ござえます、斯《こ》んな忌《えや》な人の女房にはなりませんと云切《いいき》ったら何う致します」
大「然《そ》うは云わせん、深夜に及んで男女《なんにょ》差向いで居《お》れば、不義でないと云わせん強《た》って強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」
林「成程、これは恐入《おそれえ》りましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、命《えのち》が惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」
大「これ/\浮《うか》れて手を叩くな、下から下婢《おんな》が来る」
林「ヒエ有難い事で、成程やります」
大「宜《よ》いか、其の積りでいろ」
林「ヒエ、そろ/\帰りましょうか」
大「そんなに急《せか》なくっても宜《い》い」
林「ヒエ有難い事で」
と是からそこ/\に致して、余った下物《さかな》を折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此方《こちら》は宜《よ》い心持に折を吊《ぶら》さげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ/\しながら、
林「えゝい、人間《ねんげん》は何処《どこ》で何う運《おん》が来《こ》るか分らねえもんだな、畜生|彼方《あっち》へ往《え》け、己が折を下げてるもんだから跡を尾《つ》いて来《き》やアがる、もこ[#「もこ」に傍点]彼方へ往《い》け、もこ/\[#「もこ/\」に傍点]あはゝゝゝ尻尾《しりっぽ》を振って来やアがる」
下男「いや林藏《れんぞう》何処へ往《え》く、なに旦那と一緒《えっしょ》に、然《そ》うかえ、一盃《えっぺい》飲《や》ったなア」
林「然うよ」
下男「それははや、左様なら」
林「あはゝゝゝ何だか田舎漢《えなかっぺえ》のいう事は些《ちゃっ》とも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」
菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」
林「旦那さまは神原様のお小屋で御酒《ごしゅ》が始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、私《わし》だけ帰ってめえりました」
菊「大きに御苦労よ」
林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、菊《けく》も不断骨を折ってるから、菊《けく》と二人で茶の間で一盃《いっぱい》飲めよと云うて、此のお肴を下《こだ》せえました、どうか此処《こゝ》で旦那さまが毎《いつ》も召上る御酒を戴《えたゞ》きてえもんで」
菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」
林「えゝ、どうもそれは子刻《こゝのつ》になりますか丑刻《やつ》になりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」
菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へ持《も》て往って、お酒も適《よ》い程出して緩《ゆっ》くりおたべ」
林「ヒエ……それが然《そ》うでねえ訳なので」
菊「何をえ」
林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当然《あたりめえ》の話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理由《わけ》で」
菊「如何《いか》に旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれを真《ま》に受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でお飲《た》べよ」
林「然うでござえますか、お前《めえ》さん此処《こゝ》で飲まねえと折角《しっかく》の旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳利《とくり》も……」
菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」
林「こゝに※[#「魚+獵のつくり」、第4水準2−93−92]《からすみ》と雲丹《おに》があるだ」
菊「何だよ、其様《そん》なものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」
林「心配《しんぺい》しねえでも宜《え》え、大丈夫だよ、少し理由《わけ》があるだ、お菊《けく》さん、ま一盃《えっぺい》飲めなせえ、お前《まえ》今日は平日《いつも》より別段に美《おつこ》しいように思われるだね」
菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」
林「ま一盃《えっぺい》飲めなアよ」
菊「私は飲みたくはないよ」
林「じゃア酌《さく》だけして下せえ」
菊[#「菊」は底本では「林」]「お酌《しゃく》かえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一盃切《いっぱいぎ》りだよ、さ……」
林「へえ有難《ありがて》え是れは……ひえ頂戴|致《えた》しやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、お菊《けく》さん本当にお前さん、私が此処《こゝ》へ奉公に来た時から、真《ほん》に思って居るよ」
菊「其様《そん》なことを云わずに早く彼方《あっち》へお出《い》でよ」
林「然《そ》う邪魔にせなえでも宜《え》えが、是でちゃんと縁附《えんづく》は極《けま》っているからね、知らず/\して縁は異《え》な物味な物といって、ちゃんと極《きま》っているからね」
菊「何《なん》が縁だよ」
林「何でも宜《え》い、本当ね私《わし》が此方《こっちゃ》へ奉公に来た時始めてお前《めえ》さんのお姿を見て、あゝ美《おつこ》しい女中|衆《しゅ》だと思えました、斯ういう美《おつこ》しい人は何家《どけ》え嫁付《かたづ》いて往《ゆ》くか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、拠《よんどころ》ねえと諦らめてるようなものゝ、寐《ね》ても覚《さめ》てもお前《まえ》さんの事を忘れたことアないよ」
菊「冗談をお云いでない、忌《いや》らしい、彼方《あっち》へ往ってお寝よ」
林「往《い》きアしない、亥刻《よつ》までは往《え》かないよ」
菊「困るよ、其様《そん》なに何時《いつ》までもいちゃア、後生だからよ、明日《あした》又旨い物を上げるから」
林「何うしてお前さんの喰欠《こいか》けを半分|喰《こ》うて見てえと思ってゝも、喰欠《こいか》けを残した事がねえから、密《そっ》と台所《だいどこ》にお膳が洗わずにある時は、洗った振りをして甜《な》めて、拭いてしまって置くだよ」
菊「穢《きたな》いね、私ア嫌だよ」
林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先達《せんだっ》て前町《まえまち》の風呂屋《ほろば》が休みで、行水を浴《つか》った事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉皆《すっかり》戸で囲って覗《のぞ》く事が出来《でけ》ねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意地《えじ》の悪い穴よ、斜《はす》に上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬辺《ほゝぺた》を掻裂《かぎざ》きイした」
菊「オホヽヽ忌《いや》だよ」
林「其の時使った糠《のか》を貯《と》って置きたいと思って糠袋《のかぶくろ》をあけて、ちゃんと天日《てんぴ》にかけて、乾かして紙袋《かんぶくろ》に入れて貯っておいて、炊立《たきたて》の飯の上へかけて喰《く》うだ」
菊「忌だよ、穢い」
林「それから浴《つか》った湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹ア下《くだ》した」
菊「冗談を云うにも程がある、彼方《あちら》へお出でよ、忌らしい」
林「お菊《けく》さん、もう亥刻《よつ》[#「亥刻」は底本では「戌刻」]かな」
菊「もう直《じき》に亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]だよ」
林「亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]ならそろ/\始めねえばなんねえ」
とだん/\お菊の側へ摺寄《すりよ》りました。
二十一
其の時お菊は驚いて容《かたち》を正し、
菊「何をする」
と云いながら、側に在《あ》りました烟管《きせる》にて林藏の頭を打《ぶ》ちました。
林「あゝ痛《いて》え、何《なん》で打《ぶ》った、呆れて物が云われねえ」
菊「早くお前の部屋へおいで何《なん》ぼ私が年が往《い》かないと云って、余《あんま》り人を馬鹿にして、さ、出て行っておくれよ、本当に呆れてしまうよ」
林「出て往《ゆ》くも往《え》かねえも要《い》らねえ、否《えや》なら否《えや》で訳は分ってる、突然《えきなり》頭部《あたま》にやして、本当に呆れてしまう、何だって打《ぶ》ったよ」
菊「打《ぶ》たなくてさ、旦那様のお留守に冗談も程がある、よく考えて御覧、私は旦那さまに別段御贔屓になることも知っていながら、気違じみた真似をして、直《すぐ》に出て往っておくれ、お前のような薄穢《うすぎたな》い者の女房《にょうぼう》に誰がなるものか」
林「薄穢けりアそれで宜《え》えよ、本当に呆れて物が云われねえ、忌《いや》なら何も無理《もり》に女房になれとは云わねえ、私《わし》の身代が立派《れっぱ》になれば、お前さんよりもっと立派《れっぱ》な女房《にょうぼ》を貰うから、否《えや》なら否《えや》で分ってるのに、突然《いきなり》烟管で殴《にや》すてえことがあるか、頭へ傷《けず》が附いたぞ」
菊「打《ぶ》ったって当然《あたりまえ》だ、さっさと部屋へおいで、旦那さまがお帰りになったら申上げるから」
林「旦那様がお帰りになりア此方《こっち》で云うて暇《ひま》ア出させるぞ」
菊「おや、何で私が……」
林「何も屎《こそ》も要《え》らねえ、さっさと暇ア出させるように私《わし》が云うから、然《そ》う思って居るが宜《え》え」
と云い放って立上る袖を捕《とら》えて引止め、
菊「何ういう理由《わけ》で、まお待《まち》よ」
林「何だね袂《たもと》を押えて何うするだ」
菊「私が何でお暇《いとま》が出るんだえ、お暇が出るといえば其の理由《わけ》を聞きましょう」
林「エヽイ、聞《け》くも聞《け》かねえも要《え》らねえ、放さねえかよ、これ放さねえかてえにあれ着物《けもの》が裂けてしまうじゃアねえか、裂けるよ、放さねえか、放しやがれ」
と林藏はプップと腹を立って庭の方へ出る途端に、チョン/\チョン/\、
○「四ツでござアい」
と云う廻りの声を合図に、松蔭大藏は裏手の花壇の方から密《そっ》と抜足《ぬきあし》をいたし、此方《こちら》へまいるに出会いました。
大「林藏じゃアねえか」
林「おや旦那様」
大「林藏出て来ちゃアいかんなア」
林「いかんたって私《わし》には居《え》られませんよ、旦那様、頭へ疵《けず》が出来《でけ》ました、こんなに殴《にや》して何うにも斯うにも、其様《そん》な薄穢い田舎者《えなかもの》は否《えや》だよッて、突然《いきなり》烟管で殴しました」
大「ウフヽヽヽ菊が……菊が立腹して、ウフヽヽヽ打《う》ったか、それで手前腹を立てゝ出て来たのか」
林「ヒエ左様でござえます」
大「ウム至極|尤《もっと》もだ、少しの間己が呼ぶまで来るな、併《しか》し菊もまだ年がいかないから、死んでも否《いや》だと一度《ひとたび》断るは女子《おなご》の情《じょう》だ、ま部屋に往って寝ていろ」
林「部屋へ往《え》っても寝《に》られませんよ」
大「ま、兎も角|彼方《あちら》へ往《い》け/\、悪いようにはしないから」
林「ヒエ左様なら御機嫌宜しゅう」
と林藏が己《おのれ》の部屋へ往《ゆ》く後姿《うしろすがた》を見送って、
大「えゝーい」
と大藏は態《わざ》と酔った真似をして、雪駄をチャラ/\鳴らして、井筒の謡《うたい》を唄いながら玄関へかゝる。お菊は其の足音を存じていますから、直《すぐ》に駈出して両手を突き、
菊「お帰り遊ばせ」
大「あい、あゝーどうも誠に酔った」
菊「大層お帰りがお遅うございますから、また神原様でお引留《ひきとめ》で、御迷惑を遊ばしていらっしゃることゝ存じて、先程からお帰りをお待ち申して居りました」
大「いや、どうも無理に酒を強《しい》られ、神原も中々の酒家《のみか》で、飲まんというのを肯《き》かずに勧めるには実に困ったが、飯も喫《た》べずに帰って来たが、嘸《さぞ》待遠《まちどお》であったろう」
菊「さ、此方《こちら》へ入らしってお召換《めしかえ》を遊ばしまし[#「遊ばしまし」は底本では「遊ぱしまし」]」
大「あい、衣類《きもの》を着替よう
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