かの」
菊「はい」
とお菊は直《すぐ》に乱箱《みだればこ》の中に入って居ります黄八丈の袷小袖《あわせこそで》を出して着換させる、褥《しとね》が出る、烟草盆が出ます。松蔭大藏は自分の居間へ坐りました。
菊「御酒《ごしゅ》は召上っていらっしゃいましたろうが、御飯《ごはん》を召上りますか」
大「いや勧めの酒はの幾許《いくら》飲んでも甘《うま》くないので、宅へ帰ると矢張また飲みたくなる、一寸《ちょっと》一盃《いっぱい》燗《つ》けんか」
菊「はい、お湯も沸いて居りますし、支度もして置きました」
大「じゃア此処《これ》へ持って来てくれ」
菊「はい畏まりました」
と勝手を存じていますから、嗜《たしな》みの物を並べて膳立《ぜんだて》をいたし、大藏の前へ盃盤《はいばん》が出ました。お菊は側へまいりまして酌をいたす。大藏は盃《さかずき》を執《と》って飲んでお菊に差す。お菊は合《あい》に半分ぐらいずつ忌《いや》でも飲まなければなりません。
大「はあー……お菊先程林藏が先へ帰ったろう」
菊「はい、何だかも大層|飲酔《たべよ》ってまいりまして、大変な機嫌でございましたが、も漸《ようや》く欺《だま》して部屋へ遣《や》りましたが、彼《あれ》には余り酒を遣《つかわ》されますといけませんから、加減をしてお遣《つかわ》し下さいまし」
大「ウム左様か、何か肴の土産を持って参ったか」
菊「はい、種々《いろ/\》頂戴致しましたが、私《わたくし》は宜《よ》いからお前持って往《ゆ》くが宜い、折角下すったのだからと申して皆|彼《あれ》に遣《つかわ》しました」
大「あゝ然《そ》うか、あゝー好《よ》い心持だ、何処《どこ》で酒を飲むより宅へ帰って気儘に座を崩して、菊の酌で一盃飲むのが一番旨いのう」
菊「貴方また其様《そん》な御容子《ごようす》の好《よ》いことばかり御意遊ばします、私《わたくし》のような此様《こん》なはしたない者がお酌をしては、御酒《ごしゅ》もお旨くなかろうかと存じます」
大「いや/\どうも実に旨い、はアー……だがの、菊、酔って云うのではないが表向《おもてむき》、ま手前は小間使《こまづかい》の奉公に来た時から、器量と云い、物の云い様《よう》裾捌《すそさば》き、他々《ほか/\》の奉公人と違い、自然に備わる品《ひん》というものは別だ、実に物堅い屋敷にいながら、仮令《たとい》己が昇進して、身に余る大禄を頂戴するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前は否《いや》であったろう、否だろうけれども性来《せいらい》怜悧《りこう》の生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出来難《できにく》い、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否々《いや/\》ながら己の云うことを聞いてくれた処は、夫《そ》りア己も嬉しゅう思うて居《い》るぞよ」
菊「貴方また其様《そん》な事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……」
大「いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役替《やくがえ》でも致したら、内々《ない/\》は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、彼《あれ》も承知して居り、織江の方でも知って居ながら聊《いさゝ》かでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前は嘸《さぞ》厭《いや》だろうと思って可愛相だ」
菊「あなた、何《なん》ぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません」
大「だが手前は己に物を隠すの」
菊「なに私《わたくし》は何も隠した事はございません」
大「いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢竟《ひっきょう》主従《しゅうじゅう》という隔《へだ》てがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽卒《けいそつ》[#「軽卒」は「軽率」の誤記か]の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江の家《うち》に奉公をしている、其処《そこ》に云うに云われん処があろう」
菊「何を御意遊ばすんだか私《わたくし》には少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません」
大「そんなら己から頼みがある、併《しか》し笑ってくれるな、己が斯《か》くまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でお抱《かゝえ》になって間のない身の上で、内妾《ないしょう》を手許《てもと》へ置いては同役の聞《きこ》えもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れた切《せつ》なる情《じょう》を話すのだが、己は何も御新造《ごしんぞ》のある身の上でないから、行々《ゆく/\》は話をして表向手前を女房にしたいと思っている」
菊「どうも誠にお嬉しゅうございます」
大「なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起請《きしょう》を書いてくれ」
菊「貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物を私《わたくし》は書いた事はございませんから、何う書くものか存じません」
大「いやさ己の気休めと思って書いてくれ、否《いや》でもあろうが其《そ》れを持っておれば、菊は斯ういう心である、末々《すえ/″\》まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな」
菊「いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ」
大「ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの」
菊「だって私《わたくし》は何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……」
大「いや反古《ほご》になっても心嬉しいから書いてくれ、硯箱《すゞりばこ》をこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心が疑《うたぐ》られる、何か手前の心に隠している事が有ろう、然《そ》うでなければ早く書いてくれ」
菊「はい……」
とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立聞《たちぎゝ》をしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、羞《はず》かしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら/\書いてやりました。
大「まア待て、待て/\、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに[#「ぷっつけに」は「ぶっつけに」の誤記か]大藏殿と書け」
菊「貴方のお名を……」
大「ま書け/\、字配りは此処《こゝ》から書け」
と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いた後《のち》、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、
菊「あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか」
大「なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い」
押戴《おしいたゞ》いて巻納《まきおさ》めもう一盃《いっぱい》。と酒を飲みながら如何《いか》なることをか工《たく》むらん、続けて三盃《さんばい》ばかり飲みました。
大「あゝ酔った」
菊「大層お色に出ました」
大「殺して居た酒が一時《いちじ》に出ましたが、あの花壇の菊は余程咲いたかの」
菊「余程咲きました、咲乱れて居ります」
大「一寸《ちょっと》見たいもんだの」
菊「じゃアお雪洞《ぼんぼり》を点《つ》けましょう」
大「然《そ》うしてくれ」
菊「お路地のお草履《ぞうり》は此処《これ》にあります、飛石《とびいし》へお躓《つまず》き遊ばすと危《あぶの》うございますよ」
大「おゝ宜《よ》い/\/\」
と蹌《よろ》けながらぶらり/\行《ゆ》くのを、危いからお菊も後《あと》から雪洞を提げて外の方へ出ると花壇があります。此の裏手はずっと崖になって、下《くだ》ると谷中|新幡随院《しんばんずいいん》の墓場|此方《こちら》はお馬場口になって居りますから、人の往来《ゆきゝ》は有りません。
大「菊々」
菊「はい」
大「其処《そこ》へ雪洞を置けよ」
菊「はい置きます」
大「灯火《あかり》があっては間が悪いのう」
菊「何を御意あそばします」
大「これ菊、少し蹲《しゃが》んでくれ」
菊「はい」
左の手を出して……お母《ふくろ》が二歳《ふたつ》三歳《みッつ》の子供を愛するようにお菊の肩の処へ手をかけて、お菊の顔を視詰《みつ》めて居りますから、
菊「あなた、何を遊ばしますの、私《わたくし》は間が悪うございますもの……」
大藏は四辺《あたり》を見て油断を見透《みすか》し、片足|挙《あ》げてポーンと雪洞を蹴上《けあ》げましたから転がって、灯火《あかり》の消えるのを合図にお菊の胸倉を捉《と》って懐に匿《かく》し持ったる合口《あいくち》を抜く手も見せず、喉笛へプツリーと力に任せて突込《つきこ》む。
菊「キャー」
と叫びながら合口の柄《つか》を右の手で押え片手で大藏の左の手を押えに掛りまするのを、力に任せて捻倒《ねじたお》し、乗掛って、
大「ウヽー」
と抉《こじ》ったから、
菊「ウーン」
パタリとそれなり息は絶えてしまい、大藏は血《のり》だらけになりました手をお菊の衣類《きもの》で拭きながら、密《そっ》と庭伝いに来まして、三尺の締《しまり》のある所を開けて、密っと廻って林藏という若党のいる部屋へまいりました。
二十二
大「林藏や、林藏寝たか林藏……」
林「誰だえ」
大「己だ、一寸《ちょっと》開けてくれ」
林「誰だ」
大「己だ、開けてくれ、己だ」
林「いやー旦那さまア」
大「これ/\」
林「何うして此様《こん》な処へ」
大「静かに/\」
林「ど何ういう事で」
大「静かに……」
林「はい、只今開けます、灯火《あかり》が消えて居りますから、只今……先刻《さっき》から種々《いろ/\》考えて居て一寸《ちょっと》も眠《ね》られません、へえ開けます」
がら/\/\。
林「先刻の事が気になって眠《ねむ》られませんよ」
大「一緒に来い/\」
林「ひえ/\」
大「手前の手許《てもと》に小短い脇差で少し切れるのがあるか」
林「ひえ、ござえます」
大「それを差して来い、静かに/\」
と是れから林藏の手を引いて、足音のしないように花壇の許《もと》まで連れて来まして、
大「これ」
林「ひえ/\」
大「菊は此の通りにして仕舞った」
林「おゝ……これは……どうもお菊さん」
大「これさ、しッ/\……主人の言葉を背《そむ》く奴だから捨置き難い、どうか始終は林藏と添わしてやりたいから、段々話をしても肯入《きゝい》れんから、已《や》むを得ず斯《かく》の通り致した」
林「ひえゝ、したがまア、殺すと云うはえれえことになりました、可愛相な事をしましたな」
大「いや可愛相てえ事はない、手前は菊の肩を持って未練があるの」
林「未練《めれん》はありませんが」
大「なアに未練《みれん》がある」
と云いながら、やっと突然《いきなり》林藏の胸倉を捉《とら》えますから、
林「何をなさいます」
と云う所を、押倒しざま林藏が差して居ました小脇差を引抜いて咽笛《のどぶえ》へプツーリ突通《つきとお》す。
林「ウワー」
と悶掻《もが》く所を乗掛って、
大「ウヽーン」
と突貫《つきつらぬ》く、林藏は苦紛《くるしまぎ》れに柄元《つかもと》へ手を掛けたなり、
林「ウヽーン」
と息が止りました。是から大藏は伸上って庭外《そと》を見ましたが人も来ない様子ゆえ、
大「しめた」
と大藏は跡へ帰って硯箱を取出して手紙を認《したゝ》め、是から菊が書いた起請文を取出して、大藏とある大の字の中央《まんなか》へ(ー《ぼう》)を通して跳《は》ね、右方《こちら》へ木の字を加えて、大藏を林藏と改書《なお》して、血をべっとりと塗附けて之を懐中し、又々庭へ出て、お菊の懐中を探して見たが、別に掛守《かけまもり》もない、帯止《おびどめ》を解《ほど》いて見ますと中に守《まもり》が入って居《おり》ますから、其の中へ右の起請を納《い》れ、元の様《よう》に致して置き、夜《よ》
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