附けてあり、坊さんが畠から切って来たものか黄菊《きぎく》に草花が上《あが》って居ります、すると鼠の単物《ひとえもの》を着、腰衣《こしごろも》を着けた六十近い尼が御燈明《おとうみょう》を点《つ》けに参りましたから、
 新「少々お願いがございますが、私共《わたくしども》は旅のもので此の通りの雨で難渋致しますが、どうか少々の間|雨止《あまやみ》を仕度《した》いと存じますが、お邪魔でも此の軒下を拝借願い度《た》いものでございまする」
 尼「はい、御参詣のお方でございますかえ」
 新「いえ通り掛りの者ですが、此の雨に降りこめられました、尤《もっと》も有験《あらたか》な観音様だと聞いておりますからお参りもする積りでございまする」
 尼「吹掛《ふっか》け降《ぶ》りですから其処《そこ》に立ってお出でゞは嘸《さぞ》お困りでございましょう、すぐ前に井戸もありまするから足を洗って此方《こちら》へ上《あが》って、お茶でも飲みながら雨止をなすっていらっしゃいまし」
 新「有難う存じます、えお賤、金か何か遣れば宜《い》いから上《あが》んねえ、じゃア御免なさい、誠に有難う存じます」
 尼「其処《そこ》に盥《たらい》もありますから、小さい方を持って往って足を洗ってお出でなさい」
 新「へえ」
 と是《こ》れから足を洗い、
 新「誠にお蔭様で有難うございます」
 と上りましたが、新吉もお賤もあつかましいから、囲炉裡《いろり》の側へ参り、
 新「お蔭様で助かりました」
 賤「誠にどうもとんだ御厄介さまでございました」
 尼「おや/\御夫婦|連《づれ》で旅をなさいますの、藤心村まで出るとお茶漬屋ぐらいはありますが、此の辺には宿屋がございませんから定めてお困りでしょう、遠慮なしにもっと囲炉裡の側へお寄んなさい」
 新吉は何程か金子を紙に包んで尼の前へ差出し、
 新「是は誠に少し許《ばか》りでございますが、お蔭で助かりましたから、お茶代ではありませんが、どうかこれで観音様へお経でもお上げなすって下さいまし」
 尼「いえ/\それは決して戴きません、先刻《さっき》貴方《あんた》は本堂へお賽銭をお上げなすったから、それでもう沢山でございます、御参詣の方は皆《みんな》お馴染になって、他村《たそん》のお方が来ても上《あが》り込んで、私の様な婆《ばゞあ》でも久しく話をして入らっしゃいますのですから御心配なく寛《ゆっく》りとお休みなすって入らっしゃいまし」
 と云われ、新吉はお賤の顔を見ながら小声にて、
 新「だって、きまりが悪《わ》りいな、これはほんの私の心許りでございますから、貴方|後《あと》でお茶請《ちゃうけ》でも買って下さいまし」
 尼「いえ私は喰物《たべもの》は少しも欲しくはありませんお賽銭を上《あげ》たからもうお金などは宜《よ》うございますよ」
 新「そんな事をいわずに何卒《どうか》取って置いて下さいまし」
 尼「そうでございますか、又気になすっては悪いし、折角の思召《おぼしめし》ですから戴いて置きましょう、日が暮れると雨の降る時は寒うございます、直《じき》に本郷山が側ですから山冷《やまびえ》がしますから、もっと其の麁朶《そだ》をお焚《く》べなさいまし」
 新「へい有難う存じます」
 といいながら松葉や麁朶を焚べ、ちょろ/\と火が移り、燃え上りました光で、お賤が尼の顔を熟々《つく/″\》見ていましたが、
 賤「おやお前はお母《っか》アじゃないか」

        八十七

 尼「はい、どなたえ」
 賤「あれまア何《ど》うもお母アだよ、まア何うしてお前尼におなりだか知らないが、本当に見違えて仕舞ったよ、十三年|後《あと》に深川の櫓下の花屋へ置去《おきざり》にして往《い》かれた娘のお賤だよ」
 と云われて尼は恟《びっく》りし、
 尼「えゝ、まアどうも、誠に面目次第もない、私も先刻《さっき》から見た様な人だと思ってたが、顔貌《かおかたち》が違ったから黙ってたが、どうも実に私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃアありませんが、頭髪《あたま》を剃《す》って斯《こ》んな身の上になったから逢われますものゝ、定めて不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍して下さいあやまります」
 賤「それでも能く後悔してね」
 尼「此の通りの姿になって、まア此の庵室に這入って、今では毎日お経を上げた後《あと》では観音様へ向って、若い時分の悪事を懺悔してお詫び申していますけれども、中々罪は消えませんが、頭髪《あたま》を剃《す》って衣を着たお蔭で、村の衆《しゅ》がお比丘《びく》様とか尼様とか云って、種々《いろ/\》喰物《たべもの》を持って来て呉れるので、何《ど》うやら斯《こ》うやら命を繋《つな》いでいるというだけのことで、此の頃は漸々《よう/\》心附いて、十六の時置去にしたお賤はどうしたかと案じていても、親子で有《あり》ながら訪ねる事も出来ないというのは皆《みんな》罰《ばち》と思って後悔しているのだよ」
 賤「どうもね本当に、それでも能くまア法衣《ころも》を着る了簡になったね」
 といいながら、新吉に向い、
 賤「お前さんにも話をした深川櫓下の花屋の、それね……お前さんの様な親子の情合《じょうあい》のない人はないけれ共能くまア後悔してお比丘におなりだね」
 尼「比丘なんぞになり度《た》い事はないが、是も皆《みんな》私の作った悪事の罰《ばち》で、世話のして呉れ人《て》もなくなり、段々|老《と》る年で病み煩いでもした時に看病人もない始末、あゝ何《ど》うしたら宜《よ》かろう、あゝ是も皆《みんな》罰ではないかと身体のきかない時には、真《ほん》に其の後悔というものが出て来るものでのうお賤、して此のお方はお前の良人《おつれあい》かえ」
 賤「あゝ」
 新「いつでも此女《これ》から話は聞いていました、一人お母様《っかさん》があるけれ共|生死《いきしに》が分らない、併《しか》し丈夫な人で、若い気象だったから達者でいるかとお噂は能くしますが、私は新吉と云う不調法ものでございますが、今から何分幾久しゅう願います」
 尼「此のお賤は私の方では娘とも云えません、又親とは思いますまい、憎くってねえ、あゝ実にお前に会うのも皆《みんな》神仏《かみほとけ》のお叱りだと思うと、身を切られる程つらいと云う事を此の頃始めて覚えました、云わない事は解りますまいが、私は此の頃は誰が来ても身の懺悔をして若い時の悪事の話を致しますと、遊びに来る老爺《おじい》さんや老婆《おばあ》さんも、おゝ/\そうだのう、悪い事は出来ないものだと云って、又其の人達が若い時分の罪を懺悔して後悔なさる事があるから、私が懺悔をしますと人さまもそれに就《つい》て後悔して下されば私の身の為にもなろうと思って、逢う人|毎《ごと》に私の若い時分の悪事を懺悔してお話を致します、私も若い時分の放蕩と云うものは、お賤は知りませんが中々一通りじゃアありませんでしたよ」
 新「お母《っか》さん、なんですか、お前さんは元《も》と何処《どこ》の出のお方でございます、多分|江戸子《えどっこ》でしょう」
 尼「いえ私の産れは下総の古河《こが》の土井さまの藩中の娘で、親父《おやじ》は百二十石の高《たか》を戴いた柴田勘六《しばたかんろく》と申して、少々ばかりは宜《よ》い役を勤めた事もある身分でございましたからお嬢様育ちで居たのですが、身性《みじょう》が悪うございまして、私が十六の時家来の宇田金五郎《うだきんごろう》という者と若気の至りで私通《いたずら》をし、金五郎に連れられて実家を逃出し江戸へ参り、本郷菊坂に世帯《しょたい》を持って居りましたが丁度あの午年《うまどし》の大火事のあった時、宝暦《ほうれき》十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、十七や十八で児《こ》を拵《こしら》える位だから碌なものではありません、其の翌年金五郎は傷寒《しょうかん》を煩《わず》らって遂《つい》に亡《なく》なりましたが、年端《としは》もゆかぬに亭主には死別《しにわか》れ、子持ではどうする事も出来ませんのさ、其の子供には名を甚藏と附けましたが、何《なん》に肖《あや》かったのか肩の処に黒い毛が生えて、気味の悪い痣《あざ》があって、私も若い時分の事だから気色が悪く、殊《こと》に亭主に死なれて喰い方にも困るから、菊坂下の豆腐屋の水船《みずぶね》の上へ捨児《すてご》にして、私は直《す》ぐ上総の東金へ往って料理茶屋の働き女に雇われて居る内に、船頭の長八《ちょうはち》という者といゝ交情《なか》となって、また其処《そこ》をかけ出して出るような事に成って、深川|相川町《あいかわちょう》の島屋《しまや》と云う船宿を頼み、亭主は船頭をし、私は客の相手をして僅《わず》かな御祝儀を貰って何《ど》うやら斯《こ》うやらやって居る中《うち》に、私は亭主運がないと見え、長八がまた不図《ふと》煩いついたのが原因《もと》で、是も又死別れ、どうする事も出来ないから[#「出来ないから」は底本では「出事ないから」]心配して居ると、島屋の姐《ねえ》さんのいうには、迚《とて》もお前には辛抱は出来まいが[#「出来まいが」は底本では「出事まいが」]、思い切って堅気にならないかと云われ、小日向の方のお旗下の奥様がお塩梅が悪いので、中働《なかばたらき》に住み込んだ処が、これでも若い時分は此様《こん》な汚ない婆《ばゞ》アでもなかったから、殿様のお手が附いて、僅《わずか》な中《うち》に出来たのは此のお賤」

        八十八

 尼「此娘《これ》も世が世ならばお旗下のお嬢さまといわれる身の上だが、運の悪いというものは仕方がないもので、此のお賤が二歳《ふたつ》の時、其のお屋敷が直《じき》に改易に成ってしまい、仕様がないから深川櫓下の花屋へ此の娘《こ》を頼んで芸妓《げいしゃ》に出して、私の喰い物にしようと云う了簡でしたが、又私が網打場の船頭の喜太郎《きたろう》という者と私通《いたずら》をして、船で房州《ぼうしゅう》の天津《あまつ》へ逃げましたがね、それからというものは悪い事だらけさ、手こそ下《おろ》して殺さないでも口先で人を殺すような事が度々《たび/\》で、私の為に身を投げたり首を縊《くゝ》って死んだ男も二三人あるから、皆《みんな》其の罰《ばち》で今|斯《こ》う遣って居るのも、彼《あ》の時に斯ういう事をしたから其の報いだと諦め、漸々《よう/\》改心をしましたのさ、仕方がないから頭髪《あたま》を剃《そり》こかし破れ衣を古着屋で買ってね、方々托鉢して歩いて居る中《うち》、此の観音様のお堂には留守居がないからお比丘さん這入って居ないかと村の衆に頼まれるから、仮名附のお経を買って心経《しんぎょう》から始め、どうやら斯うやら今では観音経ぐらいは読めるように成ったが、此の節は若い時分の罪滅《つみほろぼ》しと思い、自分に余計な物でもあると困る人にやって仕舞うくらいだから、何も物は欲しくありません、村の衆が時々畠の物なぞを提げて来てくれるから、もう別にうまい物を喰度《たべた》いという気もなし、只観音様へ向ってお詫事をして居るせえか、胸の中《うち》の雲霧《くもきり》が晴れて善に赴《おもむ》いたものだから、皆さんがお比丘様/\と云って呉れ、此の観音様も段々繁昌して参り、お比丘さんにお灸《きゅう》を据《す》えて貰えのお呪《まじない》をして貰い度《たい》のといって頼みに来るから、私も何も知らないが、若い時分から疝気《せんき》なら何処《どこ》が能《い》いとか歯の痛いのには此処《こゝ》が能《よ》いとか聞いてるから据えて遣ると、向《むこう》から名を附けて観音様の御夢想《ごむそう》だなぞと云って、今ではお前さん何不足なく斯《こ》う遣って居ますが今日|図《はか》らずお前達に逢って、私は尚《な》お、観音様の持って入らっしゃる蓮《はす》の蕾《つぼみ》で脊中を打たれる様に思いますよ、まだ二人とも若い身の上だから、是から先《さ》き悪い事はなさらないように何卒《どうぞ》気をお附けなさい、年を老《と》ると屹度《きっと》報《むく》って参ります、輪回応報《りんねおうほう》という事はない
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