、何処《どこ》まで天道様は此の文治をお憎《にくし》みなさるか、これしきの雨、何程のことやある、それッ」
と身軽に打扮《いでた》ち、夜《よ》に入《い》るも厭《いと》わず出立いたしますると、途中から愈々《いよ/\》雨が烈《はげ》しくなりましたので、余儀なく一泊いたしまして、翌日二居峠の三俣村という処へまいります。日はとっぷりと暮れて足元も分らぬくらいになりました。地の理は宜《よ》く聞いてまいりましたから、岐路《わかれみち》に迷いもせず、足元を見ては歩一歩《ほいっぽ》山深く入ってまいりますると、大樹《だいじゅ》の蔭からのっそりと大熊が現われ出でました。流石《さすが》の文治も恟《びっく》りして、思わず二三歩|後《あと》へ退《さが》り、刀の柄《つか》に手を掛けて寄らば突かんと身構えましたが、更に飛付く様子もなく、先に立って後《うしろ》を振向き/\心ありげに奥深くまいります。
文「さては噂に聞いたお町を助けし熊はこれなるか、併《しか》し遥々《はる/″\》越後から雨を冒《おか》して此の山奥まで尋ね来て、お町で無かった日にゃア馬鹿々々しいな、何《ど》うかお町であってくれゝば宜《い》いが」
と心中に神々を祈りながら熊に尾《つ》いてまいります。やがて半道《はんみち》も来たかと思いますと、少し小高き処に一際《ひときわ》繁りました樹蔭《こかげ》がありまする。何か知らんと透《すか》して見れば、樵夫《きこり》が立てましたか、但《たゞ》しは旅僧《たびそう》が勤行《ごんぎょう》でもせし処か、家と云えば家、ほんの雨露《うろ》を凌《しの》ぐだけの小屋があります。文治は立止って表から大声に、
文「えゝ、お小屋に何方《どなた》かおいでなさるか、はて、人のいそうな家だが、御免下さい」
と中へ入って見ましたが、暗がりで少しも分りませぬ。懐中から用意の火打道具を取出しまして、附木《つけぎ》に移し、四辺《あたり》を見ますと、何時《いつ》か熊は何処《どこ》へか往ってしまいました。
文「何《ど》うも人の住んだような跡があるが」
と又附木を出して隈《くま》なく見廻しますと、柱とおぼしき処に何か書いてあります。それも木の燃えさしで書きましたのですから、はっきり分り兼ます。その内に附木は燃え切ってしまう。
文「やア、こりゃ困ったわい」
と其処《そこ》らの木屑《きくず》に火を移して読みますると、「我が恋は行方《ゆくえ》も知らず果てもなし」までは読めましたが、後《あと》は確《しか》と分りませぬ。これは古今集の恋歌《こいか》でございますが、筆蹟は消し炭で書いたのですから確と分りませぬ。
文「全くお町の成れの果ではないか知らん、旅宿《りょしゅく》で見た短冊《たんざく》といい、今また此の歌といい、何《ど》うもお町らしい、お町であってくれゝば何《ど》れ程嬉しかろう、神よ仏よ、早く此処《こゝ》に居合す人に逢わせ給え」
と祈って居りますと、積る木《こ》の葉を踏分け来《きた》るは正《まさ》に人の足音でございます。
文「はてな、今|其処《そこ》へ人が立止った様子、もしやお町では無いか知らん」
と燈火《あかり》を翳《かざ》して見ようとする途端に火は消えてしまいました。何か口の中《うち》で云うて居《お》る言葉は確かに女の声であります。もう文治は耐《たま》り兼て、「やアお町か」と駈出そうと致しましたが、心を静め、
文「待てよ、先刻《せんこく》から表に佇《たゝず》んだまゝ近寄らぬ処を見れば、日頃女房に恋い焦《こが》れている我が心に附け入って、狐狸《こり》のたぐいが我を誑《たぶら》かすのではないか知らん、いや/\全く人かも知れぬ、兎も角も声をかけて見よう」
と度胸を据《す》えて、
文「表においでなさるのは何方《どなた》でござる、私《わたくし》は此の山中に迷うて居《お》る女子《おなご》を尋ぬる者でござるが……」
と云いながら静かに立って女の側に立寄ろうと致しますと、件《くだん》の女は二三歩|後《あと》へ退《さが》りまして、
女「おのづから涙ほす間《ま》も我が袖に[#欄外に「続千載集巻四、秋上、太政大臣。」の校注あり]」
文「露やは置かぬ秋の夕暮」
町「えッ、そんなら貴方は旦那様か」
文「おゝ、お町であったか」
町「旦那様ア、御免遊ばせ、おゝ嬉しい、おゝ嬉しい」
と馳《は》せ寄って文治に抱き付き、胸に顔当てゝ、よゝとばかりに泣き悲《かなし》んで居りまする。文治も拳《こぶし》にて涙を払いながら、左手《ゆんで》に確《しっ》かりとお町の首を抱えて、
文「町や、よう達者でいてくれた、よもや此の世の人ではあるまいと思うた、よう達者でいてくれた、こんな嬉しい事はないぞ、さぞ難儀したであろう、さぞ困苦艱難《こんくかんなん》したであろう、この文治もの、そちに劣らぬ難儀はしたが、天日《てんぴ》に消ゆる日向《ひなた》の雪同前、胸も晴々《はれ/″\》したわい、おゝ斯様《こん》な悦ばしい事は……」
と鬼を欺《あざむ》く文治もそゞろに愛憐《あいれん》の涙に暮れて、お町を抱《かゝ》えたまゝ暫く立竦《たちすく》んで居りまする。お町は漸《ようや》く気も落着いたと見えまして、
町「旦那様、私《わたくし》は……」
文「もう宜《い》い、もう宜い、何も云うてくれるな、敵《かたき》の手掛りも薄々知れて居《お》るゆえ、今に満足させるぞよ」
町「はい、旦那様、あの蟠龍軒めは……」
文「よし/\、左様に心配してくれるな、おゝ悦ばしい」
とお町の手を取って小屋の内に一休み、言わず語らず涙にくれている、互いの心の中《うち》は思いやられて不憫《ふびん》でござりまする。
四十一
文治夫婦は深山《みやま》の小屋にて、島に一年|蟄居《ちっきょ》の話、穴に一年難儀の話、積る話に実が入《い》りまして、思わず秋の夜長を語り明しました。
文「もう夜《よ》が明けたの」
町「おや、もう夜が明けたのですか」
と云って居りますところへ一人の男がやってまいりまして、
「やア旦那様」
文「おゝ、そちは國藏ではないか」
國「旦那様、漸《ようよ》うのことで尋ね当てました、これは御新造様御無事で」
町「おや、國藏さんですか」
國「まア何《ど》うしてお二人が斯様《こん》な処に、夢じゃアありますまいなア、私《わっち》やア嬉しくって耐《たま》らねえ」
文「まア其方《そち》は何うして斯様な処へ来たのか」
國藏は涙を払い、
國「話しゃア長《なげ》えことですが、一昨年の秋中《あきじゅう》、旦那が越後へお出でなすったと聞きやして、後《あと》を慕《した》って参《めえ》りやして、散々|此処《こゝ》らあたりを捜しましたが、さっぱり行方が分りませんので、到頭越後まで漕付《こぎつ》けやした、だん/\尋ねたところが、斯《こ》う/\いう方が何処其処《どこそこ》へ泊ったと云いやすから、其処へ往って聞きますと、二三日|前《ぜん》に沖見物をすると云って船に乗り出したと聞いて、私《わっち》アどの位《くれえ》がっかりしたか知れやせん、まご/\している内に生憎《あいにく》病気に罹《かゝ》りやして、さるお方の厄介になって居ります中《うち》に、江戸の侍が海賊を退治したという噂、幸い病気も癒《なお》りやしたから、もしや旦那ではないかと様子を聞きやしたところが、確かに大伴蟠龍軒、どうか旦那方を捜してお知らせ申したいと思っている内に、その手柄か何か知らねえが、江戸においでなさる御領主様がお抱《かゝ》えになるとか云う事で、先月末に蟠龍軒めは江戸を指して出立しやした」
文「それは宜《よ》い事を聞いた、それにしてもお前は何《ど》うして此処《こゝ》へ」
國「さア、その御不審は御尤《ごもっとも》ですが、越後にいる時分この山中に迷っている美人があると云うことを風の便りに聞きましたから、江戸に帰る途中、もしやと思って昨日《きのう》から捜した甲斐あって、此処でお二人にお目に懸るとは神様のお手引でござんしょう、私《わっち》アこんな嬉しい事はござりやせん」
文「あゝ、つい話に紛れて忘れて居ったが、お前は何《ど》うして蟠龍軒の顔を知って居《お》るか」
國「私《わっち》ア一向存じやせんが、女房《にょうぼ》のお浪《なみ》が浅草の茶屋にいる頃から宜《よ》く知って居りまして」
文「左様か、お前は女房まで連れて私《わし》の跡を慕って来たのか」
國「へえ、ところが今いう通り、越後で病気に罹《かゝ》りやしたが、私《わっち》ア一文も銭がねえから可愛想だとは思ったが、お浪を稼ぎに……」
文「なに、お浪を勤めに出したと」
國「へえ、旦那の為にゃア命を助けられた私《わっち》ども夫婦でござんす、身を売るくれえは当り前《めえ》の事です、さア今からお支度なさいまし、江戸へお供を致しやしょう」
文「そうするとお前は、お浪を越後へ置去りにして来たのだな」
國「そんな事は何《ど》うでも宜《い》いじゃ有りやせんか」
文「いや左様《そう》でない、幸いに文治は二度も難船して、九死一生の難儀をしたが、肌身離さず持っていた金は失わぬ、さアこの金子《きんす》でお浪を請出し、そちは後《あと》からまいれ、礼は江戸で致すぞよ」
國「そんなら旦那様、折角の御親切を無にするも如何《いかゞ》、このお金は有難く頂戴いたします、御新造様、随分|危険《けんのん》な山路《やまみち》ですからお気をお付けなせえまし」
町「有難うございます、早くお浪さんを連れて江戸へお帰り下さいまし」
文「國藏、心置《こゝろおき》なく緩《ゆっく》りと後《あと》からまいれ、さアお町、もう斯《こ》うなったら一刻も早く里へ出て支度をせねばならぬ」
と衣類其の他《た》の支度をなし、江戸表をさして出立しまして、先《ま》ず本所業平を志して立花屋へまいりますと、何時《いつ》か表は貸長屋になって、奥に親父《おやじ》が隠居して居ります。
文「御免下さい、立花屋の御主人は御在宅かね」
主「はい何方様《どなたさま》で、いや、これは/\旦那様、よくお達者でおいでなさいました」
という言葉も涙ぐんで居ります。
主「よくまア旦那様、おや、これは/\御新造様でございますか、ようまアお揃《そろ》いで、何方《どちら》からおいでになりました」
文「いや永々《なが/\》御心配をかけまして有難う存じます、何から申して宜しいやら、何《ど》うも江戸を経《た》って後《のち》はさま/″\な難儀に逢いました」
町「伯父《おじ》さん、あなたも宜《よ》うお達者で」
主「さア/\お上りなさいまし……おい、婆《ばア》さん、お茶を持って」
婆「これはまア旦那様、御新造様、何《ど》うしてまア」
主「婆《ばゞア》や、御挨拶は後《あと》にしろ」
主「えゝ旦那様、私も御覧の通りの老人、料理屋を止《や》めまして、只今では表長屋を人に貸しまして、忰《せがれ》は向島の武藏屋《むさしや》へ番頭と料理人|兼帯《けんたい》で頼まれて往って居ります、旦那様はお宅をお払いになりまして、差当り御当惑なさいましょう、実は婆さんと二人で淋しく思っているところでございますから、おいで下さいますれば却《かえ》って好都合でございます」
と老人夫婦は下へも置かず懇《ねんごろ》にもてなして居ります。
四十二
文治も悦んで、
文「実は差当り居所《いどこ》に当惑いたしましたので、お頼みにまいりました、何分よろしく、お町丁度|宜《よ》かったなア」
町「まア何より有難う存じます」
文「友之助や森松は相変らず折々遊びにまいりましょうか」
主「えゝ、もう皆さんが代り/\お尋ね下さいます、いつも森松さんが来なさると、貴方のお話をしちゃア帰りには泣別れを致します、それからつい十日ばかり以前でございますが、友之助と豊島町の亥太郎さんが落合いまして、旦那様方が無事に蟠龍軒を討って来れば宜《よ》いがと、大層心配しておいでなさいました」
文「はい、手前どもゝ其の決心で江戸表を立ってまいったのでござりますが、行違《ゆきちが》いまして、又ぞろ江戸へ引返《ひっかえ》してまいるような事になりました、此の上は
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