相で毀したからとって、此の大事《でえじ》な人間の指い切るの、足い切るのと云って人を不具《かたわ》にするような御遺言状《おかきもの》を遺《のこ》したという御先祖さまが、如何《いか》にも馬鹿気た訳だ」
作「黙れ、先祖の事を悪口《あっこう》申し、尚更棄置かんぞ」
權「いや棄置かねえでも構わねえ、素《もと》より斬られる覚悟だから、併《しか》し私《わし》だって斬られめえと思えば、あんた方親子二人がゝりで斬ると云っても、指でも附けさせるもんじゃアねえ、大《でっ》けい膂力《ちから》が有るが、御当家《こちら》へ米搗奉公をしていて、私ア何も知んねえ在郷《ざいご》もんで、何の弁別《わきめえ》も有りやしねえが、村の神主さまのお説教を聴きに行《ゆ》くと、人は天《あめ》が下の霊物《みたまもの》で、万物の長だ、是れより尊《とうと》いものは無い、有情物《いきあるもの》の主宰《つかさ》だてえから、先《ま》ず禁裏さまが出来ても、お政治をなさる公方様が出来ても、此の美作一国の御領主さまが出来やしても、勝山さまでも津山さまでも、皆人間が御政治《ごせいじ》を執《と》るのかと私は考《かんげ》えます、皿が政治を執ったてえ話は昔から聞いた事がねえ、何様《どん》な器物《もの》でも人間が発明して拵《こしら》えたものだ、人間が有ればこそ沼ア埋めたり山ア掘崩したり、河へ橋を架けたり、田地田畠《でんじでんばた》を開墾《けえこん》するから、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、168−6]も実って、貴方様《あんたさま》も私も命い継《つな》いで、物を喰って生きていられるだア、其の大事《でえじ》なこれ人間が、粗相で皿ア毀したからって、指を切って不具《かたわ》にするという御先祖様の御遺言《ごゆいごん》を守るだから、私ア貴方《あんた》を悪くは思わねえ、物堅《ものがて》え人だが余《あんま》り堅過ぎるだ、馬鹿っ正直というのだ、これ腹ア立っちゃアいけねえ/\、どうせ一遍腹ア立ってしまって、然《そ》うして私を打斬《ぶっき》るが宜うがすが、それを貴方が守ってるから、此の村ばっかりじゃアない、近郷の者までが貴方の事を何と云う、あゝ東山は偉い豪士《ごうし》だが、家《いえ》に伝わる大事《でえじ》な宝物《たからもの》だって、それを打毀《ぶちこわ》せば指い切るの足い切るのって、人を不具《かたわ》にする非道な事をする、東山てえ奴は悪人だと人に謂《い》わせるように、御先祖さまが遺言状《かきつけ》を遺《のこ》したアだね、然うじゃアごぜえませんか、乃《そこ》でどうも私も奉公して居《い》るから、人に主人の事を悪党だ非道だと謂われゝば余《あん》まり快くもごぜえません、御先祖さまの遺言が有るから、貴方はそれを守り抜いてゝ、証文を取って奉公させると、中には又喰うや喰わずで仕様がねえ、なに指ぐらい打切《ぶちき》られたって、高《たけ》え給金を取って命い継《つな》ごう、なに指い切ったってはア命には障らねえからって、得心して奉公に来て、つい粗相で皿を打毀《ぶちこわ》すと、親から貰った大切《でえじ》な身体に疵うつけて、不具《かたわ》になるものが有るでがす、実にはア情《なさけ》ねえ訳だね、それも皆《みん》な此の皿の科《とが》で、此の皿の在《あ》る中《うち》は末代までも止まねえ、此の皿さえ無ければ宜《い》いと私は考えまして、疾《とう》から心配《しんぺえ》していました、所で聞けば、お千代どんは齢《とし》もいかないのに母《かゝ》さまが塩梅《あんばい》が悪《わり》いって、良《い》い薬を飲まねば癒らない、どうか母さまを助けたい、仮令《たとえ》指を切られるまでも奉公して人参を買うだけの手当をしてえと、親子相談の上で証文を貼り、奉公に来た者を今指い切られる事になって、誠にはア可愛そうにと思ったから、私が此の二十枚の皿を悉皆《みんな》打砕《ぶっくだ》いたが、二十人に代って私が一人死ねば、余《あと》の二十人は助かる、それに斯うやって大切《でえじ》な皿だって打砕《ぶちくだ》けば原《もと》の土塊《つちッころ》だ、金だって銀だって只形を拵えて、此の世の中の手形同様に取遣《とりや》りをするだけの物と考《かんげ》えます、金だって銀だって人間程|大切《たいせつ》な物でなえから、お上《かみ》でも人間を殺せば又其の人を殺す、それでも尚《な》お助けてえと思う心があるので、何とやらさまの御法事と名を付けて助かる事もありやす、首を打斬《ぶっき》る奴でも遠島で済ませると云うのも、詰り人間が大切だから、お上でも然うして下さるのだ、それを無闇に打斬《ぶちき》るとは情ねえ話だ、あなたの御先祖さまは東山将軍義政さまから戴いた、東山という大切な御苗字だという事は米を搗きながら蔭で聞いて知って居ますが、あの東山は非道だ、土塊《つちッころ》と人間と同じ様に心得ていると云われたら、其の東山義政のお名前までも汚《けが》すような事になって、貴方《あんた》は済むめえかと考《かんげ》えますが、何卒《どうか》して此の風儀を止めさせてえと思っても、他に工夫が無《ね》えから、寧《いっ》そ禍《わざわい》の根を絶とうと打砕《ぶっくだ》いてしまっただ、私一人死んで二十人助かれば本望でがす、私も若《わけ》え時分には、心得違《こころえちげ》えもエラ有りましたが、漸《よ、や》く此の頃|本山寺《ほんざんじ》さまへ行って、お説法を聞いて、此の頃少し心も直って参《めえ》りましたから、大勢の人に代って私一人死にます、どうか其の代り、お千代さんを助けてやって下せえまし、親孝行な此様《こん》な人は国の宝で土塊《つちッころ》とは違います、さ私を斬って下せえまし、親戚《みより》兄弟親も何も無《ね》え身の上だから、別に心を置く事もありません、さ、斬っておくんなせえまし」
 と沓脱石《くつぬぎいし》へピッタリ腰をかけ、領《えり》の毛を掻上げて合掌を組み、首を差伸ばしまして、口の中で、
權「南無阿弥陀仏/\/\/\/\/\/\」
 斯《かゝ》る殊勝《しゅしょう》の体《てい》を見て、作左衞門は始めて夢の覚めたように、茫然として暫く考え、
作「いや權六許してくれ、どうも実に面目次第もない、能《よ》く毀してくれた、あゝ辱《かたじ》けない、真実な者じゃ、なアる程左様……これは先祖が斯様な事を書遺《かきのこ》しておいたので、私《わし》の祖父《じゞい》より親父も守り、幾代となく守り来《きた》っていて、中指を切られた者が既に幾人《いくたり》有ったか知れん、誠に何とも、ハヤ面目次第もない、權六|其方《そなた》が無ければ末世末代東山の家名は素《もと》より、其方の云う通り慈昭院《じしょういん》殿(東山義政公の法名)を汚す不忠不義になる所であった、あゝ誠に辱ない、許してくれ、權六此の通り……作左衞門両手を突いて詫るぞ、宜くマ思い切って命を棄て、私の家名を汚さんよう、衆人《ひと》に代って斬られようという其の志、実に此の上もない感服のことだ、あゝ恥入った、実に我が先祖は白痴《たわけ》だ、斯様な事を書遺すというは、許せ/\」
 と縁先へ両手をついて詫びますと、傍に聞いて居りました忰の長助が、何と思ったかポロリと膝へ涙を落して、權六の傍へ這ってまいりました。
長「權六、あゝー誠に面目次第もない、中々|其方《そなた》を殺すどころじゃアない、私《わし》が生きては居《い》られん、お千代親子の者へ対しても面目ないから、私が死にます」
 と慌《あわ》てゝ短刀を引き抜き自害をしようとするから、權六が驚いて止めました。

        八

 權六は長助の顔を視《み》つめまして、
權「貴方《あんた》何をなさりやアす」
長「いや面目ないが、実は此の皿を毀したのはお父様《とっさま》、此の長助でございます」
作「なに……」
長「唯今此の權六に当付けられ、実に其の時は赤面致しましたけれども、誰《たれ》も他に知る気遣いは有るまいと思いましたが、実はお千代に恋慕を云いかけたを恥《はじ》しめられた恋の意趣《いし》、お千代の顔に疵を付け、他《た》へ縁付《えんづき》の出来ぬようにと存じまして、家の宝を自分で毀し、其の罪を千代に塗付けようとした浅ましい心の迷い、それを權六が存じて居りながら、罪を自分の身に引受けて衆人《しゅうじん》を助けようという心底、実に感心致しました、それに引換え私《わたくし》の悪心面目もない事でございますから……」
作「暫く待て/\」
權「若旦那様、まゝお待ちなせえまし、貴方《あんた》が然《そ》う仰しゃって下されば、權六は今首を打斬《ぶっき》られても名僧智識の引導より有難く受けます、何卒《どうぞ》お願《ねげ》えでごぜえますから私《わし》が首を……」
作「どう致して、手前は世の中の宝だ、まゝ此処《これ》へ昇《あが》ってくれ」
 と是れから無理やりに權六の手を把《と》って、泥だらけの足のまゝ畳の上へ上げ、段々お千代|母子《おやこ》にも詫びまして、百両(此の時《ころ》だから大したもので)取り出して台に載せ、
作「何卒《どうぞ》此の事を世間へ言わんよう、内聞にしてくれ」
 と云うと、母子《おやこ》とも堅いから金を受けません、それでは困ると云うと。
權「そんなら私《わし》が志《こゝろざ》しが有りますから、此のお金をお貰い申し、昨年から引続きまして、当御領地の勝山、津山、東山村の辺は一体に不作でごぜえまして、百姓も大分《だいぶ》困っている様子でございますから、何うか施しを出したいものでがす、それに此の皿のために指を切られたり、中には死んだ者も有りましょうから、どうか本山寺様で施餓鬼《せがき》を致し、乞食《こつじき》に施行《せぎょう》を出したいと思います」
作「あゝ、それは感心な事で、入費の処は私《わし》も出そう」
 と云うので、本山寺という寺へまいりまして、和尚さまに掛合いますと、方丈も大きに感心して、そんならばと、是れから大施餓鬼《おおせがき》を挙げました。多分に施行も出しました事でございまして、彼《か》の砕けた皿を後世のためにと云うので、皿山の麓方《ねがた》のこんもりとした小高き処へ埋《うず》めて、標《しる》しを建て、これを小皿山《こざらやま》と[#「小皿山と」は底本では「小皿山を」]名づけました。此の皿山は人皇《にんのう》九十六代|後醍醐天皇《ごだいごてんのう》、北條九代の執権《しっけん》相摸守高時《さがみのかみたかとき》の為めに、元弘《げんこう》二年三月|隠岐国《おきのくに》へ謫《てき》せられ給いし時、美作の国久米の皿山にて御製《ぎょせい》がありました「聞き置きし久米の皿山越えゆかん道とはさらにおもひやはせむ」と太平記に出てありますと、講談師の放牛舎桃林《ほうぎゅうしゃとうりん》に聞きましたが、さて此の事が追々世間に知れて来ますと、他人《ひと》が尊《とうと》く思い、尾に尾を付けて云い囃《はや》します。時に明和《めいわ》の元年、勝山の御城主にお成りなさいました粂野美作守さまのお城普請《しろぶしん》がございまして、人足を雇い、お作事《さくじ》奉行が出張《でば》り、本山寺へ入らっしゃいまして方々御見分が有ります。其の頃はお武家を大切にしたもので、名主年寄始め役人を鄭重《ていちょう》に待遇《もてな》し、御馳走などが沢山出ました。話の序《ついで》に彼《か》の皿塚の事をお聞きになりまして、山川廣《やまかわひろし》という方が感心なされて、
山「妙な奴もあるものだ、其の權六という者は何処《どこ》に居《お》る」
 とお尋ねになりますと、名主が、
名「へえ、それは当時遠山と申す浪人の娘のお千代と云う者と夫婦になりまして、遠山の家名を相続して居ります、至って醜男《ぶおとこ》で、熊のような、毛だらけな男でございますが、女房はそれは/\美くしい女で、權六は命の親なり、且《かつ》其の気性に惚れて夫婦になりたいと美人から望まれ、即《すなわ》ち東山作左衞門が媒妁人《なこうど》で夫婦になり親子睦ましく暮して居ります、東山のつい地面内へ少しばかりの家を貰って住んで、農業を致し、親子の者が東山のお蔭で今日では豊かに暮して居ります」
 と聞いて廣は猶々《なお/\》床《ゆか》しく思い、会いたいと申すのを名主が
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