りません、小座敷には酒《さけ》肴《さかな》が散《ちら》かって居り、四畳半の部屋に来て見ると情ない哉《かな》お隅は返り討に逢って非業な死に様《よう》。
 主「あゝ気の毒なこと、可哀そうに、でも女一人で往《ゆ》くのは実に不覚であった」
 もう今更どうも仕方が無いが一角はというと、一角は此処《こゝ》を遁《のが》れて行方知れず二畳の部屋を明けて見ると沢庵石だの、醤油樽だの七輪の載せてある夜具の下に死んで居る者が一人ござりますから、是から直《すぐ》に麹屋から慥《たしか》に証拠があって敵討をしようと思って返討に成ったという事を訴えになり、直にお隅の書置を羽生村へ持たせて遣りました時には、母も惣吉も多助も
「アヽ左様《そう》とは知らずに犬畜生《いぬちきしょう》の様な恩知らずの女と悪《にく》んだのは悪かった、あゝいう愛想尽《あいそづか》しをいったのも、全く敵が討ちたいばっかりでお隅が家《うち》を出たのであったか、憫然《かわいそう》なことをしたが、お隅が心配して命を棄てたばかりに敵は一角と定まり先《ま》ず富五郎は討止めたが、一角の為に返り討になって死んだといえば悪《にく》いは一角、早く討ち度《た》い」
 と思いまするが、何しろ年を取った母と子供の惣吉|許《ばか》りでございますから、関取を頼んでと、もう名主役も勤まりませんから、作右衞門という人に名主役を預けて置き、花車重吉が上総の東金《とうがね》の角力に往ったということを聞きましたから、直《すぐ》に其所《そこ》に行《ゆ》こうというので旅立の支度を致し、永く羽生村の名主を致して居りましたから金は随分ござります、これを胴巻に入れたり、襦袢《じゅばん》の襟に縫附けたり、種々《いろ/\》に致して旅の用意を致します、其の内に荷拵《にごしら》えが出来ると、これを作右衞門の蔵へ運んで預けると云う訳で、只今まで名主を勤めて盛んであったのが、ぱったり火の消えた様でござります。

        七十八

 母「多助や」
 多「ヘエ」
 母「作右衞門が処《とけ》え行って来たかい」
 多「ヘエ行って参《めえ》りました、蔵の方にゃ預かる者があるから心配《しんぺい》しなえが好《え》え、何時《いつ》でも帰《けえ》ったら直ぐに出すばいて、蔵の下は湿《しけ》るから湿なえ高《たけ》え処《とこ》に上げて置くばいといってね、作右衞門どんも旧来《きゅうれえ》の馴染ではア何《ど》うか止め度《た》いと思うが、敵を討ちに行くてえのだから止められねえッて名残《なごり》イ惜《おし》がってるでがんす、村の者もねえ皆《みんな》御恩になったゞから渡口《わたしぐち》まで送り度《て》えといってますが、あなたそういうから年い取った者ア来ないで好《え》えといって置きましたが、私《わし》だけは戸頭《とがしら》まで送り度《て》えと思って支度ウしました」
 母「汝《われ》も送らなえで好《え》いから若《わけ》え者《もん》を止めて呉んろよ、汝が送ると若え者も義理だから戸頭まで送りばいと云って来るだ、そうすりゃア送られると送られる程名残い惜いから、汝も送らなえでも好《え》いよ」
 多「だけンどもはア村の者《もん》は兎も角も私《わし》はこれ十四歳の時から御厄介《ごやっけえ》になって居りまして、お前様《めえさん》のお蔭でこれ種々《いろ/\》覚えたり、此の頃じゃアハア手紙の一本|位《ぐれえ》書ける様になったのア前《めえ》の旦那の御厄介《ごやっけえ》でがんすから、お家《うち》がこうなって遠い処《とけ》え行くてえ事《こっ》たら私《わし》も附いて行かないばなんねえが、婆様《ばあさまア》塩梅《あんべい》が悪うござえまして、見棄てちゃアなんねえというから、あなたのお心へ任して送りはしねえが、切《せ》めて戸頭まで送りてえと思って居ります、塚前《つかさき》の彌右衞門《やえもん》どんは死んだかどうか知んねえが、通り道から少し這入《へい》るばかりだから、ちょっくり塚前へも寄ったが宜《え》い」
 母「それもどうするかも知んなえが、汝《われ》は送らなえが好《え》いよ」
 多「でも戸頭まで送るばいと思って居ります」
 母「送らんで宜《え》いというに何故そうだかなア、汝《われ》ア死んだ爺様《とっさま》の時分から随分世話も焼かしたが家《うち》の用も能く働いたから、何《なん》ぞ呉れ度《て》えと思うけれども何も無《な》えだ、是ア惣次郎が居る時分に祝儀不祝儀に着た紋附《もんつき》だ、汝も是《こ》れから己《おら》ア家《うち》が無くなれば一人前の百姓に成るだから、祝儀不祝儀にゃアこういう物も入《い》るから、此の紋附一つくればいと云う訳だよ、それから金も沢山呉れ度《て》えが、茲《こゝ》に金が七両あるだ、是ア少し訳があって己《おら》が手許《てもと》にあるだから是を汝がにくればい、此の紬縞《つむぎじま》ア余《あんま》り良くなえが丹精して捻《より》をかけて織らした紬縞で、ちょく/\阿弥陀様へお参《めえ》りに往ったり寺参《てらめえ》りに着て往った着物だから、是を汝がに呉れるから仕立直して時々出して着るが好《え》え、三日でも旅という譬《たと》えがあるが、子供を連れて年寄が敵討《かたきぶち》に行くだから、一角の行方が知んなえば何時《いつ》帰《けえ》って来るか知んなえ、長《なげ》え旅で死ななえともいわれなえ、是ア己が形見だから、己が無《な》え後《のち》も時々これを着て己がに逢う心持で永く着てくんろ、よ」
 多「はい、私《わし》戸頭まで送るばいと思ったに…どうも是《こ》れいりません…形見……形見なんて心細《こゝろぼせ》えこといわずにの、あんたも惣吉さんも達者で帰《けえ》って、もう一度名主役を惣吉さんが勤めなえば私の顔が立ちませんから、どうか達者で帰《けえ》っておくんなさえよ、惣吉さん今迄とア違うから、母様《かゝさま》に世話ア焼《やか》せねえ様に、母様ア大事《でえじ》にしなえばなんねえよ、惣吉さん、好《い》いかえ、今迄の様なだだ[#「だだ」に傍点]いっちゃアなりませんよ、いゝかえ、どうか私は戸頭まで」
 母「送らんで好《え》えというに汝《われ》が送るてえば皆《みんな》若《わけ》え者《もん》も送りたがるから、誰か来たじゃなえか」
 作「ヘエ御免」
 多「やア作右衞門どんが」
 母「さア此方《こっち》へお這入りなさえ」
 作「誠にどうも、魂消《たまげ》て、どういう訳で急に立つことになったか、村の者もどうか止め度《て》えというから、馬鹿アいうな、止められるもんか、今度ア物見遊山でなえ、敵討《かたきぶち》に行くだというと、成程それじゃア止められねえが、まア名残い惜《おし》いってね、若《わけ》え者《もん》ば皆|恩《おん》になってるだから心配《しんぺえ》ぶっております、留守中は役にア立たないがお帰《けえ》りまでア慥《たしか》に荷物は皆《みんな》蔵へ入れて置きましたが、何卒《どうか》まア早く帰《けえ》ってお出でなさる様に願《ねげ》え度《て》えもんで」
 母「はい、お前方も旧《ふり》い馴染でがんしたけんども、今度が別れになります、はい有難うござえます、多助や誰か若《わけ》え者《もん》が大勢来たよ」
 多「やア兼《かね》か、さア此方《こっち》へ這入《へえ》れ、お、太七郎《たしちろう》此方へ」
 太「はい有難う、誠にまアどうも明日《あした》立つだって、魂消て来たでがんす、どうもこれ名残い惜くって渡口まで送るという者《もん》が沢山ござえます」
 母「ありゃまア、送らねえでも好《え》えよ、用がえれえに」
 太「なに用はなえだから皆《みな》送り度《て》えと思《おめ》えまして、名残い惜いが寒《さみ》い時分だから大事にしてねえ」
 母「はい有難う、又祝いの餅い呉れたって気の毒なのう、どうか婆様《ばあさま》ア大事にして」
 太「ヘエ婆《ばゝ》アもどうかお目に掛り度《て》えといっております」
 母「おゝ誰だい、さア此方《こっち》へ這入りな」
 甲「ヘエ、誠にはア、魂消まして、どうかまア止め度《て》えといったら止めてはなんねえって叱られた、随分道中を大事に」
 九「ヘエ御免」
 母「誰だい」
 九「九八郎で、誠にどうもさっぱり心得ませんで、急にお立だと云うこッて、お名残い惜《おし》ゅうござえます」
 母「おや/\上《かみ》の婆様《ばゞさま》、あんた出《で》で来《き》なえで好《え》えによ」
 婆「はい御免なさえ、誠にまアどうも只お名残い惜いから、どうぞ碌に見えない眼だが、ちょっくりお顔を見てえと思ってお暇乞《いとまごえ》に参《めえ》りました、明日《あした》立つだッて、なんだかあっけなえこったって、私《わし》の嫁なんざア泣《ね》えてばいいるだ、随分|大事《でえじ》になえ」
 母「はい有難うござえます、お前《めえ》も随分|大事《でいじ》にして、毎《いつ》も丈夫で能くねえ」
 乙「ヘエ誠にどうもお力落しでがんす」
 丙「おい/\何《なん》だってお力落しなんていうんだ」
 乙「でも飛んだ事だと云うじゃアなえか」
 丙「馬鹿いえ、敵討《かたきぶち》にお出でなさるのに力落しという奴があるか」
 乙「ヘエ誠にそれはアお目出度《めでて》えこって」
 丙「これ/\お目出度えでなえ」
 乙「なんでも好《い》いじゃアなえか」
 という騒ぎで、村中餅を搗きましたり、蕎麦を打ったり致して一同出立を祝するという、惣吉|仇討《あだうち》に出立の処は一寸一息。

        七十九

 さて時は寛政十一年十二月十四日の朝早く起きまして、旅仕度を致しますなれども、三代も続きました名主役、仮令《たとえ》小村《こむら》でも村方を離れて知らぬ他国へ参りますものは快くないもので、殊《こと》には年を取りました惣右衞門の未亡人《びぼうじん》が、十歳になる惣吉という子供の手を曳いて敵討《かたきうち》の旅立でありますから、村方一同も止める事も出来ず、名残を惜んでおります、皆小前の者がぞろ/\と大勢川端まで送って参ります。
 母「さア作右衞門さんこれで別れましょうよ、何処《どこ》まで送っても同じ事《こッ》たからこれで」
 作「だけんども船へ乗るまで送り申し度《て》いと皆こういっている」
 母「だけんども却《けえ》って船に私《わし》乗っかって、皆《みんな》が土手の処にいかい事皆が立っていると、私快くねえ、名残惜くって皆が昨宵《ゆうべ》から止められるのでね、誠に立度《たちた》くござえませんよ、何卒《どうぞ》お前が差図《さしず》して帰しておくんなさいましよ」
 作「はい、それじゃア皆《みん》な是《こ》れにてお別れとしましょうよ、えゝ送れば送られる程御新造は心持い悪いてえからよう」
 村方の者「左様ならまア随分お大事に」
 村方の者「左様ならハアお大事《でえじ》に」
 村方の者「左様ならお大事《でえじ》に、早くお帰りなさいましよ」
 作「何卒《どうぞ》早くお帰《けえ》りをお待ち申しますよ」
 母「さアよ多助どうしたもんだ、汝《われ》其所《こゝ》に立っているから皆《みんな》立っていべえじゃアねえか、汝から先《さ》き帰《けえ》ろというに」
 多「おれだけは戸頭まで送る」
 母「送らねえでも宜《え》えてえに」
 多「送らねえでも宜えたって、村の者《もん》と己とは違う、己はあんた十四の時から側にいるので、何所《どこ》まで送っても村の者《もの》は兎や角云う気遣《きづけえ》ねえから送り申しますよ」
 母「あゝいう馬鹿野郎だもの、汝《われ》が送ると云えば皆《みんな》が送ると云うから汝|帰《けえ》れてえに、昨宵《ゆうべ》いったこと分らなえか」
 多「ヘエ、じゃア御機嫌よく行っておいでなせえ、惣吉様道中でお母様《っかさま》に世話やかしてはいけませんよ、今までは草臥《くたび》れゝば多助が負《おぶ》って上げたが、もう負って上げる者《もん》はねえよ、エヽ気の毒でもあんた歩いてまいらなえばならんだ、永旅だから我儘してお母様に心配《しんぺえ》かけてはなりませんよ、大事《でえじ》に行っておいでなさえましよ」
 惣「うーん、大丈夫だよ、多助も丈夫で」
 多「こんな別れの辛い事《こた》ア今迄ねえね」
 母「別れエ辛《つれ》えたッておっ死《ち
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