治郎其の方ことは吟味中|揚屋入《あがりやいり》を申付ける」
 左右に居ります縄取《なわとり》の同心が右三人へ早縄を打ち、役所まで連れ行《ゆ》きまして、一先《ひとま》ず縄を取り、手錠を箝《は》め、附添《つきそい》の家主《やぬし》五人組へ引渡しました。手錠と申しますと始終箝めて居《お》るように思召《おぼしめ》す方もあるか知れませぬが、そうではございませぬ。錠の封印へ紙を捲《ま》き、手に油を塗ってこれを外《はず》し、只吟味に出ます時分又自分で箝めてまいりますだけの事でございます。こゝに松平右京殿、御下城の折柄《おりから》駕籠訴《かごそ》を致した者があります。これは御登城の節よりかお退《さが》りを待って訴える方が手続が宜しいからであります。お駕籠先の左右に立ちましたのはお簾先《すだれさき》と申します御家来、または駕籠の両側に附添うて居りますがお駕籠脇《かごわき》、その後《あと》がお刀番でございます、これは殿中《でんちゅう》には御老中と雖《いえど》もお刀を佩《さ》すことは出来ませぬ、只脇差ばかりでございます。それ故お刀番がお玄関口にてお刀を預り、御退出の折に又これを差上げます為にまいりますので、事によるとお増供《ましども》と申して一二人余計連れてまいる事もございます。其の昔、駕籠訴をいたします者は何《いず》れも身軽に出立《いでた》ちまして、お駕籠脇の隙《すき》を窺《うかゞ》い、右の手に願書を捧げ、左手《ゆんで》でお駕籠に縋《すが》るのでございますから、時に依ると簾を突破《つきやぶ》ることがございます。大概お簾先が取押えて、押えの者を呼んで引渡してしまいますが、屋敷へ帰りましてから其の書面は封の儘に焼棄《やきす》て、当人は町人百姓なれば町奉行へ引渡すのでありますが、実は願書は中を入替えて焼棄るのでございますから、御老中へ駕籠訴をするのが一番|利目《きゝめ》があったそうでございます。右京殿が御下城の折に駕籠訴を致しましたのは、料理店立花屋源太郎でございます。さて源太郎は隙を覘《うかゞ》って右手《めて》に願書を捧げ、
 源「お願いでござい、お願いでござい」
 と呼《よば》わりながらお駕籠の簾に飛付きました。
 供「それ乱心者が、願いの筋あらば順序を経て来い」
 と寄ってたかって源太郎を取押え、押えの侍に引渡してしまいました。右京殿は御帰邸の後《のち》、内々《ない/\》その願書を御覧になりまして、
 右京「これ、喜代之助を呼べ」
 近習「はゝア、喜代之助殿、御前のお召《めし》でござる」
 喜「はゝア」
 右「喜代之助、近《ちこ》う進め」
 喜「はゝア」
 右京殿は四辺《あたり》を見廻し、近習《きんじゅ》に向い、
 右「暫く遠慮いたせ」
 お人払いの上、喜代之助にお向いなされ、
 右「喜代之助、そちを呼んだのは別儀ではないが、今日予が下城の節、駕籠訴いたした者がある、それは本所業平橋の料理屋立花屋源太郎と申す者であるが、そちは浪人中業平橋辺に居ったそうじゃのうあの辺の事はよう存じて居ろう、いつぞや閑《ひま》の折に文治という当世に珍らしい侠客があると云ったのう、その文治と申す者は一体|何《ど》ういう人間か」
 喜「申上げます、彼は母の命の親とも申すべきもので、近年|稀《まれ》な侠客でござります」
 右「フーム、侠客か、一体文治の平生《へいぜい》の行状は何《ど》んなものじゃ」
 喜「御意にございます、先ず本所にて面前にては申すに及ばず、蔭にても文治と呼棄《よびずて》にする者は一人《いちにん》もござりませぬ、皆文治様々々々と敬《うやも》うて居ります、これにて文治の人となりを御推察を願います」
 右「して、そちの母の命の恩人と申すは」
 喜「左様でござります、手前が浪人中、別に一文の貯《たくわ》えあるでは無し、朝から晩まで内職をして其の日/\の煙を立てゝ居りました、それが為に手前は始終不在勝でございまして、家内の事は一切女房に任せて置きましたのが手前の生涯の過失《あやまち》でございます、女房のお淺と申します者が、手前の居ります時はちやほや母に世辞をつかいます故、左程|邪慳《じゃけん》な女とも思いませなんだが、不在を幸いに只《たっ》た一人《いちにん》の老母に少しも食事を与えませず、ついには母を乾殺《ほしころ》そうという悪心を起して、三日半程湯茶さえ与えず、母を苦しめました」
 右「フーム、世には恐ろしい奴もあるものじゃの、そちは何か、内職から帰ってそれを知らなかったのか」
 喜「何《なん》とも恐入った次第でございますが、母は当年七十四歳、手前などと違い余程覚悟の宜《よ》い母でございまして、食を絶って死のうという覚悟と見えまして、只病気とのみ申し打臥《うちふ》したまゝ一言《いちごん》も女房の邪慳なことを口外致しませぬ故、一向心付かんで居りました」
 右「そちも不覚であったの、それから何《ど》う致した」
 と膝を突付《つきつ》け、耳を欹《そばだ》てゝ居ります。

  八

 喜代之助は其の当時の事を想い起したものと見えまして、口惜《くや》し涙に暮れながら、
 喜「悪事というものは隠す事の出来ぬものと見えます、母は手前にさえ一言も話さぬ位ですから勿論《もちろん》隣家の者などに話す気遣いはございませぬが、何時《いつ》しか隣家の者が聞付けて、お淺さんも邪慳な事をなさる人だ、あのような辛抱強い年寄を、何が憎くって乾殺そうという了簡になったのだろう、お気の毒な事だ。と云ってお淺の不在を窺《うかゞ》い、親切にも粥《かゆ》か何かを持参致しました所へ、生憎《あいにく》お淺が帰ってまいりまして、烈火の如く憤《いきどお》り、いきなり其の食器を取って母の眉間《みけん》に打付け、傷を負わせました、其の時文治殿は何処《どこ》で聞付けましたか其の場に駈付けてまいりまして、義理ある親を乾殺そうとは人間業でない、此の様な者を生かして置いては此の上どんな邪慳な事を仕出来《しでか》すかも知れぬと云って、お淺を取って押えて口を引っ裂き……いや私《わたくし》が其処《そこ》へ帰ってまいって手討にいたしました」
 右「ふうむ、文治が其の毒婦を殺したのか」
 喜「いゝえ私が……」
 右「おゝ其方《そち》か、それは何方《どちら》でも宜《よ》い、文治という奴は余程義侠の心に富んだ奴と見えるな、定めし剣術の心得もあろうな」
 喜「はい、真影流《しんかげりゅう》の奥許《おくゆる》しを得て居りまして、なか/\の腕利《うできゝ》でございます」
 右「天晴《あっぱれ》な腕前じゃの、それで七人力あるのか」
 喜「御意にございます」
 右「以前《もと》は堀家の浪人と申すが左様であるか」
 喜「御意にございます」
 右「よし/\、それで文治の素性《すじょう》並びに日頃の行状は能く相分った、少し思う仔細があるから、内々《ない/\》にて蟠龍軒と申す者の素性及び行状を吟味いたすよう取計らえ」
 喜「畏《かしこ》まりました」
 それから段々蟠龍軒の身の上を取調べますると、法外な悪党という事が分りましたので、事細かに右京殿へ言上《ごんじょう》いたしました。それと同時に此方《こなた》は文治の身の上、石川土佐守殿は再応文治をお取調べの上、口証爪印《こうしょうつめいん》も相済みまして、いよ/\切腹を仰せ渡されました。併《しか》し其の申渡し書には御老中お月番《つきばん》の御印形が据《すわ》らなければ、切腹させる訳にはまいりませぬ。町奉行石川土佐守殿は文治の口供《こうきょう》ばかりではございませぬ、幾枚も一度に持参いたしますると、正面に松平右京殿その外《ほか》公用人御着席、それより余程|下《さが》って町奉行が組下《くみした》与力を従え、その口証を一々読上げて、公用人の手許《てもと》迄差出します。御老中はお手ずから印形の紐《ひも》を解くのが例でございます。其の紐の長さは一丈余もありまして、紐の先を御老中が持って居りますと、公用人が静かに印形を取出して奉行に渡し、奉行がこれを請取《うけと》って捺《お》すという掟《おきて》ですから中々暇が取れます。其の内にお退《ひけ》の時計が鳴りますと、直ぐ印形の紐を引きますから、捺しかけても後《あと》は次のお月番へ廻さなければなりませぬ。それが為に命の助かった例《ためし》もございます。だん/\捺してまいりまして愈々《いよ/\》文治の口供に移りますと、まだ公用人が手を掛けませぬ内に御老中が頻《しき》りに紐を引きますので、奉行は捺すことが出来ませぬ。再びお印形をと心の中《うち》に促しながら公用人の顔を見ますと、公用人も不思議に思いまして御老中のお顔を見上げました。けれどもお駕籠訴の一件がありますから、右京殿は不興気《ふきょうげ》に顔を反《そむ》けて居りますので、何が何《なん》だか一向訳が分りませぬ。暫く無言で睨《にら》み合って居ります内に、ちん/\とお退のお時計が鳴りました。右京殿は待っていたと云わぬばかりのお顔にて印形を手許に引寄せ、其の儘すっとお立ちに相成り、続いてお附添一同もお立ちになりました。余儀なく奉行も渋々立帰りましたが、何故《なにゆえ》に御老中が斯様《かよう》な計らいをするのか一向分りませぬ。何か仔細ある事と土佐守殿も智者《ちしゃ》でございますから、其の後《ご》外《ほか》御老中のお月番の時は、文治の口供を持ってまいるのを見合せまして、又々右京殿お月番の時に、前の如く文治の口供を持参いたしますると、矢張前の通り手間取って居りますので、到頭《とうとう》印形を捺すことが出来ませぬ。はて不思議な事と処分に困って居りますと、時のお月番右京殿より、「浪島文治郎|事《こと》業平文治儀は尚《な》お篤《とく》と取調ぶる仔細あり、評定所《ひょうじょうしょ》に於《おい》て再吟味|仰付《おおせつ》くる」という御沙汰になりました。この評定所と申しますのは、竜《たつ》の口の壕《ほり》に沿うて海鼠壁《なまこかべ》になって居《お》る処でございますが、普通のお屋敷と格別の違いはありませぬ。これは天下の評定所でございますから、御老中は勿論将軍家も年に二度ぐらいはお成《なり》になるという定例《じょうれい》でございます、即《すなわ》ち正面の高座敷《たかざしき》が将軍家の御座所でございまして、御老中、若年寄《わかどしより》、寺社奉行、大目附《おおめつけ》、御勘定《ごかんじょう》奉行、郡《こおり》奉行、御代官並びに手代《てだい》其の外与力に至るまで、それ/″\席を設けてあります。業平文治が数人の者を殺しながら、評定所に於て再吟味になると云うのは全く義侠の徳でございます。

  九

 月番御老中を始め諸役人一同列座の上、町奉行石川土佐守殿がお係でございまして、文治を評定所へ呼込めという。
 同心「当時浪人浪島文治郎、這入りましょう」
 と白洲の戸を明けて、当人の這入るを合図に又大きな錠を卸《おろ》しました。文治は砂上に畏《かしこ》まって居りますと、町奉行は少し進み出でまして、
 奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、去《さん》ぬる六月十五日の夜同所北割下水大伴蟠龍軒の屋敷へ忍び込み、同人舎弟なる蟠作並びに門弟|安兵衞《やすべえ》、友之助妻|村《むら》、同人母|崎《さき》を殺害《せつがい》いたし、今日《こんにち》まで隠れ居りしところ、友之助が引廻しの節、自分の罪を人に嫁《か》するに忍びず、引廻しの馬を止め、蟠龍軒の屋敷に於て数人の家人を殺害いたしたるは全く自分の仕業なりと、自訴に及びたる次第は前回の吟味によって明白であるが確《しか》と左様か」
 文「恐れながら申上げます、再応自白いたしましたる通り全く文治の仕業に相違ございませぬ」
 奉「うむ、何《なん》らの遺恨あって切殺したか其の仔細を申立てえ」
 文「申上げ奉ります、大伴蟠龍軒なる者が舎弟蟠作と申し合せ、出入《でいり》町人友之助を語らい、百金の賭碁を打ち候由、然《しか》るに其の勝負は予《かね》て阿部忠五郎と申す碁打と共謀して企《たく》みたる碁でございますから、友之助は忽《たちま》ち失敗いたしました、然《しか》し百両というは大金、即座に調達《ちょうだつ》も出来兼《できかね》ます処から、
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