》心得のために承知をして置きとうござる」
梅「それは罪を犯したる者の次第にも因《よ》りましょうけれども、上《かみ》たる者は下《した》の者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」
大「それは然《そ》うあるべき事で、若《も》し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、永《なが》のお暇《いとま》を出された方がお宜しいか」
梅「其様《そん》な事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云って聊《いさゝ》か手当をいたして暇を遣《つか》わす、是が主従《しゅうじゅう》の情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」

        十七

 大藏は感心した風《ふう》をして聞き了《おわ》り、
大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御仁慈《ごじんじ》厚く、また御重役方も皆|真《しん》に智仁《ちじん》のお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷|内《ない》に罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一廉《ひとかど》ございます、此の廉を以てお執成《とりなし》を願います」
梅「むゝ、何ういう理由《わけ》で、人は誰だね」
大「えゝ疾《とう》より此の密書が拙者の手に入って居りますが、余人《よじん》に見せては相成らんと、貴方の御心中を看破《みやぶ》って申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」
梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」
 と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人が赧《あか》くなったので、そりアどうも牡丹《ぼたん》へ電灯を映《か》けたように、どうも美しい好《い》い男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、
大「是は私《わたくし》の功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者|前《ぜん》に津山に於《おい》て親父は二百四十石|領《と》りました、松蔭大之進の家に生れた侍の胤《たね》、唯今ではお目見得|已上《いじょう》と申しても、お通り掛けお目見えで、拙者|方《かた》では尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷出《まかりい》でお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」
梅「いや伯父に宜《よ》く然《そ》う云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹度《きっと》伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」
大「それは千万|辱《かたじ》けない、其のお言葉は決して反故《ほご》には相成りますまい」
梅「武士に二言はありません」
大「へえ辱けない」
 春部梅三郎は真っ赤に成って、彼《か》の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ行《ゆ》く後姿《うしろすがた》を見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。扨《さて》其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執成《とりな》しを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、素《もと》より推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片贔屓《かたびいき》になるようで却《かえ》って当人のためにならんからと云って、扣《ひか》え目にして居りますと、秋月の引立で御前体《ごぜんてい》へ執成《とりな》しを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御近習《ごきんじゅう》お小納戸《こなんど》兼勤を仰付けられました。御部屋住《おへやずみ》の前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様は前《ぜん》申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願い立《たて》でお貰い受けになりましたので、お上邸《かみやしき》と違ってお長家《ながや》も広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男が好《よく》って程が善《い》いから老女や中老までも誉《ほ》めそやし、
○「本当にえらいお人で、手も能《よ》く書く、力も強く、他《ひと》は否《いや》に諂《へつら》うなどと申すが、然《そ》うでない、真実愛敬のある人で、私《わたくし》が此の間会った時にこれ/\云って、彼は誠の侍でどうも忠義|一途《いちず》の人であります」
 と勤務が堅いから忽《たちま》ち評判が高くなりました。乃《そこ》で有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林藏《りんぞう》という男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手許使《てもとづかい》や勝手許《かってもと》を働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来|船上忠助《ふながみちゅうすけ》という者の妹お菊《きく》というて、もと駒込《こまごめ》片町《かたまち》に居り、当時|本郷《ほんごう》春木町《はるきちょう》にいる木具屋岩吉《きぐやいわきち》の娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口入《くちいれ》でありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行届《ゆきとゞ》き、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁相《そそう》などは知っても咎《とが》めませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気の好《よ》い処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへお出《い》でが出来ますが、其の頃では然《そ》うはまいりません。然《しか》るに奥様は松平和泉守《まつだいらいずみのかみ》さまからお輿入《こしい》れになりましたが、四五年|前《ぜん》にお逝去《かくれ》になり、其の前《まえ》から居りましたのはお秋《あき》という側室《めかけ》で、これは駒込|白山《はくさん》に住む山路宗庵《やまじそうあん》と申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側室《めかけ》は奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今は然《そ》ういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、私《わたくし》は箱根へ湯治に往《ゆ》きますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様が挙《もう》けました若様が、お三歳《みっつ》という時に奥様がお逝去《かく》れになりましたから、お秋様はお上通《かみどお》りと成り、お秋の方という。側室《めかけ》が出世をいたしますと、お上通りと成り、方名《かたな》が附きます。よく殿方が腹は借物《かりもの》だ良い胤《たね》を下《おろ》す、只胤を謔驍スめだと軍鶏《しゃも》じゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造化機論《ぞうかきろん》を拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来の内《うち》二派《ふたは》に分れ、若様の方を贔屓《ひいき》いたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳癖《かんぺき》が起るとつか/\/\と物を仰しゃいます。お秋の方も時としては甚《ひど》く何か云われる事があり、御家来衆も苛《ひど》く云われるところから、
甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖では迚《とて》も治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝去《かくれ》になったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」
 とこそ/\若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆毒《ちんどく》とか、或《あるい》は舶来の※[#「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1−89−15]石《よせき》ぐらいのところが、毒の劇《はげ》しいところです。彼《か》の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断は良《よい》し、彼を抱込めば宜《よ》いと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、
大「十分事を仕遂《しおお》せました時には、どうか拙者にこれ/\の望《のぞみ》がございますが、お叶《かな》え下さいますか」
寺「委細承知致した、然《しか》らば血判を」
大「宜しい」
 と是から血を出し、我《わが》姓名の下へ捺《お》すとは痛《ひど》い事をしたもので、ちょいと切って、えゝと捺《や》るので、忌《いや》な事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃は動《やゝ》ともすれば血判だの、迚《とて》も立行《たちゆき》が出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭|等《ら》の反逆も悉皆《すっぱり》下組《したぐみ》の相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀策《たくみ》を仕遂《しおお》せるのに一番むずかしいものは、浮舟《うきふね》という老女で年は五十四で、男優《おとこまさ》りの尋常《ひとゝおり》ならんものが属《つ》いて居ります。此者《これ》を手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ/\と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えば直《すぐ》に殺されるか、刺違えて死兼《しにかね》ぬ忠義|無類《むるい》の極《ごく》頑固《かたくな》な老爺《おやじ》でございますから、これを亡《な》いものにせんけりアなりません。

        十八

 老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説附《ときつ》けられました。此の説附けました事は猥褻《わいせつ》に渉《わた》りますから、唯説附けたと致して置《おき》ましょう。扨《さ》て此の一味の者がいよ/\毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処《どこ》となく湿気ますので、季候が不順のところから、流行感冐《はやりかぜ》インフルエンザと申すような悪い病が流行《はや》って、人が大層死にましたところが、お扣《ひかえ》の前次様も矢張流行感冐に罹《かゝ》られました処、段々重くなるので、お医者方が種々《いろ/\》心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので[#「おいでなので」の誤記か]いけません、風邪を押損《おしそこ》なったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たように後《あと》へも前《さき》へも往《ゆ》けません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古方家《こほうか》の上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如何《いかゞ》と申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それは怪《け》しからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者か然《さ》も無くば匙《さじ》でも願うが宜いと申して承知致しませんから、如何《いかゞ》致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小金屋源兵衞《こがねやげんべえ》という飴屋があります、若様のお少《ちい》さい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん/\お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神原五郎治《かんばらごろうじ》と神原四郎治《かんばらしろうじ》兄弟の者と大藏と三人打寄り、額《ひたえ》を集め鼎足《みつがなわ》で談《はなし》を致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開広《あけひ
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