すな」
市「失敬たって、芸妓だって、酒飲《さけのみ》で小理窟をいう客は誰《たれ》でも嫌《きれ》えだ、向うは柔《やさ》しい客で好《い》い座敷だ、向うへ往《い》くのは当り前《めえ》の話で貴方《あんた》御扶持を出して抱えて置くじゃアなえし、仕様ねえから早く帰っておくんなさえ……なにする、己《おれ》胸倉|捉《と》ってどうする」
 と市四郎の胸倉を捉った岡山の手を握ると市四郎は大力《だいりき》でありますから。
市「何をする」
 と逆《さか》に取って岡山の胸をポーンと突くとコロ/\/\/\ッと彼《あ》のどうも深い谷川へ逆蜻蛉《さかとんぼ》をうって五長太が落ちますと、桑原治平はこれを見て驚き駈下りたが、嶮《けわ》しい坂でありますから踏み外してこれも転《ころが》り落ちました。

        三十

 岡山五長太と桑原治平の二人がゴロ/\落る騒ぎに、一人奥に働いて居た人が何時のまにか伊香保の派出所へ訴えたから、巡査さんが官棒を携《たずさ》え靴を穿《は》いて、彼《か》の高い処《とこ》をお役とは云いながら駈上ってお出でになり、
巡査「これ、どうか、え、お前じゃアなえか、此の谷川へ二人とも打落《うちおと》したは何故か」
市「はい、私《わし》打落《ぶちおと》したって、私を打殴《ぶちなぐ》るから私も先の相手を打落しやした」
巡「コラ、仮令《たとい》其の方を撲《ぶち》打擲《ちょうちゃく》を致したにもせよ人を打擲するのみならず、此の谷川へ投落すと云う理由《わけ》はあるまい、乱暴な事をして、えゝこれ、派出へ来なさい」
市「私《わし》そんなとけえ往《い》くのは厭だねえ」
巡「これ、厭と云うて済もうか、直《すぐ》にさア来なさい」
市「私《わし》は派出などへ何の科《とが》があって私|参《めえ》るのだね」
巡「コラ分らぬ奴じゃ、これへ二人の者を打込《うちこ》んだではないか」
市「打込《ぶちこ》んだと云って、先で己《おら》に打《ぶ》って掛るから己だって黙っては居《お》られねえから、手エひん捻《ねじ》って突いたら、向うの野郎逆蜻蛉を打《う》って落《おっこ》ちたので、私《わし》が打落《ぶちおと》したのではねえ」
巡「じゃアから分らぬ事を云わんで派出へ参れ」
市「派出てえ何処《どけ》え」
巡「屯所《とんしょ》へ参れ」
市「屯所たってお屯様《たむろさま》へ呼ばれる私《わし》罪はなえ」
巡[#「巡」は底本では「市」]「分らん奴であるぞ、罪と云うは今の事じゃ、二人を打落《ぶちおと》したのが罪じゃ」
市「己《おら》を先へ打《ぶ》つ奴の方が罪があると思いやんすが、どうだえ」
巡「分らん事を申すな、お前は布告を知らんなア」
市「へい知りません、私《わし》の方へ布告が廻った事もありやんすが、読めねえだ、手習《てなれえ》した事がねえから何だか分らねえから印形|捺《つ》いて段々廻すだ、時々聞きに来いなんど云うが、郡役所だって一里半もあるので、其処まで参るには商業《しょうべえ》を休まなければなんねえだから、聞きに往《い》く訳にはめえりませんよ」
巡「どうもはや分らぬ奴……参れ」
市「参《めえ》れませんよ」
巡「なぜ参らぬか」
市「なぜ参《めえ》らぬだって、貴方《あんた》私《わし》が悪くアねえのだに、先に打《ぶ》ちやした奴を先へ連れて往《ゆ》くがいゝのだ、私ばかり悪いからって連れて行くてえなア無理な話で」
巡「どう云う理由《わけ》で此の谷へ打込《ぶちこ》んだか、それを申せ」
市「はい打込んだってえ、私《わし》を打ったゞからよ」
巡「じゃが理由《わけ》なく貴様を打つという事もあるまい、貴様に悪い事があるから向うでも打擲したのだろうから隠さず云え」
市「隠すも何もねえ、此処な家《うち》へ来て芸妓《げいしゃ》が来《き》ねえって皿小鉢を投《ほう》って暴れるので、仕方がねえから、私《わし》用があって此家《こけ》え来て居りやんしたが、見兼て仲へ這入った処が、私《わし》胸倉ア捉《と》るから、仲人《ちゅうにん》だと云うのに聞入れず私を打ちに掛ったから、まご/\すると打たれるから引外《ひっぱず》したら蹌《よろ》けたので」
巡「また左様《そう》云う悪い者があったら手込《てごみ》に谷川へ打込む事はならぬ、すぐ派出も在《あ》るものじゃから訴えなければならんに、手込《てごめ》にする事はない、なぜ届け出《いで》んのじゃ」
市「だって此の谷を下りて、貴方《あんた》の方へ訴えて此処《こけ》え来る時分には逃げてしまうから、打たれ損にならねえ先に、貴方だって間に合いませんから、私《わし》は貴方の代りに打殴《ぶちなぐ》って、谷へ投り込んだので、早く云えば貴方の代りにしたので、大きに御苦労ぐれえ仰しゃっても宜かろうと思いやんす」
巡「えゝ、僕を愚弄致すか」
市「愚弄てえ何か」
巡「えゝ分らぬチュウものじゃ、まア参れよ」
市「参《まい》りませんよ」
巡「参らぬと云う事があるものか」
 と分らぬ奴もあるもので、田舎育ちでも今は開けましたが、其の頃は無学文盲の無法者がありまして、強情を張ってお困りでございますが、これを丹誠して引張《ひっぱ》って行《ゆ》く、実に御難儀なお役で。
巡「参れ/\」
 と手を捉《と》って引こうとしたが大力無双の市四郎が少しも動かず、引く途端に官棒でお打ちなすったのではありませんが、グッと引く機《はず》みに市四郎の手先へ棒が当ると、市四郎が怒《おこ》って、
市「や私《わし》を打《ぶ》ったな、貴方《あんた》なんで打った、無暗《むやみ》に打って済むか、お役人が人民《ひと》を打殴《ぶんなぐ》って済むか、貴方では分らねえから、もっと鼻の下に髯の沢山《たんと》生えた方にお目にかゝり、掛合いいたしやす、さア一緒に行《い》きましょう」
 と反対《あべこべ》に巡査さんの手を捉って向山の坂を下りましたが、世の中には理不尽な奴もあれば有るもので、是からお調べに相成ります。

        三十一

 さて引続きまする伊香保の湯煙のお話でございます。向山の玉兎庵で五長太という士族を谷へ投込みました者は、大力無双の筏乗市四郎という者でありますが、此の人は誠に天稟《うまれつき》侠客《きょうかく》の志がございまして、弱い者を助け、強い者は飽くまでも向うを張りまするので、村方で困る百姓があれば、自分も困る身上《みじょう》でございますが、惜し気もなく恵むという極《ごく》義堅い気質でございまして、三の倉に居ります中《うち》は御領主の小栗上野介様が討たれました時其の村方を御支配なさるお方が彼様《あん》なお死に様《よう》をなすって誠にお気の毒の事というので、其の人に附いて居りました忠義の御家来、老人であるからというので自分方へ引取って三ヶ年介抱を致して、此の人が此の市四郎のお蔭で見送りをされますなどという細かきお話は後《あと》で申上げますが、中々聞かない気質で、其の代り此の市四郎は学問がございませぬから開化の事は頓と心得ませぬが、巡査|様《さん》でも何でも見境なく無暗《むやみ》に強情を張って巡査様の手を取って向山の坂を降り、また登って派出所に参りました。巡査様もお驚きで、左様なる暴な奴に逢っては仕方がないもので、此の事を警部|様《さん》へお伝えなされた事でございますから、警部公お出向きなされたが、恐れる気色《けしき》もなく仁王立に突立って居ります。
警「これ、手前か向山の玉兎庵で口論の末士族|体《てい》の者を谷川へ打込《ぶちこ》んじゃというが、それは何うも宜しくない、どういう訳でそういう乱暴な事を致すか」
市「先刻《さっき》も私《わし》が云います通り、乱暴でねえで、何方《どっち》が乱暴だかねえ、貴方《あんた》の方で能く調べねえで無闇に来《こ》う/\と云って此処まで連れて来て、私もコレ用のある人間で、一日|幾許《いくら》って手間を取って居る者が、暇ア消《つぶ》して此処まで引張られるは難儀だから、参《めえ》らねえというものを何んでもという、私ア暇を消して参《めえ》ったが、私が悪《わり》いか向うな士族とかいうが悪いか見定めて人を引張ったら宜かろう」
警「そうじゃが、其の方は谷川へその士族体の者を打込んだという、巡査が確《しか》と是を見届け、又福田連藏方からも届けがあった故に出張した処《とこ》が、全く其の方が投込んだという、其の方住所姓名は何と申すか、えゝ其の方の住所姓名を申せ」
市「何も私《わし》ア……住持に悪体《あくてえ》を清兵衞《せいべえ》が吐《つ》いたという訳でねえが、ありゃア三の倉の間違えでしょう」
警「いや其の方の住んで居《お》る所は何と申す」
市「私《わし》の居《い》る処《とこ》か、私の居る処は吾妻郡の市城村で」
警「其の方は姓名は何と申すか」
市「姓名てえ何か」
警「其の方の名」
市「己《おら》ア名か、己ア市四郎と云います」
警「営業は何か」
市「えゝ」
警「営業」
市「なに」
警「分らん奴じゃ、ウーン営業を知らんてえ事があるか」
市「知りません、其様《そん》な事どうして、只の字せえ知らねえで習わねえに英語なぞ何《な》に知る訳がねえ、それは外国人《げえこくじん》のいうことだ」
警「英語ではない、営業というは其の方の渡世《なりわい》商売じゃ」
市「商売《しょうべえ》か商売は市四郎てえ筏乗でがんす」
警「何故《なにゆえ》あって向山へ今日《こんにち》参ったか」
市「何をたって連藏さんとは心安い者《もん》で、茸《きのこ》を些《ちっ》とばかり採ったから商売の種に遣りてえと思って持って来て、縁側で一服|喫《や》って居ると、向うの離座敷で暴れ廻る客があるだ、若い衆を擲《なぐ》っていけえこともねえ皿を打壊《ぶちこわ》したりして見兼ねたから、仲へ這入《へえ》って何故《なぜ》此様《こん》な事をすると段々尋ねた処《とこ》が、仲人《ちゅうにん》の私《わし》がに悪口《あっこう》吐《つ》いて打《ぶ》って掛るから、打たれては間に合いませぬから胸を衝《つ》くと逆蜻蛉を打って顛覆《ひっくりけえ》ったゞ、ねえまア向うが弱《よえ》えからだ」
警「何故《なぜ》其の様な暴な事をするか」
市「するッたって向うで打《ぶ》つから己《おら》ア方でも打ったゞ、黙って見ては居《い》られねえから打ちやした」

        三十二

警「仮令《たとえ》そういう者があるにもせよ、何故左様な暴な事を士族体の者が致したら、此の方へ届けん、自身|手込《てごみ》に打擲するという事はない、人を打《ぶ》つてえ事はない、殴打|創傷《そうしょう》の罪と申して刑法第二百九十九条に照して其の方処分を受けんければならんじゃないか」
市「えゝ、あれはナニ二百五十銭ばかりの銭で腹ア立てゝ、あれは根が太田宗長《おおたそうちょう》という医者が悪いので、薬礼しろというが、銭ねえならお前二百五十銭に負けて遣ってくれというが、負けられねえっていうから喧嘩になったゞ」
警「ナニ……そんな事を尋ねるのじゃアない、ウーン誠に困るナ……其の方は人の身体を無闇に打つものではない、人の身体は大切のものじゃ、分らんか、この肉体というものは容易なものではない造物主より賜わる処の此の肉体は大切なものじゃ」
市「誰が呉れやした、虚言《うそ》ばかり吐《つ》いて、此の体は木彫《きぼり》じゃアねえし仏師屋《ぶっしや》が造ったなんてえ」
警「仏師屋じゃアない造物主、早く言えば神から下すった身体、無闇と殴《う》ち打擲して、殊に谷川へ投込むなどとは以ての外《ほか》であるぞ」
市「じゃア先方《むこう》の体ばっかり神様から貰って、己《おら》ア体は粗末《ぞんぜえ》にしても構わねえと云わっしゃるのか」
警「粗末《そまつ》にするという事があるか、先方《せんぽう》の身体も貴様の身体も同じじゃ、それじゃに依って喧嘩口論して、粗暴に人を打擲する事はならん」
市「何だか貴方《あんた》の云うことは明瞭《はっきり》分らねえ、だがねえ己《おら》ア身体は大事、先方《むこう》な身体も大事と一つにいうなら、何故己ア身体を先方な奴が打《ぶ》ったか、打たれては腹が立つ、先方で打って此方《こっち》で手出しが出来ねえといって、此方の坂を下りて亦登って貴方へ打ちやしたと届けて出て、それ
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