ば空気の異《かわ》った所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、彼《か》の春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はお浪《なみ》と云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、極《ごく》柔和なお方でございます。或日|良人《おっと》に対《むか》い、
浪「いつもの婆《ばゞあ》がまいりました、あの大きな籠《かご》を脊負《しょ》ってお芋だの大根だの、菜《な》や何かを売りに来る婆でございます」
秋「あ、田端辺《たばたへん》からまいる老婆か、久しく来んで居ったが、何《なん》ぞ買ってやったら宜かろう」
浪「貴方がお誂《あつら》えだと申して塵《ごみ》だらけの瓢《ふくべ》を持ってまいりましたが、彼《あれ》はお花活《はないけ》に遊ばしましても余り好《よ》い姿ではございません」
秋「然《そ》うか、それはどうも……私《わし》が去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……早速《さっそく》此処《こゝ》へ呼ぶが宜《よ》い、庭へ通した方が宜かろう」
浪「はい」
 と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、飛石《とびいし》を伝ってひょこ/\と婆《ばあ》さまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の単衣《ひとえ》に本献上の帯を締めて、下襦袢《したじゅばん》を着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、
秋「さア/\婆《ばゞあ》こゝへ来い/\」
婆「はい、誠に御無沙汰をしましてま今日《こんにち》はお庭へ通れとおっしゃって、此様《こん》なはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》っ子や忰に話して聞かせべいと思って参《めえ》りました、皆様お変りもごぜえませんで」
秋「婆《ばゞ》ア丈夫だの、幾歳《いくつ》になるの」
婆「はい、六十八になりますよ」
秋「六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな」
婆「はい、田端でごぜえます」
秋「名は何という」
婆「はい、お繩《なわ》と申します」
秋「妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの」
婆「はいあの私《わし》の村の鎮守様は八幡様《はちまんさま》でごぜえます、其の別当は真言宗で東覚寺《とうかくじ》と申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえまして私《わたくし》の両親《ふたおや》が子が無《ね》えって其の不動様へ心願《しんがん》を掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で母親《おふくろ》の腹ア緊縛《しっちば》って、せつないと思って眼え覚めた、申子《もうしご》でゞもありますかえ、それから母親がおっ妊《ぱら》んで、だん/″\腹が大《でか》くなって、当る十月《とつき》に私《わし》が生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩と命《つ》けたら宜《よ》かんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア此様《こん》な婆アじゃアごぜえません」
秋「アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう」
婆「はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになに私《わし》などは田地を沢山持って居ねえもんだから、他人《ひと》の田地を手伝をして、小畠《こばた》で取上《とりや》げたものを些《ちっ》とべえ売りに参《めえ》ります、白山の駒込の市場へ参《めえ》って、彼処《あすこ》で自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます」
秋「成程左様か、娘が有るかえ」
婆「いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸の宜《え》いもので、忰と二人で能く稼ぎます、私《わし》は宅《うち》にばかり居ちゃア小遣取《こづけえど》りが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます」
秋「そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう」
婆「有難う…おや/\まア是《こ》れだけおくんなさいますか、まア此様《こんな》に沢山《えら》結構なお菓子を」
秋「宜《い》いよ、また来たら遣ろう」
婆「はい、此の前《めえ》参《めえ》りました時、巨《でけ》え御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃア迚《とて》も見ることも出来ねえ、お屋敷様から戴《いたゞ》えた、有りがたい事だって村中の子供のある処へ些《ちっ》とずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます」
秋「どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう」
婆「はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしても除《と》ってやらねえばなりませんが、此間《こねえだ》儲《もう》けもんでござえまして、蝦夷虫《えどむし》一疋《いっぴき》取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の前栽物《せんざいもの》を脊負《しょ》い出すより其の方が楽だから、おまえさま捕《とッ》つかめえて、毒なア虫でごぜえますから、籠《かご》へ入れて蓋《ふた》をしては持って参《めえ》ります」
秋「ムヽウ、それは何ういう虫だえ」
婆「あの斑猫《はんみょう》てえ虫で」
秋「ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ」
婆「はい、豆の葉に集《たか》って居ります、在所じゃア蝦夷虫《えどむし》と云って忌《いや》がりますよ」
秋「何《なん》にいたすのだ」
婆「何だかお医者が随《つ》いて来まして膏薬《こうやく》に練《ね》ると、これが大《でけ》え薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました」
秋「ムヽウ、何《ど》の位|捕《つか》まった」
婆「左様でごぜえます、沢山《たくさん》でなければ利かねえって、何《なん》にするんだか沢山《たんと》入《い》るって、えら捕《つか》めえましたっけ」
秋「そりゃア妙だ、医者は何処《どこ》の者だ」
婆「何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫を捕《つか》まって置きさえすれば六百ずつ置いては持って往《い》きます、其の人は今日お前様白山へ参《めえ》りますと、白山様の門の坂の途中の処《とこ》にある、小金屋という飴屋にいたゞよ、私《わし》は懇意《ちかづき》だからお前様の家《うち》は此処《こゝ》かえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ」
秋「はて、それから何う致した」
婆「私《わし》も小声で、今日は虫が沢山《たくさん》は捕《と》れましねえと云うと、明日《あした》己が行くから今日は何も云うなって銭い袂《たもと》へ入れたから、幾許《いくら》だと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は内儀《かみ》さんや奉公人に内証《ないしょう》で毒虫を捕るのだと勘づきましたよ」
秋「ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か」
婆「はい」
秋「あれは御当家の出入《でいり》である……茶の好《よ》いのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな」
婆「はい、有難う存じます」
秋「婆ア些《ちっ》と頼みたい事があるが、明日《あした》手前の家《うち》へ私《わし》が行《ゆ》くがな、其の飴屋という者を内々《ない/\》で私に会わしてくれんか」
婆「はい、殿様は彼《あ》の飴屋の御亭主を御存じで」
秋「いや/\知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様の家《うち》へ往《い》くんだが、貴様の家は二間《ふたま》あるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ」
婆「店の処《とこ》は土間になって居りまして、折曲《おりまが》って内へ入るんでがすが、土間へは、薪《まき》を置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭も些《ちっ》とばかりあって、奥が六畳になって、縁側附で爐《ろ》も切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、直《すぐ》に折曲って台所になって居ります」
秋「そんなら六畳の方でも八畳の方でも宜《よ》いが、その処《ところ》に隠れていて、飴屋の亭主が来た時に私《わし》に知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝば辱《かたじ》けないが、隠れる処があるかえ」
婆「はい、狭《せも》うござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、上《うえ》の藤右衞門《とうえもん》の処《とこ》に屏風《びょうぶ》が有りますから、それを立廻《たてまわ》してあげましょう」
秋「それは至極宜かろう、何でも宜しい、私《わし》が弁当を持って行《ゆ》くから別に厄介にはならん」
婆「旨《うめ》えものは有りませんが、在郷《ざいご》のことですから焚立《たきたて》の御飯ぐらいは出来ます、畑物の茄子《なす》ぐらい煮て上げましょうよ」
秋「然《そ》うしてくれゝば千万|辱《かたじ》けないが、事に寄ると私《わし》一人《ひとり》で往《ゆ》くがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、何時《なんどき》ぐらいに飴屋の亭主は来るな」
婆「左様さ、大概お昼を喫《あが》ってから出て参りますが、彼《あれ》でも未刻過《やつすぎ》ぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ」
秋「そんなら私《わし》は正午前《ひるまえ》に弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん」
婆「ハア、それは何ういう理由《わけ》で」
秋「此の方《ほう》に少し訳があるんだ、注文をして置いた瓢覃《ひょうたん》を持って来たとな」
婆「誠に妙な形《なり》でお役に立つか知りませんが」
 と差出すを見て、
秋「斯ういう形《かたち》じゃア不都合じゃが」
婆「其の代り無代《たゞ》で宜うがんす、口を打欠《ぶっけ》えて種子《たね》え投込んで、担《のき》へ釣下げて置きましたから、銭も何も要《い》らねえもんでごぜえますが、思召《おぼしめし》が有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで」
秋「是はほんの心ばかりだが、百|疋《ぴき》遣る」
婆「いや何う致しまして、殿様|此様《こん》なに戴いては済みません」
秋「いや、取《とっ》とけ/\、お飯《まんま》を喫《た》べさせてやろう」
 と是からお飯《まんま》を喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日|野掛《のがけ》の姿《なり》になり、弁当を持たせ、家来を一人召連れて婆《ばゞア》の宅を尋ねてまいりました。彼《か》の田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。
秋「此処《こゝ》かの、……婆《ばゞア》は在宅《うち》か、此処かの、婆はいないか」
婆「ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ此処《こゝ》でござえますよ、ままどうも…今朝《けさ》っから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、待《まち》に待って居りました処でござえます、何卒《どうぞ》直《すぐ》にお上《あが》んなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました」
秋「其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように」
婆「心配ごぜえませんからお構えなく」
秋「左ようか……其の包を其の儘|此方《こっち》へ出してくれ」
婆「はい」
秋「これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの土産《みやげ》だ、是《こ》れは御新造《ごしんぞ》が婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る半纏《はんてん》にでもしたら宜かろう、綿は其方《そっち》にあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました」
婆「あれアまア……魂消《たまげ》ますなア、此様《こん》なに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい此処《こゝ》へ来《こ》う忰や」
忰「へえ御免なせえまし……毎度《めえど》ハヤ婆《ばゞ》が出まして御贔屓になりまして、帰《けえ》って来ましちゃア悦んで、何とハア有難《ありがた》え事で、己《おれ》ような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにお飯《まんま》ア戴いたり、直接《じか》にお言葉を掛けて下さるてえのは冥加《みょうが》至極だと云って、毎度《めいど》帰《けえ》りますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で」
秋「いや/\婆《ばゞア》に碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、
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