の出るは余程せつないがの、其のせつない中《うち》にもお兄様をお案じ申上げて、予の病気は兎も角、どうか早くお兄上様の御病気御全快を蔭ながら祈り居《お》ると申せ」
五「はア、はア、そのお言葉を上《かみ》がお聞きでござったら、嘸《さぞ》お悦びでございましょう、御病苦を忘れ、只お上のことのみ思召《おぼしめ》さるゝというのは、あゝ誠にお使者に参じました五郎治|倶《とも》に辱《かたじけ》のう心得ます、只今の御一言早々帰りまして、上へ申上げるでございましょう、実に斯様な事を承わりますのは、誠に悦ばしい事で」
 紋之丞殿は急に気色《けしき》を変え、声を暴《あら》らげ、
紋「五郎治、申さんでも宜しい、お兄様《あにいさま》に左様な事を申さんでも宜しい、弟が兄を思うは当前《あたりまえ》の事じゃ、お兄様も亦《また》予を思うて下さるのは何も珍らしい事はない、改めて左様申すには及ばん、然《しか》るを事珍らしく左様の事を申伝えずとも、よも斯様の事は御存じで有ろう、左様に媚※[#「言+滔のつくり」、第4水準2−88−72]《こびへつら》った事を云うな」
五「はア……誠にどうも」
老女「左様なお高声《こうせい》を遊ばすと却《かえ》って御病気に障ります、左様な心得で五郎治が申した訳ではありません」
紋「一体斯様な事をいう手前などはな主人を常《つね》思わんからだ、主人を思わん奴が偶々《たま/\》胸に主人の為になる事を浮《うか》ぶと、あゝ忠義な者じゃと自《みずか》ら誇る、家来が主人を思うは当然《あたりまえ》の事だ、常思わんから偶《たま》に主人を思う事があると、私《わし》は忠義だなどと自慢を致す、不忠者の心と引較べて左様に申す、白痴者《たわけもの》め、早々帰れ」
 と以《もっ》ての外不首尾でございますから、
五「ホヽ」
 と五郎治[#「五郎治」は底本では「五郎次」]は手持不沙汰で、
五「今日《こんにち》は上《かみ》の御名代として罷出《まかりで》ましたが、性来《せいらい》愚昧《ぐまい》でございまして、申上げる事も遂《つい》にお気に障り、お腹立に相成ったるかは存じませんが、偏《ひとえ》に御容赦の程を願います」
紋「退《さが》れ」
五「はっ」
老「五郎治殿御病気とは申しながら誠に御癇癖《ごかんぺき》が強く、時々斯ういうお高声があります事で、悪《あ》しからず……あなた、左様なことを御意遊ばすな、それがお悪い、お高声を遊ばすとお動悸が出まして、却《かえ》って、お悪いとお医者が申しました」
紋「うむ、今日《きょう》はお兄上様からお心入《こゝろいれ》の物を下され、それを持参いたしたお使者で、平生《つね》の五郎治では無かった、誠に使者|太儀《たいぎ》」
 ごろりと直《すぐ》に横っ倒しになり、掻巻《かいまき》を鼻の辺《あたり》まで揺《ゆす》り上げてしまう。仕方が無いから五郎治はそろり/\と跡へ退《さが》る。一同気の毒に思い、一座白け渡りました。
千「神原氏、余程の御癇癖お気に支《さゝ》えられん様に、我々はお少《ちい》さい時分からお附き申していてさえ、時々お鉄扇《てっせん》で打たれる様な事がある、御病中は誠に心配で、腫物《はれもの》に障るような思いで、此の事は何卒《どうぞ》上《かみ》へ仰せられんように」
五「宜しゅうございます」
老「五郎治殿、誠に今日《きょう》は遠々《とお/″\》の処御苦労に存じます、只今の事は上《かみ》へ仰せ上げられんように、何もござりませんが一献《いっこん》差上げる支度になって居りますから、あの紅葉《もみじ》の間《ま》へ」
 と言われて五郎治は是を機会《しお》に其の座を退《しりぞ》きました。暫く経つと紋之丞様がばと起上って、
紋「惣衞/\」
惣衞「はア」
紋「惣衞、何は帰ったか五郎治は」
惣「えゝ慥《たし》かお次に扣《ひか》え居りましょう、上《かみ》のお使《つかい》でございますから、紅葉の方へ案内致しまして、一献出しますように膳の支度をいたして居ります」
紋「じゃが何《なん》じゃの、何故《なぜ》お兄様《あにいさま》は彼《あん》な奴を愛して側近く置くかの、彼《あれ》はいかん奴じゃ」
惣「左様な事を今日《こんにち》は御意遊ばしません方が宜しゅうございます」
紋「云っても宜しい、彼《あれ》は※[#「言+滔のつくり」、第4水準2−88−72]《へつら》い武士じゃ、佞言《ねいげん》甘くして蜜の如しで、神原|或《あるい》は寺島|等《ら》をお愛しなさるのは、勧める者が有るからじゃの、惣衞」
惣「御意にござります」
紋「心配じゃ」
惣「御病中何かと御心配なされては相成りません、程無《ほどの》うお国表から福原數馬も出仕致しますから」
紋「あゝ數馬が来たら何うか成るか、あゝ逆上《のぼ》せて来た、折角お兄様から下すった水飴、甜《な》めて見ようか」
惣「召上りませ、お湯を是へ」
 是から蓋が附いて高台に載せてお湯が出ました。側に在《あ》ります銀の匙《さじ》を執《と》って水飴を掬《すく》おうとしたが、旨くいきません。
紋「これは思うようにいかんの」
惣「極製《ごくせい》の水飴ゆえ金属《かなもの》ではお取り悪《にく》うございます、矢張《やっぱり》木を裂《さ》いた箸が宜しいそうで」
紋「然《そ》うかの、箸を持て」
 と箸を二本|纒《まと》めて漸々《よう/\》沢山捲き上げ、老女が頻《しき》りに世話をいたして、
老「さア/\お口を」
紋「うむ」
 と今箸を取りにかゝる処へ駈込んで来たのは川添富彌、物をも云わず紋之丞様が持っていた箸を引奪《ひったく》って、突然庭へ棄てた時には老女も驚き、殿様も肝《きも》を潰《つぶ》しました。

        四十四

紋「何じゃ/\」
富「ハッ富彌で」
紋[#「紋」は底本では「富」]「白痴《たわけ》……何をいたす」
富「ハア」
 と胸を撫下《なでおろ》し、
富「誠に幸いな処へ駈付けました、どうか水飴を召上る事はお止《とゞま》りを願います、決して召上る事は相成《あいなり》ません」
老「はアどうも私《わたくし》は恟《びっく》りしました、これは何という事です、御無礼至極ではござりませんか、殊《こと》に只今お上屋敷からお見舞として下されになった水飴、お咳が出るから召上ろうとする所を、奪《と》ってお庭へ棄てるとは何事です」
富「いえ、これは棄てます」
紋「富彌、此の水飴はお兄様《あにいさま》がな咳が出るからと云って養いに遣《つか》わされた水飴を、何故《なぜ》其の方は庭へ棄てた」
富「いえ仮令《たとい》お上屋敷から参りましても、天子《てんし》将軍から参りましても此の水飴は富彌|屹度《きっと》棄てます」
紋「何うか致したな此奴《こやつ》は……これ其の方は予が口へ入れようとした水飴を庭へ棄てた上からは、取りも直さず予とお兄様を庭へ投出したも同様であるぞ、品物は構わんが、折角お心入れの品を投げ棄てたからは主人を投げたも同じ事じゃ」
富「へえ重々恐入ります、其の段は誠に恐入りましたが、水飴を召上る事は決して相成りません」
紋「何故ならん」
富「何でも相成りません」
紋「余程|此奴《こやつ》は何うかいたして居《お》る、無礼至極の奴じゃ」
富「御無礼は承知して居ります、甚《はなは》だ相済みません事と存じながら、お毒でござるによって上げられません」
紋「何故毒になる、若《も》し毒になるなら、水飴を上げても咳の助けには相成らん、却《かえ》って悪いから止《よ》せと何故止めん」
富「左様な事を口でぐず/\申している内には召上ってしまいます、召上っては大変と存じまして、お庭へ投棄てました」
紋「余程変じゃ…」
富「先《まず》ま外村氏安心致しました」
外「安心じゃアない、粗忽《そこつ》千万な事じゃないか、手前は只驚いて何とも申上げ様がない、お上屋敷から下すったものを無闇にお庭へ投棄てるというは何ういう心得違いで」
紋「外村彼是云うな、此奴は君臣の道を弁《わきま》えんからの事じゃ、予を嘲弄《ちょうろう》致すな、年若の主人と侮《あなど》り何《ど》の様《よう》な事を致しても宜しいと存じておるか、幼年の時から予の側近く居《お》るによって、いまだに予を子供のように思って馬鹿に致すな」
富「いえ、中々もちまして」
紋「いや容赦《ようしゃ》は出来ん、棄置かれん、今日《こんにち》の挙動《ふるまい》は容易ならんことじゃ」
富「お棄置きに成らんければお手打になさいますか」
紋「尤《もっと》も左様」
富「私《わたくし》も素《もと》より覚悟の上、お手打になりましょう」
外「これ/\何だ、何を馬鹿を申す、少々|逆上《のぼせ》て居《お》る様子、只今御酒を戴きましたので、惣衞|彼《かれ》に成代《なりかわ》ってお詫をいたします、富彌儀|太《ひど》く逆上《ぎゃくじょう》をして居《お》る様子で」
富「いゝえ私《わたくし》はお手打に成ります」
紋「おゝ手打にしてやる是へ出え」
富「いゝえお止めなすっても私《わたくし》は出る」
 と大変騒々しくなって来た処へ、這入って来ましたのは秋月喜一郎という御重役で、お茶台の上へ水飴を載せてスーと這入って来ながら此の体《てい》を見て。
喜「何を遊ばすの、御病中お高声はお宜しく有りません、富彌如き者をお相手に遊ばしてお論じ遊ばすのはお宜しくない、富彌も控えよ」
富「へえ/\」
 と云ったが心の中《うち》で、此の秋月は忠義な者と思ったから。
富「何分宜しく、併《しか》し水飴はお止《とゞ》め申します」
紋「えゝ喜一郎、今日《きょう》は富彌の罪は免《ゆる》さんぞ、幼年の折から側近くいて世話致しくれたとは申しながら、余りと云えば予を嘲弄いたす、予を蔑《ないがしろ》にする富彌、免し難い、斬るぞ」
喜「これは又大した御立腹、全体何ういう事で」
紋「予が咳を治さんとて、上屋敷から遣わされたお心入れの別製の水飴を甜めようとする処へ、此奴が駈込んで参り突然《いきなり》予が持っていた箸を引奪《ひったく》って庭へ棄てた、これ取《とり》も直さず兄上を庭へ投げたも同じ事じゃから免さん、それへ直れ、怪《け》しからん奴じゃ」
喜「これは怪しからん、富彌、何ういう心得だ、上《かみ》から下された水飴というものは一通りならんと、梅の御殿様の思召《おぼしめ》すところは御情合《ごじょうあい》で、態々《わざ/\》仰附《おおせつ》けられた水飴を何で左様な事をいたした」
富「お毒でございますから、お口に入《はい》らん内にと口でお止《と》め申す間合《まあい》がございませんから、無沙汰にお庭へ棄てました」
喜「それは又何ういう訳で」
富「何ういう訳と申して、只今申上げる訳にはまいりませんが、至ってお毒で」
喜「ムヽウ、是は初めて聞く水飴は周の世の末に始めて製したるを取って柳下惠《りゅうかけい》がこれを見て好《よ》い物が出来た、歯のない老人や乳のない子供に甜めさせるには妙である、誠に結構なものが出来た、後の世の仕合《しあわせ》であると申したという、お咳などには大妙薬である、斯《かゝ》る結構な物を毒とは何ういう理由《わけ》だ尤《もっと》も其の時に盜跖《とうせき》という大盗賊が手下に話すに、是《こ》れは好《よ》いものが出来た、戸の枢《くろゝ》に塗る時は音がせずに開《ひら》く、盗みに忍び入《い》るには妙である至極|宜《よ》い物であると申したそうだ、同じ水飴でも見る人によっては然《そ》う違う、拙者もお見舞いに差上る積りで態々白山前の飴屋源兵衞方から持参いたした此の水飴」
富「これは怪《け》しからん秋月の御老人に限って其様《そん》なことは無いと存じていたが、是は怪しからん、あなたは何うかなすったな」
喜「其の方こそ何うかして居《い》る、お咳のお助けになり、お養いになる水飴を」
富「ス……はてな」
 と心の中《うち》で川添富彌が忠義無二の秋月と思いの外《ほか》、上屋敷の家老寺島|或《あるい》は神原五郎治と与《くみ》して、水飴を上《かみ》へ勧めるかと思いましたから、顔色を変えてジリヽと膝を前へ進め。
富「相成りません」
紋「白痴《たわけ》……喜一郎あのような事を申す、余程|訝《おか》しい変になった」
喜「余程変に相成りましたな」
富「御老臣が献ずる水飴
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