ませんでも、せめては……いや思い切りましょう、事に依《よ》ると生涯離縁するなどと……もう/\諦めましょう」
と云う声さえも涙でございます。
喜「それは御尤《ごもっとも》ですが、併し……はてな、何《ど》うしたら宜《よ》かろうか知らん」
と倶《とも》に涙に暮れて居りますと、表の方《ほう》に
「お頼み申します」
町「はい、何方《どなた》で……おや亥太郎さんでございますか、さアお上りなさいまし」
亥「えゝもう此処《こゝ》で宜《よろ》しゅうござります、御新造《ごしんぞ》様永々お世話になりましたが、明日《あした》私《わっち》やア遠方へまいります、また長《なげ》えことお目にかゝれません、へえ、ご、ご御機嫌よう、左様なら……」
町「あゝもし亥太郎さん、まアお待ちなさい」
亥「えゝ、もう」
町「まア/\少しお待ちなさい、お顔色もお悪い様子で、何か変事でもございますか」
亥「いゝえ別に」
また、表の方で、
「へえお頼み申します、國藏でございます」
亥「やア國藏か」
國「やア棟梁か、へえ御新造、御機嫌宜しゅうござんす、棟梁にも宜《い》い処でお目にかゝりました、まア当分お目にかゝれませんから、随分御機嫌よう、へえ左様なら、お暇《いとま》を……」
亥「おい/\國藏待て、変なことを云うじゃねえか、己《おれ》も実は此方《こちら》へお暇に来たんだ、お前《めえ》は何処《どこ》へ往《い》くのだ」
國「えゝ中々遠方でござんすまア当分お別れだ」
亥「手前《てめえ》は明日万年橋へ……」
と云いかけて暫《しばら》く四辺《あたり》を見廻し、
「國藏、貴様も遣付《やっつ》ける積りか」
國「棟梁、お前《めえ》も」
亥「ウム、己も決心した」
國「そんなら頼もしい」
と眼と眼で示し合わして、
両人「御新造様、御機嫌よう」
町「まア/\お二人ともお待ちなさい、今|一言《いちごん》仰《おっし》ゃった万年橋というのは」
二人「実は命を棄てましても」
町「まアお二人とも」
喜「こら/\お二人ともお控えなさい」
二人「これは/\藤原様、お前《めえ》さんのお蔭様で旦那も命が助かりました、有難うござんした、さア直ぐお暇致しましょう」
喜「まアお二人とも少しお待ちなさい、えゝ只今お二人がお蔭で旦那の命が助かりましたと仰しゃったが、その次第柄《しだいがら》は御存じで仰しゃったか」
亥「そんな事を知らねえで済みますものか、ねえ、いろ/\お前《めえ》さんのお骨折《ほねおり》で助かったこたア蔭ながら……なア國藏、お礼を申さねえ日は無《ね》えなア」
喜「それほど文治殿の助かった事を喜びながら、その文治殿に恥を掻かせる積りかな、それとも殺す気かな」
亥「こりゃア妙な事を仰しゃいますねえ、旦那を殺すの恥を掻かせるのとは何《なん》のことでござんす、此方《こち》とらア自分の命を棄てゝも旦那を助ける覚悟だ、又一旦思い込んだ事《こた》ア一寸《いっすん》も後《あと》へ退《ひ》かねえ此の亥太郎でござんすぜ」
喜「然《しか》らばお前さん方は其の恩人の文治殿を、明日《みょうにち》の遠島船《えんとうぶね》の出帆の場に切込み、同人を助け出して上州《じょうしゅう》あたりへ隠そうという積りでござろうな、それとも違いましたかね、何《ど》うでござりますな、さア其の文治殿は悪人でござるか、乃至《ないし》泥坊《どろぼう》でござるか」
亥「えッ旦那、妙なことを仰しゃいますね、誰が悪人と申しやした、泥坊なんぞ為《す》るような旦那で無《ね》えと云うことは誰でも知ってるじゃアござんせぬか」
喜「さア其処《そこ》です、文治殿こそは日本《にっぽん》に二三とあるまじき天晴《あっぱれ》名士と心得ますが、何《ど》うでござるな、その日本名士が上州あたりの長脇差や泥坊が、御法度《ごはっと》を犯して隠れている汚《よご》れた国へまいりますか、よもや文治殿はそんな拙《つたな》い者ではありますまい、よしまた往《ゆ》くとしても、生涯|山中《さんちゅう》に隠れ潜《ひそ》んで、埋木《うもれぎ》同然に世を送るような人物とは些《ち》と肌が違いましょうぞ、左程逃げたき文治殿ならば、友之助が無実の罪に服したのを幸いに、のめ/\と宅《たく》に居て知らぬ顔をしていましょう、友之助を助けようが為に自分の一命を差出して明白に上《かみ》のお裁きを仰ぐくらいの名士、そんな端《はし》たない者ではござりませんな」
と云われて亥太郎と國藏は眼ばかりパチ/\やって居ります。
十二
藤原喜代之助は尚《なお》も言葉を継いで、
「こゝで文治殿が一度逃出せば、生涯悪人の汚名を負わなければ成らぬ、そんなむずかしい事を云っても分りますまいが、天網恢々《てんもうかい/\》疎《そ》にして洩らさず、其の内に再び召捕《めしと》られたら、いよ/\国中《こくちゅう》へ恥を曝《さら》さなければ成りますまい、只今お町殿へ明日《あす》のことを申上げ、お別れに只《たっ》た一目お逢いなされてはと申入れましたが、文治殿の平常《ふだん》の気象を御存じゆえ、此の場合未練がましく別れにまいったら、定めし叱られましょう、お目に懸りたいは山々なれども、じッと堪《こら》えてまいりますまいと、流石《さすが》は文治殿の御家内だけ……女ですら斯様《かよう》でありますのに、あなた方は只文治殿の事のみを思い、お心得違いをなさいましたなア、さア分りましたらお止《とゞま》りなさい、如何《いかゞ》でござるな」
これを聞きました両人は頭を下げ、只|男泣《おとこなき》に歯ぎしりして口もきかれませぬ。
喜「まだ御合点《ごがてん》なさいませんか」
両人「それじゃア旦那にお目にかゝる事は出来ませぬか」
喜「いゝえ、何《ど》うしてあなた方も明日《あした》は是非お見送りを願います、まさか私《わたくし》は役人でござるから、よし義の為にもせよ、一旦罪人と極《きま》って遠島申付けられた者に逢うことは出来ませぬ、是非ともあなた方はお出で下すって、私の申した事を文治殿へ宜しく申伝《もうしつた》えて下さい」
両「よく分りました、じゃア仰せに従って諦めましょう、けれども御新造様も私《わっち》どもと一緒に、お別れに只《たっ》た一目お逢いなせえまし、此の世の名残《なご》りに往《い》かっしゃるのに、何《なん》ぼ御気象の勝《すぐ》れた旦那だって、人情を知らねえ事アありますめえ、何《なん》とも仰しゃる気遣《きづかい》はありゃアしませんや、ねえ旦那」
喜「如何《いか》にも……就《つい》てはお町殿、せめて遠目でなりとも」
町「万年橋とやら申す橋より船までは余程離れて居りますか」
國「へえ、僅《わず》か半丁ばかりしか離れて居りません」
町「それでは其の橋の上から旦那の心付かぬように、余所《よそ》ながらお別れいたしましょう」
喜「成程、それが宜《よろ》しゅうござろう、各々《おの/\》文治殿には見知られぬよう気を付けてやって下さい」
両「承知いたしました」
お話分れて、本所大橋向うの万年橋、正木稲荷《まさきいなり》の河岸《かし》は、流罪人《るざいにん》の乗船《のりふね》を扱いまする場所でござります。尤《もっと》も遠島と申しますのは八丈島、三宅島《みやけじま》にて、其の内佐渡は水掻人足《みずかきにんそく》と申しまして、お仕置の中《うち》でも名目《みょうもく》は宜《よ》いのでござりますが、囚人《めしゅうど》の身に取っては一番|辛《つら》い処でありますから、滅多に長生《ながいき》する者はございませぬ。今文治が遠島と極りましたのは三宅島でございます。いよ/\船が万年橋から出るという前夜になって、親戚|故旧《こきゅう》の人に知らせますので、当日は親類縁者は申すに及ばず、友人達は何《いず》れも河岸に集って身寄の囚人を待受けて居ります。其の内に追々囚人が送られてまいりますが、中には歩けませんで畚《もっこ》に乗って参る者もございます。文治は成るたけ人に逢わぬように、俯向《うつむ》いて目立たぬように小さくなってまいりましたが、國藏が早くも見付けまして、
國「やア旦那々々」
文「國藏か、よく来てくれたな、皆《み》んな達者で居《お》るだろうな」
國「へえ、皆《みん》な達者ですが、旦那、何故《なぜ》私《わっち》を代りにやってくれねえんです、やい森松、早くお町様をお連れ申せ」
文「こりゃ國藏|何故《なにゆえ》に町を連れて来たか、此の姿を女房に見せて己《おれ》に恥を掻かせるのか、此処《こゝ》へ連れて来ると女房も貴様も離縁してしまうぞ、此の文治は予《かね》て切腹と覚悟して居ったところ、上《かみ》のお慈悲で助けられ、生恥《いきはじ》を曝《さら》すことかとなるたけ人に姿を見られぬよう心して来たのに、未練にもお前達まで集まって此の文治に恥の上塗《うわぬり》をさせる了簡か、近寄ると生涯義絶するぞ」
國藏は恟《びっく》り驚いて、
國「何時《いつ》に変らぬ旦那の気象、悪い気で来たのじゃ無《ね》えから勘弁して下せえ、やア森松、御新造を橋の上に置いて手前《てめえ》ばかり来い」
森「だってそりゃア無理というものだ、御新造様、旦那があゝ云っても生涯のお別れですから、彼処《あすこ》までお出でなせえ」
町「いゝえ、私《わたくし》は此処《こゝ》でお顔を拝見してお別れいたします、日頃の御気象はよう存じて居ります」
と橋の上にて手を合せたまゝ、声も出さず、涙一滴流しもせず、一心に夫の無事を祈って居ります。森松は気の毒に思いまして、
森「御新造様、たとい叱られてもお側へ往って一目お逢いなせえまし」
町「未練がましく近寄れば必ず離縁されるに相違ござりませぬ、私《わたし》ゃアそれが辛《つろ》うございますから」
國「やア森松、もう時間が切れるぞ、早く/\」
時に獄丁《ごくてい》の横目《よこめ》と申す者が、
「さア/\限りはねえ、早くしろ/\、長くなると為に成らねえぞ」
と一々囚人を集めて居ります中《うち》に、ブウ/\という法螺貝の音、
横「さア/\此奴《こいつ》らア何時《いつ》まで居やがるんだ」
と追々囚人を引立てゝ船に乗込まして居ります。
十三
見送って居ります國藏、森松の両人は
「旦那ア、旦那ア、御新造を始め後《あと》のこたア御心配なさいますな」
と男泣に泣出す途端に亥太郎が駈付けてまいりまして、
亥「森松、國藏、旦那は何処《どこ》に居るんだ」
國「あゝ亥太郎兄イか、旦那は彼処《あすこ》へ」
亥「ど、ど何処に」
森「もう船に乗っていらア」
亥「やア旦那、一寸《ちょっと》待って下せえ、遅かった」
役「これ/\控えろ、もう時間だ」
亥「時間も糸瓜《へちま》もあるものか、ぐず/\すると打殺《ぶちころ》してしまうぞ、誰だと思う、豊島町の亥太郎だぞ」
役「やアまた亥太郎めが来やがったな」
亥「やかましい、旦那、何《ど》うも飛んだ事になりましたなア」
と鬼を欺《あざむ》く亥太郎も是が一生の別れかと、わッとばかりに泣出しました。附添の同心も予《かね》て亥太郎の事は承知して居りますから、
同心「やア亥太郎が始めて泣きやアがったぜ、大きな口だなア、其の癖手放しで泣いて居やがらア、アッハヽハヽ、さア/\もう宜《よ》かろう」
亥「えゝ未《ま》だ何《なん》にも云やしねえ、ぐず/\しやがると死者狂《しにものぐる》いだぞ、片ッ端から捻《ひね》り殺すからそう思え」
文「これ/\亥太郎殿、お上《かみ》の御法を犯しては成りませんぞ、何事も是までの因縁と諦めて、随分達者にお暮しなさい」
亥「お前さんばかり口がきけて私《わっち》にゃア少しもく、く、口がきけねえ、旦那、達者でいて下せえよ」
此処《こゝ》へ大橋の方から前橋《まえばし》の松屋新兵衞《まつやしんべえ》が駈付けてまいりましたが、人ごみで少しも歩けませぬ、突退《つきの》け撥返《はねかえ》し、或《あるい》は打たれ或は敲《たゝ》かれ、転がるように駈出しましたが、惜《おし》いかな罪人はあらまし船に乗って、今一度の貝の音でいよ/\出帆するのであります。新兵衞は大
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