て、幾ら小言を申しても、下さると直に食べるので……そんなにお口に入れる者じゃアないよ」
豐「だってもね、わたいは食べたいもの、あの腹《ぽんぽ》が空いてるから」
三「まことにお可愛そうじゃア有りませんか、これが奧州屋のお嬢ちゃんやお坊ちゃんとは思われません………えゝなに子供|衆《しゅ》だから気儘いっぱいにさせて置くが宜しい、実に乱暴な児《こ》が有りますからな、此の間も私の家《うち》に這入り込んで、鍋や何かの物を掴み出して食ったり、種々《いろ/\》の器物《もの》を放《ほう》ったりして何うも……それに旦那のない後《のち》に此のお内儀《かみ》さんが正直な気性だから、身代限を出す時にも大概の横著《おうちゃく》の奴なら、道具や何かは親類にこかして空明《からあき》にして預けて、後《あと》でずうッと品物が廻って来るようにと云うのが普通《あたりまえ》だのに、残らず店の品物まで売ったという、そうして先方《むこう》に心配を掛けないなんて……矢張《やっぱり》あなたそう/\悪い事ばかりはございませんから、まアお眼を…何うか一番上手なお医者さんに診《み》てお貰いなさい、おゝ永田町の伊藤方成《いとうほうせい》先生が、私はあの方に御贔屓になった事がございますから、その中《うち》又願いに出ましょう、貧乏人にはお薬をたゞくれるてえんでございますから、私が頂いてまいりましょう、それはお上手な事は、お医者さんがわるいと伊藤さんにかゝると云うくらいだから、内瘴《そこひ》が眼が明いて駈け出したり何《なん》かするんで、何うも不思議じゃア有りませんか、それにお嬢ちゃんも七歳《なゝつ》にお成んなさりゃア学校に入れて教育しなくては、そして御親類と申すのは何ういうなんです」
ふみ「はい、私の兄で元徳川の士族でございまして、大西徳左衞門《おおにしとくざえもん》という者の総領で、この兄の名は徳造と申して、これも峯樹院様の御用達をして百俵も頂いて居りましたが、放蕩無頼で、蔵宿《くらやど》には借財も出来、頂戴物やら先祖の遺物《ゆいもつ》まで何も彼《か》も遣い果し、終《しまい》には私の身体まで売ろうとして、私を騙《だま》して悪い処《とこ》へ沈めようと掛りましたくらいの磊落者《らいらくもの》でございます、それでもたった一人の兄でございますから、また相談に乗らない事も有るまいと浜から出て来て見ますと、昨年の九月四日谷中の蛍沢という処《ところ》で非業の死をいたし………是も乱暴の罰《ばち》でございましょうが、殺した奴は何者でございますか、多分|御酒《ごしゅ》を飲んで暴れか何か致して斬り殺されてしまいましたのでございましょう、その検屍の事から葬式も此の難儀の中で私《わたくし》が出す様な事でございまして」
三「へいえ何うもお不仕合せ、なれども御新造さんは根が武士のお嬢さんだから何うもと平常《ふだん》私が申して居りました、一昨年《おととし》花の時に御新造様の御様子が何うも町人とは違いますと云いますと、旦那が、えゝなアになんて瞞《ごま》かして仰しゃらなかったが、何うも違うと思って居りました、兄様《あにさん》と云うのは酷《ひど》うございますね、一体何をしてお居でなさったので」
ふみ「はい、零落《おちぶれ》まして車を挽《ひ》いて居りました」
三「車夫《くるまや》を殺して何も盗《と》る訳もないのですからな、何うも中に筒ッぽの古いのが丸めて這入ってるだけですからな」
ふみ「はい、矢張《やっぱり》お酒を飲むかなんかして、暴れて斬られたのでしょう……あれが」
三「いえ何うもそれに、あなたの処の旦那の何うも腹切りが、何うしても、分らないというのです、そりゃア何方《どちら》でも評判です、あのように沈著《おちつ》いて居る方がね何うも」
美「ちょっと三八さん、あの何だね、一昨年《おととし》の九月四日にね………贔屓だって情夫《いろ》でも何でも無いのですが………あの晩にお帰りなさらなきゃア彼様《あん》なことは無いものを……あれをお帰んなすった晩だよ」
三「そうですな、何ういう訳でがしょうな、あれは」
ふみ「はい何うも御検屍を願いまして腹を切ったという事には成りましたけれども、もう実は仰しゃる通り沈著者《おちつきもの》で、種々《いろ/\》に分別して、人という者は事を落著《おちつ》け心を静めて見れば、何《ど》んな事でも死なずに済むものだと申して、己《おれ》なんぞは是まで苦労をして来たから何んな貧乏に零落《おちぶ》れても困りはしない、又工面が宜く成っても困りはしない、何でも詰らない事をくよ/\思うな、心を広く持ってと、一寸寝酒を飲みましては私共の心の落著くように云ってくれまする、貯えて居りました金子は他人《ひと》の預かり物ですが、それが有りませんでしたから、多分|盗賊《ものどり》だろうと思います、それに金側《きんがわ》の時計がございません、何うも腹ア切った後《あと》で、まさかあんな姿をしている処を盗賊《どろぼう》も掛りますまいとは思いますが」
三「そう云えば彼《あ》の時に何ですね、乗ってお帰りなすった車夫《くるまや》ね、何だかぶき/\した奴ね、車夫さん急いでお呉れったら、急げたって人間の歩くだけきゃア歩けやしないって、私ア忌々《いま/\》しくていまだに忘れられねえ、彼奴《あいつ》が何うもなんとも云えませんよ、何うも変な奴だね、実に何うも腹を切るというは妙ですな、それとも預かり物を取られまして、先方に申訳が無いという堅いお気性で」
ふみ「はい、私の良人《つれあい》は元は会津様の藩中でございまして、少しばかりお高を頂いて居りましたから、今では商人に成りましても武士の心は離れません、あゝ済まないと、堅い気性から切羽詰りに相成って」
美「もしあの奧州屋の旦那様は会津様の御家来ですの、会津様の何というお方、重役《おもやく》のお方でございますか」
ふみ「はい、私も委《くわ》しいことは知りませんが、お高も余程頂戴致した様子………松山久馬の次男の久次郎と申す者だとよく私に申しました」
美「あらまア、まア何うも、あら松山さんていの、あらまア一寸三八さん旦那は私の兄《あに》さんだよ、何うもまア」
ふみ「はゝア、あなたはお妹御《いもとご》あらまア」
美「私がね生れると、道楽で御勘当になったという話をお母《っか》さんが死ぬ前に私に申したんですよ、お兄《あにい》さんは家出をしてしまったッて、私が生れて間もない折ですよ、お兄さんに遇《あ》いさいすれば力に成ると思って、私は神信心《かみしんじん》して居たが………道理で、それ私のお父《とっ》さんの書いた短冊が貼って有ったら、家《うち》へ来て」
三「そう/\、そう仰しゃれば思い出した、あの時ぽろりとお泣きなすった……それからあなたの身請の相談、これは本心|放埓《ほうらつ》で、敵《かたき》を討つ所存はねえに極《きわ》まったとも云わないが、請け出しに掛った時は変だと思って居りました」
美「だからね兄《にい》さんは只可愛がりなすったのだよ、それで無くてあんなに可愛がる筈はありゃアしないね、知ってたから」
三「あの何うもその短冊が何うとか云いましたね、親が何うとかして何うとかだって………あれからお上りになって、それで身請と成ったんでしょう、だけれども間夫《まぶ》が有るなら添わして遣ると、何うも由良之助見ていな事をおっしゃったが、その帰りに與市兵衞《よいちべえ》見ていに殺されるていのは何うも分んねえ」
美「殺されたのならば私も何うも残念で耐《たま》りませんよ」
ふみ「私も何うも人手に掛ったと存じますが、もし殺した奴でも分ったら、眼が見えなくとも武士の家《いえ》に生れた女、亭主の仇《あだ》を尋ね探して討ちたい心も有りましたが……あゝ斯様に盲人《めくら》に成りましては」
美「おゝ不思議な御縁でお目に懸りました、私の兄の女房なら私の為にはやっぱり姉《ねえ》さん、兄《あに》さんの敵だって討てない事は有りません、ねえ庄さん、お願《ねがい》ですから若しも敵が知れましたら、藤川さん貴方も以前はお旗下《はたもと》ではありませんか、たとえ女の細腕でも武士の家に生れた私です、一生懸命になりますから、助太刀して、屹度《きっと》知れたら、敵を捜して討たして下さい」
 というのを聞いて居りましたおとよが七歳《なゝつ》では有りますが、怜悧《りこう》な子でありますから、
豐「お母《っか》ちゃん、お父《とっ》ちゃんを殺した奴が有れば、豐ちゃんも敵を討ちます、この叔父ちゃんに手伝って頂いて、ね叔父ちゃん手伝って敵を討たして下さいよ」
ふみ「あい/\よくお云いだ/\、死んだお父さんが草葉の蔭で聞いたらさぞお喜びなさるだろう………親孝行の事を云っておくれだ」
三「へい感心々々感心」
ふみ「只今の世の中では敵を討つことの出来ない世の中とは予《かね》て聞いては居りますが私は昔風で、何うか敵を討ちとうございます、もし敵が知れたらば私さえ殺されゝば宜しゅうございましょうから、何うぞ敵を討たして下さいまし」
三「まア/\感心だ、実に年は往《ゆ》かないが、是は矢張《やはり》松山さんのお胤《たね》だけ有って、私ア聞いて居てぽろりと来ました、いやこれは誰でもポロときますよ、私はね芝居でも世話場でちょっと此様《こん》な子役の出る芝居へ往って見物していると、子役が出て母様《かゝさま》というと、まだ何だか解らない中《うち》にぽろ/\と直ぐお出でなさる、誠に何うも恐れ入りました」
庄「三八さん、此の親子の衆は私《わし》が引取って又敵を討たせる時も有ろうし、何《なん》にしても親切にしておくれで、今夜は雪が降るからお泊め申すから、安心して置いて帰って下さい」
三「有難う、だから此方《こちら》に参ると申したんです、有松屋の婆さんは出しませんね、何うかお前さん旦那も来て始めて逢った時にもあゝしてくれたんだからと云っても、決してそんな事をする義理合《ぎりあい》は有りませんと云うような顔附から、慾にばかり目を附ける婆《ばゝあ》で、彼奴《あいつ》は腹でも切りそうな婆です………まお暇《いとま》致しましょう、へい左様なら御機嫌宜しゅう」
美「まことにお草々《そう/\》致しました、車でも」
三「えい私の家《うち》に帰るんですから、なに車も待たして置きましたから、ちょうどあの車に乗って帰ります、へい左様ならお女中、御新様《ごしんさま》それじゃお泊《とま》んなすって………左様なら」
 と三八は帰ってしまう。これから温《あった》かい物でお飯《まんま》を食べさせて、親子の者を丁寧に客座敷の方《かた》に寝かして、自分は六畳の茶の間の方に寝ました。夜《よ》が明けると、お美代が側に床を並べて寝ていた庄三郎の居ないに驚いた。
美「何処へ往ったろう………旦那は何処かへお出でなすった………兼《かね》や(下女の名)旦那はお手水《ちょうず》かえ」
兼「いゝえ存じませんよ、先刻《さっき》から此処で焚き附けて居りますが、知りませんよ」
美「何処へ往ったんだろう」
 と呼んでも音も沙汰も無い。はて変だ。と思って二畳の処を開けに掛ると、栓張《しんばり》が支《か》ってあって唐紙《からかみ》が明きません。
美「旦那」
 と、揺《ゆすぶ》るとたんにがらりと転げた音がする。飛び込んで見ると藤川庄三郎は何時《いつ》の間にか合口を取って、立派に腹一文字に掻切って死んで居りました。恟《びっく》りしたのはお美代。
美「さア皆《みん》な起きてお出でなさい、良人《うちのひと》が腹を切りました」
 というから店の者も出てまいった。店もまだ開けない中《うち》でございますが、目の見えないおふみまでも来て子供も死骸に取り縋《すが》って泣き出しまする。すると傍《かたわら》の硯箱《すゞりばこ》の上に書残した一封が有ります。これを開いて見ると、
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書遺《かきのこ》し候我等|一昨年《いっさくねん》九月四日の夜《よ》奧州屋新助殿をお久《ひさ》の実の兄と知らず身請[#「身請」は底本では「見請」]されては一分立たずと若気の至りにて妻恋坂下に待受《まちうけ》して新助殿を殺害《せつがい》致し候其の時新助殿始めて松山の次男なる事を打明《うちあか》し
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