かえ》って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷《まか》り出て重々恐入りますが、何卒《なにとぞ》御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻《さっき》此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此《かく》の如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴《こいつ》かえ/\」
乙「此者《これ》じゃアなえよ、其奴《そいつ》は前《さき》に昇《あが》っていた奴だ、もっと年を老《と》ってる奴だア、此奴は彼《あ》の娘へ※[#「言+滔のつくり」、第4水準2−88−72]諛《おべっか》に入って来たんだ、其様《そん》な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎《たにやまとうじゅうろう》と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯《かく》の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
 と半分残っていた吸物椀を打掛《ぶっか》けましたから、すっと味噌汁が流れました。流石《さすが》温和の仁も忽《たちま》ち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐《こら》え、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方《こっち》へ申し受けよう、然《そ》うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗《いぬ》を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家《こゝ》でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合《はたしあ》いに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物《くいもの》の中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身で迚《とて》もお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最《も》う了簡|罷《まか》りならん、篦棒《べらぼう》め」
 と侍の面部へ唾を吐掛《はきか》けました。

        十三

 斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭《はんてぬぐい》を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直《じき》気が附きまして、
○「安《やす》さん出掛けよう、斯《こ》んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼《あ》の位妹が出て謝って、御主人が塩梅《あんばい》の悪いのに出て来て詫びているのに、酷《ひど》い事をするじゃアないか、汁を打掛《ぶっか》けたばかりで誰でも大概|怒《おこ》っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中《うち》に出掛けよう、他に逃げ処がないから往《い》こう/\」
△「折《おり》を然《そ》う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆《さわら》の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口《ちょこ》を二つばかり瞞《ごま》かして往《ゆ》こう」
 と皆|逃支度《にげじたく》をいたします。此方《こちら》の浪人は屹度《きっと》身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁|相成《あいなら》んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
 とずいと提《ひっさ》げ刀《がたな》で立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
 と自分が斬られる訳ではないが、遽《あわ》てゝ逃出すから、煙草盆を蹴散《けちら》かす、土瓶を踏毀《ふみこわ》すものがあり、料理代を払って往《ゆ》く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本|担《かつ》ぎ出す奴があります。彼《か》の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「然《しか》らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧《ごろう》じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合《はたしあ》いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
 と何うしても肯《き》きません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳《にぎりこぶし》を振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
 と逆に捻倒《ねじたお》した手練《てなみ》を見ると、余《あと》の二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜《くや》しいから又起上って組附いて来る処を、拳《こぶし》を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身《あてみ》をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
 と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方《そっち》へ二人逃げた、威張った野郎の癖に容《ざま》ア見やアがれ、殴れ/\」
 と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履《ぞうり》草鞋《わらじ》を投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難《ありがて》えことで、初《はじま》りは心配して居りました、若《も》し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死《ち》ぬまで威張りアがって野郎」
 二つ三つ打つを押止《おしと》め、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴《こやつ》を殺しても仕様がないから、御家来|憚《はゞか》りだが彼方《あっち》で手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はい畏《かしこ》まりました」
 彼《か》の侍は其処《そこ》に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋《きょうろく》へ一活《いっかつ》入れる。
甲「あっ……」
 と息を吹反《ふきかえ》す処へ水を打掛《ぶっか》ける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様《そん》な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、酔《よい》に乗じ甚《はなは》だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫《わび》を致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己《おら》ような年い老《と》った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉《つか》まると魂消《たまげ》てやアがる、我身を捻《つね》って他人《ひと》の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然《そ》う思え」
 と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
 と這々《ほう/\》の体《てい》で逃げて行《ゆ》くと、弥次馬に追掛《おっか》けられて又打たれる、意気地《いくじ》のない事。
織「どうか一寸《ちょっと》旧《もと》の席へ、まア/\何卒《どうぞ》…」
浪「いえ、些《ちっ》と取急ぎますから」
織「でもござろうが」
 と無理に旧《もと》の茶屋へ連戻り、上座《じょうざ》へ直し、慇懃《いんぎん》に両手を突き、
織「斯《か》ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守《くめのみまさか》家来渡邊織江と申す者、今日《こんにち》仏参《ぶっさん》の帰途《かえりみち》、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力《ごじょりき》を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併《しか》しどうも起倒流《きとうりゅう》のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由《よし》あるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前《てまい》は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下《お》りまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋《ぼうおく》に佗住居《わびずまい》を致して居ります、此の後《ご》とも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計《たつき》致し方なく売卜《ばいぼく》を致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者《うらないしゃ》か、どうもえらいもんだね、売卜者《ばいぼくしゃ》だから負けるか負けねえかを占《み》て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「何《いず》れ御尊宅へお礼に出ます」
 と宿所《しゅくしょ》姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込《いりこ》み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企《たく》んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜《よ》い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼《か》の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁《なか》へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往《ゆ》かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴《つ》れ、結構な進物を携《たずさ》えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜《ばいぼく》の看板が出て居りますから、
織「あ此家《これ》だ、喜六|一寸《ちょっと》其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方《こなた》かと云って伺ってみろ」
喜「はい畏《かしこま》りました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助《ゆうすけ》何方《どなた》か取次があるぜ」
有「はい畏りました」
 つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠《こいなせ》な男でございます。子持縞《こもちじま》の布子《ぬのこ》を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋《ぶすい》の打扮《こしらえ》のようだが、もと江戸子《えどっこ》だから何処《どっ》か気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方《こちら》さまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用《とうよう》か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上《あが》んなせえまし」
喜「いや、然《そ》うじゃアござえません、旦那さまア此方《こちら》さまですと」
織「あい、御免くだされ」
 と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容《かたち》を正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷《まか》り出《い》ずべきでござったが、主用《しゅよう》繁多に就《つ》き存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍《ようや》く今日《こんにち》番退《ばんび》きの帰りに罷出《まかりで》ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「何《な》んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様か直《すぐ》に茶の良いのを入れて莨盆《たばこぼん》、に火を埋《い》けて、宜《よ》いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日《こんにち》は宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭《てぜま》で何とも恥入りましたことで、さ何卒《なにとぞ》お通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸《ちょっと》お台を……何でも宜しい、いえ/\其様《そん》な大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処《これ》へ」
 と風呂敷を開《ひら》きまして、中から取出したは白羽二重《しろはぶたえ》一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。

        十四

 尚も織江は慇懃《いんぎん》に、
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