藏を欺《あざむ》いて根本の聖天山の谷へ突落《つきおと》し、上から大石《たいせき》を突転がしましたから、もう甚藏の助かる気遣《きづかい》は無いと安心して、二人差向いで、堤下《どてした》の新家《しんや》で一口飲んで、是《こ》れから寝ようと思って雨戸を締めようという所へ、土手の生垣を破って出たのは土手の甚藏、頭脳は破れて眉間《これ》から頤《これ》へ掛けて血は流れ、素肌に馬の腹掛を巻付けた姿《なり》で庭口の所へ斯《こ》う片足踏出して、小座敷の方を睨《にら》みました其の顔色《がんしょく》は実に二《ふ》タ眼とは見られぬ恐しい怖い姿《すがた》でござりますから、新吉お賤は驚いたの驚かないの、ゾッと致しました。座敷へ上《あが》ってキャア/\騒がれては大変と思いましたが、新吉はもとよりそれ程|悪徒《わるもの》という程でも有りませんから、たゞ甚藏の見相《けんそう》に驚きぶる/\慄《ふる》えて[#「慄《ふる》えて」は底本では「慓《ふる》えて」]いるから、
 賤「新吉さんお前|爰《こゝ》にいてはいけないよ、どんな事が有っても詮方《しかた》がないから土手へ連れて行って彼奴《あいつ》を斬払《ぶっぱら》っておしまいよ」
 新「斬払えたって出れば殺される」
 賤「大丈夫だよ、戸外《おもて》へ連れて行って堤《どて》の上で」
 とぐず/″\云っているうちずか/″\と飛込んで縁側へ片足踏かけました甚藏は、出ようとする新吉の胸ぐらを把《と》って
 甚「己《うぬ》、いけッ太《ぷて》え奴、能くも彼《あ》の谷へ突落しやアがったな、お賤も助けちゃア置かねえ能くも己《おれ》を騙《だま》しやアがったな、サア出ろ、いけッ太え奴だ、お賤の女《あま》も今見ていろ」
 と堤の上へ引摺《ひきず》って行《ゆ》こうとする、此方《こちら》は出ようとする、向《むこう》は引くから、ずる/\と土手下へ落ちたから、
 新「ウム、後生だから助けて、兄い苦しい、己の持っている金は皆《みんな》お前《めえ》に、これさ兄い、何も彼《か》もみんなお前にやるから何《ど》うか堪忍して、然《そ》ういう訳じゃアねえ、行間違《ゆきまちが》いだから」
 甚「糞でも喰《くら》え、なに痛《いて》えと、ふざけやアがるな」
 と力を入れて新吉の手を逆に把《と》って捻《ねじ》り、拳固《げんこ》を振り上げてコツ/\撲《ぶ》ったから痛いの痛くないのって、眼から火の出るようでございます。
 新「兄い助けて呉れ/\」
 と喚《わめ》きますのを、
 甚「うぬ助けるものか、お賤のあまッちょも今|後《あと》からだ」
 と腰から出刄庖丁を取出して新吉の胸下《むなもと》を目懸けて突こうとすると、新吉は仰向に成って、
 新「己が悪かった堪忍して、兄い後生だから助けてよう」
 というも大きな声を出しては事が露顕しようと思いますから、小声で助けて呉んねえと呼ぶばかりでございます。すると何処《どこ》から飛んで来ましたかズドンと一発鉄砲の流丸《それだま》が、甚藏が今新吉を殺そうと出刃庖丁を振り翳《かざ》している胸元へ中《あた》りましたから、ばったり前へのめりましたが、片手に出刃庖丁を持ち、片手は土手の草に取つき、ずーと立上ったが爪立《つまだ》ってブル/\っと反身《そりみ》に成る途端にがら/\/\/\と口から血反吐《ちへど》を吐きながらドンと前へ倒れた時は、新吉も鉄砲の音に驚き呆気《あっけ》に取られて一向訳が分らないから、自分が[#「自分が」は底本では「身分が」]殺された心がしましてたゞ南無阿弥陀仏/\と申しましたが、暫くして漸《ようや》くに気が付き起上りまして四辺《あたり》を見廻し、
 新「アヽ何処から飛んで来たか鉄砲の流丸《それだま》、お蔭で己は助かったが猟師が兎でも打とうと思って弾丸《たま》が反《そ》れたか、アヽ僥倖《さいわい》命強《いのちづよ》かった、危ない処を遁《のが》れた、誰《たれ》が鉄砲を打ったか有難いことだ」
 併《しか》し猟夫《かりゅうど》が此の様子を見て居りはせぬかと絹川の方を眺めますれど、只水音のみでございまして往来は絶えた真の夜中でございます。此方《こちら》の庭の生垣の方からちらり/\と火縄の火が見える様だから、油断をせず透《すか》して見ますると、寝衣帯《ねまきおび》の姿《なり》で小鳥を打ちまする種が島を持って漸くに草に縋《すが》って登って来たのはお賤、
 賤「新吉さんお前に怪我は無かったかえ」
 新「お賤、手前《てめえ》はマア何《ど》うした」
 賤「私はモウ途方に暮れて仕舞って、お前に怪我をさしてはならないから何うしようかと思っても、女が刃物|三昧《ざんまい》しても彼奴《あいつ》には敵《かな》わないし、何うしようかと考えたら、ふいと気がついたんだよ、此の間ね旦那が鉄砲を出して小鳥をうつ時|手前《てまえ》もやって見ろッてんでね、やっと引金に指を当《あて》る事だけネ教わって覚えたので、時々やって見た事がある、今も丸《たま》が込めて有る事を思い出したから、直《すぐ》に旦那の手箱の中《うち》から取出してね、思い切って遣《や》って見たんだけれども、好《い》い塩梅に近くで発《はな》しただけに狙いも狂わず行《や》って、お前に怪我さえ無ければ私はマア有難い斯《こ》んな嬉しい事は無いよ」
 新「何しろ何《ど》うせ此の事が露顕せずにはいねえ、甚藏を撲殺《ぶっころ》して仕舞ってお前《めえ》と己と一緒に成っていられる訳のものじゃアねえから、今のうち身を隠してえものだ」
 賤「アヽ私もね茲《こゝ》にいる気はさら/\無いから、形見分《かたみわけ》のお金も有るのだけれども、四十九日まで待ってはいられないから、少しは私の貯《たくわ》えも有るから、それを持って二人で直《すぐ》に逃げようじゃアないか」
 新「ウム、少しも早く今宵《こよい》の内に」
 というので、是から衣類や櫛《くし》笄《こうがい》貯えの金子までも一《ひ》ト風呂敷として跡を暗《くら》まし、明《あけ》近い頃に逐電して仕舞いました。また甚藏の死骸は絹川べりにありましたが、夜《よ》が明けて百姓が通り掛って騒ぎ、名主へも届けたが、甚藏は平素《ふだん》悪《にく》まれもの、何うか死んで呉れゝばいゝと思っていた処、甚藏が絹川べりで鉄砲で撃殺《うちころ》されているというのを村の人達が聞込んで、アヽ是からは安心だ、甚藏が死ねば村の者が助かるまでよと歓び、其の儘名主様へ届けて法蔵寺に葬ったが、投込み同様、生きている中《うち》の悪事の罰で、勿論|悪徒《わるもの》ですから誰の所業《しわざ》と詮議して呉れる者も有りません。新吉お賤の逃去りましたのは固《もと》より不義|淫奔《いたずら》をしていて名主様が没《なくな》ると、自分達は衣類や手廻りの小道具何や彼《か》やを盗んでいなく成ったに相違ない。彼《あれ》は素《もと》より浮気をしていた者の駈落だから左《さ》もあるべしと、是も尋ねる者もないので何事も有りませんが、名主惣右衞門の変死は誰《たれ》有って知る者は無い。肝腎の知っている甚藏が殺されましたから、惣右衞門は全く病死したのだと心得て居りますが、中には疑がっている者も有りまして、様々いうが、マア名主の跡目は忰《せがれ》惣次郎、誠に柔和温順の人でお父《とっ》さんは道楽のみを致しましたが、それには引きかえ惣次郎は堅くって内気ですから他《た》に出たことも無い人でございますが、或時村の友達に誘われまして水街道へ参って、麹屋《こうじや》という家《うち》で一猪口《ひとちょこ》やりました、其の時、酌に出た婦人が名をお隅《すみ》と申しまして、齢《とし》は廿歳《はたち》ですが誠に人柄の好《よ》い大人しやかの婦人でございます。

        五十四

 水街道あたりでは皆|枕附《まくらつき》といいまして、働き女がお客に身を任せるが多く有りますが、此のお隅は唯無事に勤めを致し、余程人柄の好《よ》い立振舞から物の言い様、裾捌《すそさばき》まで一点の申分のない女ですから、惣次郎は麹屋の亭主を呼んで、是は定めし出の宜しい者だろうと聞合せますと、元は谷出羽守《たにでわのかみ》様の御家来で、神崎定右衞門《かんざきさだえもん》という人の子で、お父様《とっさま》と一緒に浪人して此の水街道を通り、此の家に泊り合せると定右衞門が生憎《あいにく》病気で長く煩らって没《なく》なり、後《あと》で薬代《くすりしろ》や葬式料に困って居ります故、宿の主人《あるじ》が金を出して世話を致しましたから恩報じかた/″\此の家に奉公致し、外《ほか》に身寄親類もない心細い身の上でございますから、何分願います、外の女とは違いまして真面目に奉公を致して居りますもの、贔屓《ひいき》にして下さいというので、惣次郎の気に入りまして、度々《たび/\》遊びに来る、其の頃の名主と申しては中々幅の利いた者ですから、名主様の座敷へ出る時は、働き女でも芸妓《げいしゃ》でも、まア名主様に出たよなどと申して見得《みえ》にしたものでございます。惣次郎もお隅には多分の祝義を遣わし折節は反物《たんもの》などを持って来て遣る事も有るから、男振といい気立《きだて》といい柔和温順で親切な名主様と、お隅も大切に致し、何《ど》うも有難いと思い、或日の事、
 隅「私は外に参る処もない身の上でございますから、何分御贔屓なすって下さい」
 というので、惣次郎も近々《ちか/″\》来る中《うち》に、不図した縁で此のお隅と深くなりました事で、今迄堅い人が急に浮《うか》れ出すと是は又格別でございまして、此の頃は家を外《そと》に致す様な事が度々でございますから、お母様《っかさん》も心配する、弟御《おとうとご》もございますが、是はまだ九歳で、何も役にたつ訳でもございませぬから、お母様も種々《いろ/\》心配なさるが、常に堅い人だから、うっかり意見がましい事もいわれませんので控えている。すると其の翌年|寛政《かんせい》十年となり、大生郷村の天神様から左《ひだ》りに曲ると法恩寺《ほうおんじ》村という、其の法恩寺の境内に相撲が有ります。此の相撲場は細川越中守《ほそかわえっちゅうのかみ》様御免の相撲場ということで、木村權六《きむらごんろく》という人が只今|以《もっ》て住んで居ります、縮緬《ちりめん》の幕張《まくば》りを致して、田舎相撲でも立派な者で近郷からも随分見物が参ります、此処《こゝ》に参っている関取は花車重吉《はなぐるまじゅうきち》という、先達《せんだって》私《わたくし》古い番附を見ましたが、成程西の二段目の末から二番目に居ります。是は信州|飯山《いいやま》の人で十一の時初めて羽生村へ来て、名主方に二年ばかり奉公している其の中《うち》に、力もあり体格もいゝので、自分も好きの処から、法恩寺村の場所へ飛入りに這入ると、若いにしては強い、此の間は三段目の角力《すもう》を投げたなどゝ賞《ほ》められましたから、自分も一層相撲に成ろうと、其の頃の源氏山《げんじやま》という年寄の弟子となったが、是より花車が来たといえば土地の者が贔屓にして見物に来る。惣次郎も何時《いつ》も多分の祝義を遣わしましたが、今度もお隅を伴《つ》れて見物しようと思い、相撲は附けたり、お隅に逢いたいからそこ/\支度を致しますと、母が心配して
 母「アノ帰るなら今夜は些《ち》と早く帰って貰《もれ》え度《て》え、明日《あす》は少し用が有るからのう」
 惣次郎「少しは遅く成るかも知れません、若《も》し遅くなれば喜右衞門《きえもん》どんに何彼《なにか》と頼んで置いたから御心配は無いが、万一《ひょっと》して花車も一杯[#「一杯」は底本では「一抔」]やり度《た》いなどゝ云うと、些《ちっ》とは私も遣り度い物も有りますから、又帰る迄に着物でも持たして遣りとうございますし、そんな事で種々《いろ/\》又相談も致しますから、若し遅く成りましたら、何《ど》うかお先にお寝《やす》みなすって下さいまし」
 母「ハイ遅くならば先《さ》きに寝てもいゝだけれど、まア此の頃は他《ほか》へ出ると泊って来る事もあり、今迄旦那様が達者の時分にはお前が家《うち》を明けた事はねえ、あんな堅《かて》え若旦那様はねえ、今の世は逆《さか》さ
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