菊模様皿山奇談
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)美作国《みまさかのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|南粂郡《みなみくめごおり》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、168−6]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ピカ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃するが如き感ありて、圓朝子が高座に上り、扨て引続きまして今晩お聞きに入れまするは、とお客の御機嫌に供えたる作り物語りとは思われざるなり。蓋し当時某藩に起りたる御家騒動に基き、之を潤飾敷衍せしものにて、其人名等の世に知られざるは、憚る所あって故らに仮設せるに因るならん、読者以て如何とす。
  明治二十四年十一月
[#地から3字上げ]春濤居士識
[#改ページ]

        一

 美作国《みまさかのくに》粂郡《くめごおり》に皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどの眼《まなこ》で見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根方《ねがた》に皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。その謂《いわ》れを尋ねると、昔|南粂郡《みなみくめごおり》の東山村《ひがしやまむら》という処に、東山作左衞門《ひがしやまさくざえもん》と申す郷士《ごうし》がありました。頗《すこぶ》る豪家《ごうか》でありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍|義政《よしまさ》に事《つか》えて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥後《ひご》の熊本の本願寺支配の長峰山《ちょうほうざん》随正寺《ずいしょうじ》という寺の宝物《ほうもつ》になって居ります。これは彼《か》の諸方で経済学の講釈をしたり、平天平地《へいてんへいち》とかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐田介石《さだかいせき》和尚が確かに見たと私《わたくし》へ話されました。何《ど》の様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生臙脂《しょうえんじ》がゝった処があり、それに青貝のようにピカ/\した処もあると云いますから、交趾焼《こうちやき》のような物かと聞きましたら、いや左様《そう》でもない、珍らしい皿で、成程一枚|毀《こわ》したら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其の外《ほか》にある二十枚の皿を白菊と云って、極《ごく》薄手の物であると申すことですが、東山時分に其様《そん》な薄作《うすさく》の唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重宝《ちょうほう》であるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、誰《たれ》も見たがりますから、作左衞門は自慢で、件《くだん》の皿を出しワすのは、何《ど》ういうものか家例《かれい》で九月の節句に十八人の客を招待《しょうだい》して、これを出します。尤《もっと》も豪家ですから善《よ》い道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度々《たび/\》饗応を致します。左様な理由《わけ》ゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人が頓《とん》と居附きません。何故《なぜ》というと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免を蒙《こうむ》ります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからつい過《あや》まっては毀して指を切られ、だん/\此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土《から》には古来から有った物ですが、日本では行基菩薩《ぎょうきぼさつ》が始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国《やまとのくに》菅原寺《すがわらでら》の住僧《じゅうそう》でありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の後《ご》元祖|藤四郎《とうしろう》という人がヘーシを発明致したは貞応《ていおう》の二年、開山|道元《どうげん》に従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸《こせと》と申すもので、安貞《あんてい》元年に帰朝致し、人にも其の焼法《やきほう》を教えたという。是《こ》れは今《こん》明治二十四年から六百六十三年|前《ぜん》のことで、又|祥瑞五郎太夫《しょんずいごろだゆう》頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にも極《ごく》綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度|明和《めいわ》の元年に粂野美作守《くめのみまさかのかみ》高義公《たかよしこう》国替で、美作の国|勝山《かつやま》の御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村《りんそん》に藤原村《ふじわらむら》と云うがありまして、此の村に母子《おやこ》暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代《ちよ》という十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌《すそさば》きなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、他《た》から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山《つやま》の御城主、其の頃|松平越後守《まつだいらえちごのかみ》様の御家来|遠山龜右衞門《とおやまかめえもん》の御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格が異《ちが》って居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをして僅《わず》かの小畠《こはた》をもって其の日をやっと送って居《お》る内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々《いろ/\》介抱に力を尽しましたが、母は次第に病が重《おも》りました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹治《たんじ》と申す老爺《じゞい》がありまして、時々見舞に参ります。
丹「えゝお嬢様、何うでがす今日《こんち》は……」
千「おや爺《じい》やか、まアお上りな、爺や此間《こないだ》は誠に何よりの品を有難うよ」
丹「なに碌なものでもございませんが、少しも早く母《かあ》さまの御病気が御全快になれば宜《よ》いと心配していますが、何うも御様子が宜くねえだね」
千「何うかして少しお気をお晴しなさると宜《い》いが、私はもういけない、所詮死ぬからなんて御自分の気から漸々《だん/″\》御病気を重くなさるのだから困るよ、今朝はお医者様を有難う、早速来て下すったよ」
丹「参りましたかえ、あのお医者さまはえらい人でごぜえまして、何でもはア此の近辺の者で彼《あ》の人に掛って癒《なお》らねえのはねえと云う、宅《うち》も小さくって良いお出入場《でいりば》も無《ね》えようだが、城下から頼まれて、立派なお医者さまが見放した病人を癒した事が幾許《いくら》もありやすので、諸方へ頼まれて往《ゆ》きますが、年い老《と》って居るから診《み》ようが丁寧だてえます、脉《みゃく》を診るのに両方の手を押《つか》めえて考えるのが小一時《こいっとき》もかゝって、余り永いもんだで病人が大儀だから、少し寝かしてくんろてえまで、診るそうです」
千「誠に御親切に診て下さいますけれども、爺や彼の先生の仰しゃるには、朝鮮の人参の入ってるお薬を飲ませないとお母《っか》さまはいけないと仰しゃったよ」

        二

 其の時に丹治は首を前へ出しまして、
丹「へえー何を飲ませます」
千「人参の入ってるお薬を」
丹「何《ど》のくらい飲ませるんで」
千「一箱も飲ませれば宜《よ》いと仰しゃったの」
丹「それなら何も心配は入りません、一箱で一両も二両もする訳のものじゃアございやせん、多寡《たか》の知れた胡蘿蔔《にんじん》ぐらいを」
千「なに胡蘿蔔ではない人参だわね」
丹「人参てえのは何だい」
千「人の形に成って居るような草の根だというが、私は知らないけれども、誠に少ないもので、本邦《こっち》へも余り渡らない物だけれども、其のお薬をお母《っか》さまに服《た》べさせる事もできないんだよ」
丹「何うかして癒らば買って上げたいもんだが、何《ど》の位のものでがす」
千「一箱三拾両だとさ」
丹「そりゃア高《たけ》えな、一箱三拾両なんて魂消《たまげ》た、怖ろしい高え薬を売りたがる奴じゃアねえか」
千「なに売りたがると云う訳ではないが、其のお薬を飲ませればお母さまの御病気が癒ると仰しゃるから、私は其れを買いたいと思うが買えないの」
丹「むゝう三拾両じゃア仕様がねえ、是れが三両ぐらいのことなら大事な御主人の病《やめえ》には換えられねえから、宅《うち》を売ったって其の薬を買って上げたいとは思いますが、三拾両なんてえらい話だ、そんな出来ねえ相談を打《ぶ》たれちゃア困ります、御病人の前で高《でけ》え声じゃア云えねえが、殊《こと》に寄ったら其様《そん》な事を機会《しお》にして他《ほか》へ見せてくんろという事ではないかと思うと、誠に気が痛みやすな」
千「私も実は左様《そう》思っているの、それに就《つ》いて少しお前に相談があるからお母さまへ共々《とも/″\》に願っておくれな、私が其のお薬を買うだけの手当を拵《こしら》えますよ」
丹「拵えるたって無いものは仕様があんめえ」
千「そこが工夫だから、兎も角お母さまの処へ一緒に」
 と枕元の屏風を開け、
千「もしお母様《っかさま》、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上り悪《にく》うございましょう、お忌《いや》ならば半分召上れ、あとの滓《おり》のあります所は私が戴きますから」
母「此の娘《こ》は詰らんことを云う、達者な者がお薬を服《た》べて何うする、私は幾ら浴《あび》るほどお薬を飲んでも効験《きゝめ》がないからいけないよ、私はもう死ぬと諦らめましたから、お前|其様《そんな》に薬を勧めておくれでない」
千「あら、またお母さまはあんな事ばかり云っていらっしゃるんですもの、御病気は時節が来ないと癒りませんから、私は一生懸命に神さまへお願掛《がんが》けをして居ますが、あなた世間には七十八十まで生きます者は幾許《いくら》も有りますよ」
母「いゝえ私は若い時分に苦労をしたものだからの、それが矢張《やっぱ》り身体に中《あた》っているのだよ」
千「あの爺やが参りましたよ」
母「おゝ丹治、此方《こっち》へ入っておくれ」
丹「はい御免なせえまし、何うでござえますな、些《ちっ》とは胸の晴《はれ》る事もござえますかね、お嬢さんも心配しておいでなさいますから、能《よ》くお考えなせえまし、併《しか》しま旧《もと》が旧で、あゝいう生活《くらし》をなすった方
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