、長生《ながいき》して死恥《しにはじ》を掻こうより寧《いっ》そのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫《せっかん》、それを藤原喜代之助《ふじわらきよのすけ》が見兼て母に詫入《わびい》れ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付《ほりつ》け、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄《にわか》に家《うち》にばかり居《お》るようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣《さんけい》でもするが宜《よ》いと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百|羅漢《らかん》へ参詣の帰り途《みち》、紀伊國屋友之助《きのくにやとものすけ》の大難を見掛け、日頃の気性|直《す》ぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々《しぶ/\》我家《わがや》へ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒《おおともばんりゅうけん》と賭碁《かけご》を打って負けましたので、女房お村を奪《と》られた上に、百両の証文が三百両になっているという、
前へ 次へ
全222ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング