から又坂ア下って又登って向山まで往《い》く間《ま》にゃア向うの奴は逃げて仕舞うから打《ぶた》れ損で、此の体に創《きず》を出来《でか》したら貴方其の創を癒す事は出来ねえだろうが、先方で打《う》ちやアがったから己が打返《ぶちけえ》したので、謂《い》わばあんたの代りだ」
警「代りという事があるか、全く先方《せんぽう》から先に手出しをした証拠があるか」
市「ナニ……」
警「先方から先に手出しをした証《しょう》があるか」
市「えゝ、すりア有りやんす、此処に居る重吉という者、主人《あるじ》が居りやせんからソノ番頭役を致しやす、此の人が証拠だ、のう出來助《でくすけ》どん」
警「出來助……其の方か」
重「へえ、それはヘエ私が申します、乱暴をして、毎日/\お酒を飲《た》べて無闇に皿小鉢を抛《なげう》って打《ぶ》ったりして、殊に私の頭を二つ打ったので、へえ、見兼ねて此の親方が仲へ這入って下すったので、二言三言云いやってねえ…親方に打って掛ったねえ、証拠は親方の頭に少々ソノ創がございます、へえ」
市「ねえ此の人が証拠で、神様から貰った私《わし》が身体を打《ぶ》ったから打返《ぶちかえ》しただ、ねえ、だから貴方《あんた》の些《ちっ》たア手助かりをしたゞ」
警「なに手助かりと云うがあるか……先方で先に打ったとあれば……まアよいわ……不論罪《ふろんざい》じゃ、それでは宜しい、宜しいに依って向後は左様な粗暴な事をしてはならんぞ、もう其の方も三十を越えて血気な若い者とも違うから、以後は喧嘩口論をして人を打擲することは相成らぬ、能く弁《わきま》えろ」
市「それから」
警「それからということはない、宜《よ》いからもう参れ」
市「へえ、そうか、もう宜いのか、あんたも骨が折れるねえ、あんたも早く云えば仲人《ちゅうにん》だ、己《おら》アも仲人にべえ頼まれて、能く村で仲人に這入《へえ》って人の事を捌《さば》くだが、中々骨え折れる役だねえ、あんた方もなア」
警「早く往《い》け」
 と巡査様もお困りで、分らん者でございますけれども、別に悪い事をしないのに、近村で問いましても正当《しょうとう》潔白という事、是は巡査様も御存じだから先ず軽《かろ》く済みましたが、向山に居りました橋本幸三郎、岡村由兵衞は混雑《ごたすた》が出来て面白くもない、殊に女連というので一とまず木暮八郎方へ帰りまして、翌日になりますと、朝飯を食べると誂《あつら》えて置いたから山駕籠が一挺来ましたから、是へ幸三郎が乗り、衣類の這入った大きな鞄が駕籠の上に付き、手提《てさげ》が前に付きまして、其の他《た》葡萄酒の壜《びん》が這入り、又東京から持って参った風月堂《ふうげつどう》の菓子なども這入り、すっぱり支度をして四万の温泉場へ参る事になりました。岡村由兵衞は昔風でございますから、一寸《ちょっと》致したくすんだ縞の浴衣に、小紋のこっくりと致した山無《やまなし》の脚絆に紺足袋、麻裏草履に蝙蝠傘をさして鞄を提げて駕籠の側につきまして、これから出まして、後《あと》の事は車夫《くるまひき》の峰松に残らず頼みましたから、
峯「万事心得ました、遅くも参ります、由兵衞さん旦那を何分宜しゅうお願い申します」
由「よろしい、頼む」
 と是から出ましたが、前《ぜん》申上げて置きました隣座敷のお藤という別嬪は、お附の女中岩と峰松が供をして、一緒に出るも極りが悪いから、後《あと》から出る約束に成って居ります。

        三十三

 橋本幸三郎、岡村由兵衞の両人は伊香保を下《お》りまして、御案内の湯中子村《ゆなかごむら》へ出ます。彼《あ》れから岡崎新田《おかざきしんでん》五|町田《ちょうだ》の峠を越し、五町田の宿《しゅく》を出まして右へ付いて這入って、是から川を渡りますが、吾妻川には大きな橋が架って居る、これは橋銭《はしぜに》を取ります、これを渡ると後《あと》はもう楽な道で、吾妻川|辺《べり》に付いて村上山《むらかみやま》を横に見て、市城村|青山村《あおやまむら》に出まして、伊勢町《いせまち》より中《なか》の条《じょう》という所《とこ》に掛った時はもう二時少々廻った頃、木村屋《きむらや》と申す中食《ちゅうじき》場所がございます。表には馬《むま》を五六匹|繋《つな》ぎ、人足が来てガア/\と云って居る処《とこ》へ駕籠をズッと着けました。
女中「入らっしゃいませ」
由「大きに若衆《わかいしゅ》御苦労、今|後《あと》で飯を食わせるが、何しろ休みねえ……おい/\女中さん、おい女中|彼処《あすこ》の畳の上に何だ……黒豆が干してあるようだが、彼処を片付けておくれよ」
女「豆じゃアござえません、あれは蠅が群《たか》って居りやすので」
由「蠅か……私《わし》は黒豆かと思った、大層《てえそう》居るねえ真黒《まっくろ》で……旦那御覧なさい、此の蠅はどうも酷《ひど》いじゃアございませんか、ハッ/\ハッとたちますとまた直ぐに来ます、大変《ていへん》だ」
幸「大変《ていへん》だねえ、蠅の中へ大きなものが飛込んで来るが、なんだい姉《ねえ》さん」
女「あれは虻《あぶ》でねえ」
幸「虻……大層《てえそう》居るぜ、螫《さゝ》れると血が出ますからねえ……女中さん何かあるかえ」
女「左様《そう》でがんす、何も無《ね》えでがんすけれども、玉子焼に鰌汁《どじょうじる》に、それに蒸松魚《なまり》の餡掛《あんかけ》が出来やす」
由「えゝ鰌や蒸松魚のプーンと来るのア困ります、矢張無事に玉子焼が宜うがす……鰌のお汁それは宜かろう、鰌のお汁に玉子焼で……貴方召上らぬが一猪口《いっちょこ》酒をつけて持って来て……アハヽ一猪口が分らねえな可笑しい……尤も千万だ……何しろね若衆《わかいし》が来て居るからお飯《まんま》喫《た》べさせて、お酒を飲ましておくれ、若衆は是から山道へ掛るから、酔うとまたいけねえから気を付けて」
女「ヒエー畏《かしこま》りました」
由「閑静でげすねえ……あんたが駕籠で、私《わし》が歩くのでお話もできませんが、あの村上山の景色はありませんねえ、どうも山が連《つな》がって居て、あの間にチョイ/\松が、どうも大きな盆裁でげす、あれから吾妻川の真中《まんなか》の所《とこ》へずうと一体に平坦《たいら》な岩が突出《つきだ》して居て[#「居て」は底本では「居で」]、彼処《あすこ》の上へずっとフランケットを敷いて、月の時に一猪口やったら宜うがしょう、なんぼ地税が出ねえたって、一杯に彼《あ》の大岩が押出している様子は好《よ》い景色でどうも……だけれども五町田の橋銭《はしぜに》の七厘は二《ふた》ツ嶽《だけ》より高いじゃアありませんか」
幸「だけれども、あのくらいの橋を架けるのだから、どの位の入費だか知れねえ、だが景色は段々離れる方が由さん、好いたって、実にどうもないねえ、有難い…女中さん早くしておくれよ……えゝ、これから四里八町というから」
由「私《わし》は馬《むま》をいたゞきたいが、馬に乗《のっか》って捉《つかま》ってヒョコ/\往《い》くなア好い心持で、馬をねえ……女中さん」
女「ヒエ」
由「馬を一匹、四万まで行《ゆ》くのだから帰り馬の安いのがあったら頼んでおくれ」
女「毎日《めえにち》何《なん》かえりも行ったり来たりして居りやすから、もう直《ね》が極って居《い》るでがす、六十五|銭《せね》でがんす」
由「六十五|銭《せん》は高いねえ」
女「高《たけ》えたって極って居るのでがんすから、その代り楽でねえ、坂へ廻ってはハア道がハアえらいでねえ、急の坂ががんすから、此処から折田《おりた》へ出る道が極って居て楽でがんす」
由「じゃア姉《ねえ》さん、馬は暴《あ》れねえのを頼んでおくれ、いゝかえ馬に附ける物があるから、間違《まちげ》えちゃアいけねえよ……何しろ虻が大変《てえへん》で……あゝ玉子焼が出来た、おゝ真白《まっしろ》だ」
幸「白身ばかりは感心だ」
由「じア喫《や》ってみましょう………これは恐入ったね、中々柔かで仕末にいけません、姉さん、此の玉子焼は真白だねえ」
女「ヒエ」
由「玉子は沢山入れねえで豆腐が九分で……これは恐れ入ったねえ、豆腐入の玉子焼は恐れ入った、道理で真白だと思った、豆腐焼、これはないねえ、面白い、これは乙でげす、何うも閑静過ぎますねえ」

        三十四

由「いゝや鰌汁の中に人参が這入って[#「這入って」は底本では「這人って」]居る、これは感心でげす、牛蒡《ごぼう》で無い処が感心で、斯ういう処が閑静……旦那何しろ旨い、貴方《あんた》駕籠の上の葡萄酒を下《おろ》しましょうか、まア此方《こっち》を飲《や》って御覧なさい、話の種で丹誠なもので、此の徳利の太さ、私が握るに骨が折れるが女中は苦もなく掴《つか》む、感心で、どうもこれは不思議で、表に馬《うま》が一杯というのは面白い、それで中はお客が只《たっ》た二人、閑静なことじゃアございませんかね……女中さん、これは驚くねえ人参が牛蒡に成りますくらい蠅がたかります、玉子焼へ群《たか》ると豆腐入が今度は胡摩入り豆腐に成ります、何うも宜うがす」
 その内に、
幸「女中さんお膳をさげて勘定しておくれよ」
由「女中さん勘定、いゝかえ……旦那あんたは駕籠で私が馬で、ぶら/\お出かけは何うです、先刻|後《あと》の伊勢町という処《とこ》に二三軒|女郎屋《じょうろや》があって、いやな島田に結って、鬢《びん》のほつれ毛を掻いて、色の白いような青いような、眼の大きな、一寸《ちょっと》見ると若いようだが年を取って居りますぜ、三十二三には見えたが……女中さん伊勢町には女郎屋が何軒あるえ」
女「えゝ御座《ごぜ》えやす、もと達磨でがんす」
由「あれは二軒切りかえ」
女「へえ只一軒で、女郎《じょろう》が一人居りやんす」
由「閑静なものだね……やア勘定《かんじょ》は幾許《いくら》になるえ」
女「ヒエ、九十|銭《せね》若衆《わかいしゅ》が十二せねで、金一円二|銭《せね》になりやす」
由「申し旦那|銭々《せね/\》というのはどうも面白い……六十五せねの馬はこれかえ」
馬「はいはい」
由「コウ馬士《まご》さんどうだい、馬は暴《あ》れはせんかえ」
馬「えゝ起《た》ちもしねえが噛《く》いもしねえ」
由「起ったり噛われたりして耐《たま》るものか、大丈夫かえ」
馬「大丈夫《だえじょうぶ》で、なに牝馬《めんま》で、大概《たえげえ》往復《いきかえり》して居るから大丈夫で、ヘエ」
由「いゝかえ」
馬「さア其処《そけ》え足イ踏掛《ふんが》けちゃア馬の口が打裂《ぶっさ》けて仕舞う、踏台《ふみでえ》持って来てあげよう……尻をおッぺすぞ」
由「おッぺしちゃア危《あぶね》え、動《いご》くよ」
馬「動《いの》きやすよ活《い》きて居るから……さア貴方《あんた》確《しっか》りと、荷鞍《にぐら》へそう捉《つか》まると馬ア窮屈だから動きやすよ」
由「若衆いゝかえ大丈夫かえ、気を付けて」
馬「大丈夫《だえじょうぶ》で、此の道は馴れて居りやんすからね、もうハア一日には何返《なんかえ》りも往《い》くだからねえ、此の頃は馬ア眼《まなこ》を煩らって居るから、はっきり道が分らねえから静《しずか》にあるきやんす」
由「冗談じゃアねえ、盲目馬《めくらうま》では困るねえ」
馬「盲目でも歩くよ、此の道は一筋道だから心配はがんしねえで」
由「驚いたねえ、盲目馬の杖なし、大丈夫かねえ」
馬「大丈夫《だえじょうぶ》だが、只牛が来ると困るねえ」
由「おいおい牛が何処《どっ》から来るえ」
馬「なアに牛がねえ、米エ積んだり麁朶《そだ》ア積んだりして大概《たえげえ》信州から草津|沢渡《さわたり》あたりを引廻して、四万の方へ牽《ひ》いて行くだが、その牛が帰《けえ》って来る、牛を見ると馬てえものは馬鹿に怖がるで、崖へ駈込んだりしやす、たまげて此の間もお客さんを乗せたなりで前谷《まえだに》へ駈込みやアがった」
由「冗談云って、人間を乗せたなりで谷川へ駈込まれて耐《たま》るものか」
馬「なに貴方《あんた》、滅多にはねえ大丈夫《だえじょうぶ》だが、先月谷川へ客一人|打込《ぶちこ》んだが、あの客は何うしたか」
由「コウ冗談云っ
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