を捺きやした、ほんの掟《おきて》で、一寸《ちょっと》小指へ疵を附けるぐれえだアと思いやしたが、指を打切《ぶっき》られると此の後《のち》内職が出来ません、と云って無闇に頬辺なんて、どう云うはずみで鼻でも落したらそれこそ大変だ、情ねえ事で、嬢さんの代りに私《わし》を切っておくんなせえ」
長「いや手前を切る約束の証文ではない、白痴《たわけ》た事を云うな、何のための受人だ」
丹「受人だから私《わし》が切られようというのだ」
長「黙れ、証文の表に本人に代って指を切られようと云う文面はないぞ、さ顔を切って遣る」
と丹治と母を突きのけ、既に庭下駄を穿《は》いて下《お》りにかゝるを、母は是れを遮《さえぎ》り止めようと致すを、千代が、
千「お母様《っかさま》、是れには種々《いろ/\》理由《わけ》がありますんで、私《わたくし》が少し云い過ぎた事が有りまして、斯《こ》う云う事に成りまして済みませんが、お諦め遊ばして下さいまし、さア指の方は内職に障って母を養う事が出来ませんから顔の方を……」
長「うん、顔《つら》の方か、此方《こっち》の所望《のぞみ》だ」
作「これ/\長助、顔を切るのは止せ」
長「なに宜しい」
作「それはいかん、それじゃア御先祖の御遺言状に背《そむ》く、矢張指を切れ/\、不憫《ふびん》にも思うが是れも致し方がない、従来|切来《きりきた》ったものを今更仕方がない、併し長助、成丈《なるたけ》指を短かく切ってやれ」
長「さ切ってやるから、己《おれ》の傍《そば》へ来て手を出せ」
千「はい何うぞ……」
母「いえ/\私《わたくし》を切って下さいまし、私は死んでも宜《い》い年でござります」
丹「旦那ア、私《わし》の指を五本切って負けておくんなせえ」
長「控えろ」
と今千代の腕を取って既に指を切りにかゝる所へ出て来た男は、土間で米を搗《つ》いていました權六という、身の丈《たけ》五尺五六寸もあって、鼻の大きい、胸から脛《すね》へかけて熊毛《くまげ》を生《はや》し、眼の大きな眉毛の濃い、髯《ひげ》の生えている大の男で、つか/\/\と出て来ました。
六
此の時權六は、作左衞門の前へ進み出まして、
權「はい少々御免下さいまし、權六申上げます」
長「なんだ權六」
權「へえ、実は此の皿を割りました者は私《わし》だね」
長「なに手前が割った……左様な白痴《たわけ》たことを云わんで控えて居れ」
權「いや控えては居《い》られやせん、よく考えて見れば見る程、あゝ悪い事をしたと私《わし》ゃア思いやした」
長「何を然《そ》う思った」
權「大殿様皿を割ったのは此の權六でがす」
作「え……其の方は何うして割った」
權「へえ誠に不調法で」
作「不調法だって、其の方は台所にばかり居て、夜は其の方の部屋へまいって寝るのみで、蔵前の道具係の所などへ参る身の上でない其の方が何うして割った」
權「先刻《さっき》箱の棧が剥《と》れたから、どうか繕《つくろ》ってくんろてえから、糊をもって私《わし》が繕ろうと思って、皿の傍へ参《めえ》ったのが事の始まりでごぜえます」
千「權六さん、お前さんが割ったなどと……」
權「えーい黙っていろ」
丹「誠に有難うごぜえます、私《わし》は此の千代さんの家《うち》の年来の家来筋で、丹治と云う者で、成程是れは此の人が割ったかも知れねえ、割りそうな顔付だ」
權「黙って居なせえ、お前《めえ》らの知った事じゃアない、えゝ殿様、誠に羞《はず》かしい事だが、此の千代が御当家《こちら》へ奉公に参《めえ》った其の時から、私《わし》は千代に惚れたの惚れねえのと云うのじゃアねえ、寝ても覚めても眼の前《さき》へちらつきやして、片時も忘れる暇もねえ、併し奥を働く女で、台所へは滅多に出て来る事はありやせんが、時々台所へ出て来る時に千代の顔を見て、あゝ何うかしてと思い、幾度《いくたび》か文《ふみ》を贈っちゃア口説《くど》いただアね」
長「黙れ、其の方がどうも其の姿や顔色《がんしょく》にも愧《は》じず、千代に惚れたなどと怪《け》しからん奴だなア、乃《そこ》で手前が割ったというも本当には出来んわ、馬鹿々々しい」
權「それは貴方《あんた》、色恋の道は顔や姿のものじゃアねえ、年が違うのも、自分の醜《わる》い器量も忘れてしまって、お千代へばかり念をかけて、眠《ね》ることも出来ず、毎晩夢にまで見るような訳で、是程|私《わし》が方で思って文を附けても、丸めて棄てられちゃア口惜《くや》しかろうじゃアござえやんせんか」
長「なんだ……お父《とっ》さまの前を愧《は》じもせんで怪《け》しからん事をいう奴だ」
と口には云えど、是れは長助がお千代を口説いても弾《はじ》かれ、文を贈っても返事を遣《よこ》さんで恥《はず》かしめられたのが口惜しいから、自分が皿を毀したんであります。罪なきお千代に罪を負わせ、然《そ》うして他へ嫁に往《ゆ》く邪魔に成るようにお千代の顔へ疵を附けようとする悪策《わるだくみ》を權六が其の通りの事を申しましたから、長助は変に思いまして、
長「手前は全く千代に惚れたか」
權「え、惚れましたが、云う事を肯《き》かねえから可愛さ余って憎さが百倍、嫁に行く邪魔をして呉れようと、九月のお節句にはお道具が出るから、其の時皿を打毀《うちこわ》して指を切り不具《かたわ》にして生涯亭主の持てねえようにして遣《や》ろうと、貴方《あなた》の前だが考えを起しまして、皿検《さらあらた》めの時に箱の棧が剥《と》れたてえから、糊でもって貼《つ》けてやる振をして、下の皿を一枚《いちめえ》毀して置いたから、先《ま》ず恋の意趣晴しをして嬉しいと思い、実は土間で腕を組んで悦んでいると、此の母《かゝ》さまが飛んで来て、私《わし》が病苦を助けてえと危《あぶね》え奉公と知りながら参って、人参とかを飲まそうと親のために指を切られるのも覚悟で奉公に来たアから、代りに私《わし》を殺して下せえ、切って下せえと子を思うお母《ふくろ》の心も、親を助けてえというお千代の孝行も、聴けば聴く程、あゝー実に私《わし》ア汚ねえ根性であった、何故|此様《こん》な意地の悪い心になったかと考えたアだね、私が是れを考えなければ狗畜生《いぬちくしょう》も同様でごぜえますよ、私ア人間だアから考えました、はアー悪《わり》い事をしたと思いやしたから、正直に打明《ぶんま》けて旦那さまに話いして、私が千代に代って切られた方が宜《い》いと覚悟をして此処《こけ》え出やした、さアお切んなせえ、首でも何でもお切んなせえまし」
長「妙な奴だなア、手前《てめえ》それは全くか」
權「へえ、私《わし》が毀しやした」
作「成程長助、此者《これ》が毀したかも知れん、懺悔《ざんげ》をして自分から切られようという以上は、然《そ》うせんければ宜しくない、併《しか》し久しく奉公して居《い》るから、平生《へいぜい》の気象も宜く知れて居《お》るが、口もきかず、誠に面白い奴だと思っていた、殊《こと》に私《わし》に向って時々|異見《いけん》がましい口答えをする事もあり、正直者だと思って目を掛けていたが、他人の三層倍《さんぞうばい》も働き、力も五人力とか、身体相応の大力《だいりき》を持っていて役にも立つと思っていたに、顔形には愧《は》じず千代に恋慕を仕掛るとは何の事だ、うん權六」
權「はい誠に面目次第もない訳で、何卒《どうぞ》私《わし》を………」
千「權六さん/\、お前私へ恋慕を仕掛けた事もないのに、私を助けようと思って然《そ》う云ってお呉れのは嬉しいけれども、それじゃア私が済みません」
權「えゝい、其様《そん》なことを云ったって、今日《こんにち》誠実《まこと》を照す世界に神さまが有るだから、まア私《わし》が言うことを聞け」
長「いや、お父さまは何と仰しゃるか知らんが、どうも此の長助には未《ま》だ腑に落ちない事がある權六|手前《てまえ》が毀したと云う何ぞ確《たしか》な証拠が有るか」
權「えゝ、証拠が有りやすから、其の証拠を御覧に入れやしょう」
長「ふむ、見よう」
權「へえ只今……」
と云いながら、立って土間より五斗張《ごとばり》の臼を持ってまいり、庭の飛石の上にずしーりと両手で軽々と下《おろ》したは、恐ろしい力の男であります。
權「これが証拠でごぜえます」
と白菊の皿の入った箱を臼の中へ入れました。
長「何を致す/\」
權「なに造作《ぞうさ》ア有りません」
と何時《いつ》の間《ま》に持って来たか、杵《きね》の大きいのを出して振上げ、さくーりっと力に任せて箱諸共に打砕いたから、皿が微塵に砕けた時には、東山作左衞門は驚きました。其処《そこ》に居りました者は皆顔を見合せ、呆気《あっけ》に取られて物をも云わず、
一同「むむう……」
作左衞門は憤《おこ》ったの憤らないのでは有りません。突然《いきなり》刀掛に掛けて置いた大刀を提《ひっさ》げて顔の色を変え、
作「不埓至極の奴だ、汝《おのれ》気が違ったか、飛んだ奴だ、一枚毀してさえ指一本切るというに、二十枚箱諸共に打砕《うちくだ》くとは……よし、さ己が首を斬るから覚悟をしろ」
と詰寄せました。權六は少しも憶する気色《けしき》もなく、縁側へどっさり腰をかけ、襟を広げて首を差し伸べ、
權「さ斬って下せえ、だが一通り申上げねばなんねえ事があるから、是れだけ聞いて下せえ、逃げも隠れもしねえ、私《わし》ゃア米搗の權六でござえます、貴方《あんた》斬るのは造作もねえが、一言《いちごん》云って死にてえことがある」
と申しました。
七
さて權六という米搗《こめつき》が、東山家に数代伝わるところの重宝《じゅうほう》白菊の皿を箱ぐるみ搗摧《つきくだ》きながら、自若《じじゃく》として居りますから、作左衞門は太《ひど》く憤《おこ》りまして、顔の色は変り、唇をぶる/\顫《ふる》わし、疳癖《かんぺき》が高ぶって物も云われん様子で、
作「これ權六、どうも怪《け》しからん奴だて手前は何か気でも違ったか、狂気致したに相違ない、此皿《これ》は一枚|毀《こわ》してさえも指一本を切るという大切な品を、二拾枚|一時《いちじ》に砕くというのは実に怪しからん奴だ、さ何ういう心得か、御先祖の御遺言状《おかきもの》に対しても棄置かれん、只今此の処に於いて其の方の首を斬るから左様心得ろ、權六を取遁《とりにが》すな」
と烈《はげ》しき下知に致方《いたしかた》なく、家の下僕《おとこ》たちがばら/\/\と權六の傍へ来て見ますと、權六は少しも驚く気色もなく、縁側へどっさりと腰を掛けまして作左衞門の顔をしげ/\と見て居りましたが、
權「旦那さま、貴方《あんた》は実にお気の毒さまでごぜえます」
作「なに……いよ/\此奴《こやつ》は狂気致して居《お》る、手前気の毒ということを存じて居《お》るかい、此の皿を二十枚砕くと云うのは……予《かね》て御先祖よりの御遺言状《おかきもの》の事も少しは聞いているじゃアないか、仮令《たとえ》気違でも此の儘には棄置かんぞ」
權「はい、私《わし》ア気も違いません、素《もと》より貴方《あんた》さまに斬られて死ぬ覚悟で、承知して大事《でえじ》のお皿を悉皆《みんな》打毀《ぶちこわ》しました、もし旦那さま、私ア生国《もと》は忍《おし》の行田《ぎょうだ》の在で生れた者でありやすが、少《ちい》さい時分に両親《ふたおや》が亡《なく》なってしまい、知る人に連れられて此の美作国《みまさかのくに》へ参《めえ》って、何処《どこ》と云って身も定まりやしねえで居ましたが、縁有って五年|前《あと》当家《こゝ》へ奉公に参《めえ》りまして、長《なげ》え間お世話になり、高《たけ》え給金も戴きました、お側にいて見れば、誠にどうも旦那さまは衆人《ひと》にも目をかけ行届きも能く、どうも結構な旦那さまだが、此の二十枚の皿が此処《こゝ》の家《うち》の害《げえ》だ、いや腹アお立ちなさるな、私は逃匿《にげかく》れはしねえ、素《もと》より斬られる覚悟でした事だが、旦那さま、あんた此の皿はまア何で出来たものと思召《おぼしめ》します、私ア土塊《つちっころ》で出来たものと考《かんげ》えます、それを粗
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