《どじょう》玉子|軍※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《しゃも》も出来ます、醤油味淋もございます」
由「そりゃア何か」
甲女「叶屋でございます」
乙女「へえ鈴木屋《すゞきや》でございます、何んぞ御用はございませんか、これへお通《かよい》を上げて置きますから、どうかお取付けになります様、誠に有難いことで、えゝ鈴木屋でございます」
由「今這入ったばかりで、まア仕様がない」
甲女「叶屋でございます」
幸「そう大勢|幾人《いくたり》も来たって仕様がない、困りますねえ」
甲女「叶屋で」
由「叶屋でも稻本《いなもと》でも角海老《かどえび》でも今日《こんにち》が初会《しょかい》だ、これから馴染が付いてから本価《ほんね》を吐《は》くから、まだ飯も食わねえ、湯へも這入らねえうち種々《いろ/\》の物を売りに来るのは困るねえ」
幸「私《わし》は話に聞いて居るが、料理屋のようなものがあるので、取付けにして貰おうというのだろうよ」
由「もし、また豆腐入の玉子焼なぞが出来るので……どうも旦那お茶代を其様《そんな》に遣らねえでもようございます、此処ですから」
幸「それでも出したものだから……おい姉《ねえ》さん」
女「ヒエー」
由「可笑しな返辞だねえ、面白い…もし旦那でも番頭さんでも呼んでおくれ、用があるから一寸《ちょっと》」
女「ヒエー」
由「早くして」
という、やがて番頭がそれへ参りまして、
番「ヒエー」
幸「お前さん御亭主かえ」
番「手前は当家の番頭でござりやす」
幸「はア番頭さんか、当家は何というえ」
番「關善平と申しやす」
由「番頭さんの名は」
番頭「ヒエー與兵衞《よへえ》と申しやす」
由「成程關善の家に與兵衞ありというのは面白い」
番「左様でございます、皆様がそう仰しゃるので、旧来居りやすから」
由「ハヽヽ……これはいけません、洒落を云っても通じませぬ、皆様がそう仰しゃるなぞはこれは妙だ……これはお茶代で、これは雇人中《やといにんじゅう》へ」
番「えゝ有難うございます、主人《あるじ》が直ぐお礼に出まするで、有難いことで、ヒエ」
幸「何しろお前さん初めて来たので馴れませぬから、また後《あと》から連《つれ》も来るから宜しく頼みます」
番「ヒエ、明日《あす》から世帯《しょたい》をお持ちなさるのでございますか」
由「何処へ世帯を」
番「えゝ一週間《ひとまわり》なり二週間《ふたまわり》なりお席をおきまして、お座敷《つぼ》の内へ竈《へッつい》でも炭斗《すみとり》火鉢すべて取寄せまして、三週間《みまわり》もお在《いで》になれば、また賄《まかな》いの婆《ばゝあ》も置きまして、世帯をお持ちなさいますなら、炭|薪《たきゞ》米なぞも運びますから」
由「ハヽア此の座敷《つぼ》へ世帯を…成程|疾《と》うから持ちたいと思ったが、今迄|店請《たなうけ》が無いから食客《いそうろう》でいたが、是から持ちますからお前店請になっておくんなせえ」
番「御冗談ばっかり、宜しゅうございます」
幸「何卒《どうぞ》お頼み申します、賄いの婆さんも頼みますよ、給金なぞはようがすか」
由「此様《こん》な処へ来て洒落なぞを云っても通じませんので、むだです」
幸「少し口を休めな」
由「只もう私は好い心持で……旦那湯へ一杯這入って」
幸「己は少し駕籠で腰が痛《いて》えからまア先へ這入んねえ」
由「左様ですか、此の温泉はどうしたッてそばからぶく/\出る湯ですから、私が先へ這入ったって汚れるというわけではなし、他《た》の者も這入るのですから」
と喋りながら由兵衞は湯へ這入りに往《ゆ》きました。
三十七
岡村由兵衞は湯に這入って来まして
由「どうも宜いお湯で、どうもあり難い/\、だがねえ少し熱うございます、此処の湯は大変《ていへん》熱い様で、一|棟《むね》の中へ湯櫃《ゆびつ》が幾つもあるので、向うへまた下駄を穿《は》いて往《ゆ》くと、着物を入れる棚があって、それからはしごを三段ばかり下りて這入るのです、心配なし、気が詰らず、残らず東京の人なし、皆田舎の人ばかりで髷があります、男ばかり、女は子供を抱いて這入って居りますが、芝居の話などはございません、只畑の話で、お前さんの処《とこ》の胡摩は何時蒔きましたか、私《わし》の処《とこ》では茄子《なす》を何時作った、今年は出来が悪いとか菜漬《なづけ》がどうだとかいう話ばかりして居るので面白いわけで東京の人は居ないから話はない、隅の方へ往って湯のはねない処《ところ》へ這入って、小さくなって洗うのです」
幸「是は恐れ入ったねえ」
由「だが好《よ》い湯で、塩気があって透通《すきとお》るようで、極《ごく》綺麗です、玉子をゆでて居る奴があるので、手拭に包んで玉子を湯に浸《つ》けて置くと、心《しん》が温まるという、どういう訳かと皆《みんな》に聞くと、黄身《きみ》から先にゆだって白身が後《あと》からゆだるという、嘘だろうというと本当だと番頭も云ったが、白身はなんともない、きみが温まるので、上の方が温《あった》まらねえで、心がちゃんと臍《へそ》の下が温《あった》まるので、心臓肺臓などが温《あたゝ》まるので、こんな嬉
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