オて居りましたが、それから直ぐ奥へまいりまして、
 商「旦那え、舟人《ふなびと》たちに聞合《きゝあわ》せますと、陸《おか》と沖とは余程違ったものだそうですが、二人頼んでまいりました」
 文「違うと申して幾ら呉れというのか」
 商「一日|一貫文《いっかんもん》、其の代り御祝儀《ごしゅうぎ》には及びません」
 文「それは/\千万お手数《てかず》であった、これ/\亭主」
 亭「へえ」
 文「いよ/\明日《あす》は見物に出掛ける所存だ、これは誠に少々だが、お茶代じゃ」
 亭「へえ、有難う存じます、併《しか》し旦那、明日はまだ沖合が何《ど》うでございましょうかな」
 商「あ、これ/\主人、旦那が往《い》こうと仰しゃるのに何《なん》だ、入らざるお世話をして、引込《ひっこ》んで居れ」
 亭「へえ/\、旦那お支度をなさいまし、随分お支度を……」
 と心ありげに立ち去りました。文治はそれと悟り、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》とやら、此奴《こいつ》を楷子《はしご》にしたらお町の様子が分らぬ事もあるまい、また敵《かたき》の様子も知れるであろうと十分に心を用いて、翌日船に乗込む事に取極めましたが、これぞ文治が大難に逢うの基《もと》でございます。

  二十八

 さて文治は船頭を二人雇うて乗出しますると、
 舟子「旦那、心配しなさるな、私《わし》らが二人附いていりゃアどんな風でも大丈夫でがす、陸《おか》を行くよりも沖の方が宜《い》いくらいで、やい吉《きち》い確《しっ》かりしろ」
 吉「よし、やッ、どっこいさア」
 だん/\漕《こ》いでまいりますと、俄《にわ》かに空合《そらあい》が悪くなりまして、どゝん/″\と打寄する浪は山岳の如く、舟は天に捲上《まきあ》げられるかと思う間もなく、ごゝゝゝごうと奈落《ならく》の底へ沈むかと怪しまるゝばかり、風はいよ/\烈《はげ》しく、雨さえまじりてザア/\/\ドドドウという音の凄《すさ》まじさ、大抵の者なら気絶するくらいでございます。
 文「もう斯《こ》うなったら仕方がない、二人とも確《しっ》かりやれ」
 と文治も一生懸命であか[#「あか」に傍点]を掻出《かきだ》して居ります。烈風ます/\猛《たけ》り狂って、黒雲《くろくも》の彼方《かなた》此方《こなた》は朱《しゅ》をそゝいだようになりました。船頭はこれを赤じま[#「赤じま」に傍点]と申します。何方《どっち》が西か東か一向見分けも付かぬくらいで、そこらに船でもあれば、船は微塵《みじん》と砕けるは必定《ひつじょう》、実《げ》に三人の命は風前の燈火《ともしび》の如くであります。流石《さすが》に鉄腸強胆《てっちょうごうたん》な文治も、思わず声を挙げまして、
 「不幸なる我が運命、何卒《なにとぞ》敵《かたき》を討つまでは、文治が命をお助けあれ、神々よ武士の一分《いちぶん》立てさせ給え」
 もう斯《こ》うなっては何人《なにびと》も神仏を頼むより外《ほか》に道はございませぬ。二人の船頭も大声を挙げて思い/\の神々を祈って居りますが、風雨は一向|歇《や》む模様はございませぬ。
 吉「もう兎《と》てもいけやせん、日頃悪事の報いか、魚《うお》の餌食《えじき》となるは予《かね》ての覚悟だ、仕方が無《ね》え、南無阿弥陀仏/\」
 庄「えゝ縁起の悪い奴だ、何を云ってやがる、手前《てめえ》や己《おら》ア生れて此方《こっち》悪事を働いた覚えは無《ね》え、確《しっ》かりしろえ、舟乗稼業《ふなのりかぎょう》は御年貢《ごねんぐ》だ、旦那アまだ宜しゅうごぜえやす、どうぞ神様をお頼み申して下せえやし」
 と三人とも手に手を尽して漕いだ甲斐もなく、とうとう日は暮れて四方八方|黒白《あやめ》も分らぬ真の闇、併《しか》し海は陸《おか》と違いまして、どのような闇でも水の上は分りますが、最早《もはや》三人とも根《こん》絶え力尽きて如何《いかん》とも為《せ》ん術《すべ》なく、舟一ぱいに水の入った其の中へどッかり坐って、互に顔を見合せ、只|夜《よ》の明けるのを待つのみでございますが、そうなると又長いもので、中々夜が明けませぬ。運を天にまかして船の漂うまゝに彼方《あちら》へ揺られ、此方《こちら》へ流されて居ります内に、東の方がぼんやりと糸を引いたように明るくなりました。さては彼方が東か知らん、夜が明けたら少しは風も静まるであろうと思いの外《ほか》、明るくなっても風は止まず、益々|烈《はげ》しく吹いて居りまする。三人とも心付いて見ると、櫓櫂《ろかい》も皆吹流されてしまいました。
 船頭「やア、これじゃア風が止んだって何処《どこ》へも往《ゆ》かれることじゃねえ、情《なさけ》ねえな、吉、もう是までの運命と諦めろ」
 文「まア/\待て、決して短気な事をしては成らんぞ、今にも大船《おおぶね》が通らぬとも限らぬ、又異国の船でも此の難儀を見れば助けてくれるは人情だ」
 と云って居ります中《うち》に、風は漸《ようや》く凪《な》いでまいりました。
 文「やア大分風が静かになって来た、これで天気になったらば、また助ける風も吹くであろう、死ぬも生きるも約束だ、各々《おの/\》確《しっ》かりしろよ」
 船「有難うござりやす、旦那の方が気が丈夫だ、こうなっちゃア人間|業《わざ》で助かる訳にゃア往《い》かねえ、どうか旦那、神様を信心して下せえ」
 文「そち達も信心が肝要だぞ」
 吉「なアに此方《こち》とらア信心したって神様が……」
 庄「やい何を云うんだ、確《しっ》かりしろよ、気が違ったか、心を改めて信心するが肝心だ、ねえ旦那」
 文「そうとも/\、それ天気になった、風も止んだぞ」
 庄「やア、こりゃア有難《ありがて》え、これと云うのも信心のお蔭だ、何《なん》しろあか[#「あか」に傍点]を掻かざアなるめえ」
 吉「だって、あか[#「あか」に傍点]掻《かき》も何も流されてしまったじゃアねえか」
 時に文治は、
 文「よし/\、こゝに宜《よ》い物がある」
 吉「へえ、宜い物って何《なん》ですか」
 文「宿屋から持って来た弁当箱がある」
 吉「何処《どこ》に」
 文「此の通り腰にぶら下げて居《お》る、飯も菜《さい》も沢山あるが、これを明けてから気長に掻い出そうじゃないか」
 吉「旦那、飯をお棄てなせえますか、そりゃア勿体ねえ、これから何日食わずに居《い》るか知れやしねえ、旦那、勿体ねえじゃ有りませんか」
 文「いや私《わし》は食べとうない」
 吉「旦那、棄てるのなら私《わっち》に下せえまし、弁当も何も此の暴風《あらし》で残らず流してしまったア、旦那が上らねえなら私どもに下せえな」
 文「いや/\これは食わぬ方が宜《よ》かろう」
 両人「なアに勿体ねえ、少しぐらい汐《しお》が入っても此の場合だ、飯と聞いちゃア食わずには居《い》られねえ、何《ど》うか下せえな」
 文「そんなら上げもしようが、中《あ》てられるなよ」
 吉「大丈夫、さア庄《しょう》、あか[#「あか」に傍点]は後《あと》にして先ず二人で遣付《やっつ》けようじゃねえか、成程こいつア中々|旨《うめ》え」
 と二人とも十箇《とお》ばかりの握飯《むすび》と菜《さい》まで残らず食《しょく》してしまいました。

  二十九

 吉「さア重箱が殻《から》になった、これから気長にあか[#「あか」に傍点]掻をするんだ」
 文「これ/\重箱の毀《こわ》れぬよう静かにやってくれよ」
 暫くすると船の底の見えるように掻い干しました。
 吉「さア、これから船を動かす道具だ、何も彼《か》も皆《みん》な流して始末に往《い》かねえな、えゝ旦那え、此の木をお刀で割って下せえな、少し柄《え》の方を細く削って下さいまし」
 文「櫂をこしらえるのか、成程手頃の棒だ」
 と文治は脇差を抜きまして、
 文「こうか、これで宜《よ》いかな、これ/\手を出しては危い、さアこれで宜いだろう」
 庄「旦那ア、貴方《あなた》ア些《ちっ》たア道具ごしらえをやった事があると見えますな、それで結構でござりやす」
 文「これ/\船頭、遥か向うに黒く見えるものがあるが、ありゃ国か島か」
 両人は飛上って、
 「やア有難《ありがて》え、島だ/\」
 文「あの島は何処《どこ》だろう」
 庄「昨夜《ゆうべ》から大分暖かになりましたから、余程南へ流されて来たに違《ちげ》えねえ、何しろ新潟の河岸《かし》を離れてから昼夜三日目、事に依《よ》ったら唐《から》まで流されて来たかも知れねえなア」
 文「ウム、そうかも知れぬ、併《しか》し何処《どこ》の国でも人鬼《ひとおに》は居らぬ、こういう訳で難渋するからと頼んだら助けてくれぬ事もあるまい。さア一生懸命でやれ/\」
 文治も手伝って船を漕ぎますが、どうも手ごしらえの櫂といえば櫂、棒同然な物で大海《たいかい》を乗切《のっき》るのでありますから、虫の匍《は》うより遅く、そうかと思うと風の為に追返されますので、なか/\捗取《はかど》りませぬ。其の内に何処《どこ》かの岸へ近づきました。
 文「やれ/\信心のお蔭でいよ/\命が助かったぞ、おい船頭、何《ど》うぞしたか」
 庄「ウム/\ウーム、旦那々々……旦那……苦しい、薬があるなら早く/\」
 吉「これ庄藏、確《しっ》かりしろえ」
 文「これ、庄藏とやら、気を確かり持てよ」
 と云いながら、手早く印籠《いんろう》より薬を取出して、汐水《しおみず》で庄藏の口に含ませましたが、もう口がきけませぬ、其処《そこ》ら辺《あたり》へ取付きまして苦しむ途端に、固まったような血をカッと吐きまして、其の儘息が絶えた様子。
 文「吉公、可愛相なことをしたの、とうとう死んでしまった、折角骨を折って此処《こゝ》まで漕付《こぎつ》けて、もう一丁も行《ゆ》けば国か島かへ上《あが》れるものを、一体|何《ど》うしたのか知らん」
 吉「今、私《わし》どもが喰った弁当は宿屋から呉れましたか、それとも小頭《こがしら》か、いやさ彼《あ》の相宿《あいやど》の者がくれたのですか」
 文「飛脚体《ひきゃくてい》の旅人が折角くれると云うから貰って来た」
 吉「えッ、あの相宿の飛脚から……やアしまった、秋田屋の印《しるし》の重箱だから、腹の減ったまぎれに油断して喰ったのが……」
 文「なに、油断して喰った、それじゃア相宿の飛脚は怪しい者か」
 吉「旦那、これが因果応報というのでござんしょう、何《なん》だか私《わっち》も腹が痛くなりました、済まねえが旦那|気付《きつけ》を一服下せえまし」
 文「やア其方《そち》も腹痛か」
 吉「旦那、大変な事をいたしました、真ッ平《ぴら》御免下せえまし、実は私《わっち》らは海賊の手下でござんす、あの旅人に姿を扮《やつ》していたなア小頭の八十松《やそまつ》という者で、貴方を親船へ連れて往って、懐中にある百両余りの金と大小衣服を剥ぎ取って、事に依《よ》ったら貴方をば手下にするか、殺すかしてと相談しましたが、一昨日《おとゝい》宿屋を出る時に手強《てごわ》い奴と思ったかして、弁当の中へ毒を入れたのでござんしょう、それとも知らず自分の弁当は流してしまい、旦那の持って居なさる弁当箱には秋田屋の印《しるし》がござんすから、二日|二夜《ふたよ》さの飢《ひも》じさに浮《うっ》かり喰ったのが天道様《てんとうさま》の罰《ばち》でござんしょう、旦那、宥《ゆる》して下せえまし」
 文「成程、分った、新潟を出る時に怪しい奴と思わぬでもないが、それ程の奴とは心付かなんだ、そう貴様が懺悔《ざんげ》するからは其方《そち》の罪は宥して遣《つか》わす、さア今少し薬を呑んで助かれ、庄藏とやらはとても助からんぞ」
 吉「旦那ア、私《わっち》も最早《もう》いけません、眼が眩《くら》んで旦那の顔さえ見えなくなりました」
 文「これ、吉とやら宜《よ》く聞けよ、生前に何《ど》の様な悪事を働いても、臨終《いまわ》の際《きわ》に其の罪を懺悔すれば、慈悲深き神様は其方《そち》の未来を加護し給うぞ、さらりと悪心を去って静かに命数の尽《つき》るを待て」
 吉「あ、あ、有難うがす、私《わっち》も今更|発心《ほっしん》しました、死ぬる命は惜《おし》みませぬ、何
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