《すぐ》に何《ど》う斯《こ》うという訳にも往《ゆ》かず、捨《すて》て置いて失策《しくじり》でも出来るといけねえから、一と先《ま》ず谷中《やなか》の兄《あに》さんの方へ連れて行って、時節を待ったら宜かろう、其の中《うち》にはまた出入をさせる事もあるじゃアねえか、と斯う仰しゃるのだ、うむ、それから、なんだ斯ういう事も云った、何分|宅《うち》の奉公人や何かの口がうるせえから、一時《いちじ》そういう事にするんだが、仮令《たとえ》他人《ひと》が何《なん》といおうと、私の為にはたった一人の娘だから、同じ取るなら娘の気に入った聟を取って、初孫《ういまご》の顔を見たいと云うのが親の情合《じょうあい》じゃアねえか、娘が強《た》って彼《あれ》でなければならないといえば、私には気に入らんでも、娘の好いた聟を取って其の若夫婦に私は死水《しにみず》を取って貰う気だが、鳶頭何うだろう、と仰しゃるのだ、お内儀さんの思召《おぼしめし》では、一時お前《めえ》さんに暇を出して、世間でぐず/\いわねえようにしちまって、それから良い里を拵えて、ずうっと表向きお前《まえ》さんを聟にして、死水を取って貰おうてえお心持があるんだから、粂どん早まっちゃアいけねえよ、宜うがすか、お内儀さんには、色々|深《ふけ》え思召があるんだから、私《わっし》も大旦那のお若《わけ》え時分、まだ糸鬢奴《いとびんやっこ》の時分から、甲州屋のお店へ出入りをしてえて、お前《めえ》さんとも古い馴染だが、今度来やアがった番頭ね、彼奴《あいつ》が悪い奴なんだ、いろ/\胡麻を摺《す》りやアがって仕様がねえからお内儀さんも心配をしていらっしゃるんだが、ねえ粂どん」
 粂「ヘエ、承知いたしました」
 鳶「でね、何《なん》にもいわず、少し兄の方に用事が出来ましたからお暇《いとま》を願います、長々|御厄介《ごやっけえ》になりました、と斯《こ》ういって廉《かど》をいわずにお暇《ひま》を取っちまう方が好《い》い、いろ/\くど/\しく詫《わび》なんぞを仕ちゃア可《い》けねえよ」
 粂「ヘエ、畏《かしこま》りました、何うも誠に面目次第もござりませぬ」
 とおろ/\泣きながら、粂之助が帰りまして、
 粂「ヘエ、只今」
 内儀「あい粂か、此方《こっち》へお這入り、好いよ遠慮をしないでも………先刻《さっき》、鳶頭が来たから四方山《よもやま》の話をして置いたが、何うだい能《よ》くお前の胸に落ち入ったかい、何も是《こ》れという越度《おちど》の無いお前に暇を出すといったら、如何《いか》にも酷《ひど》い主人のようにお思いかも知らないが、これはお前の為だよ、お前も小さい時分にいたから、何だか私も子のような心持がして誠に可愛《かわゆ》く思うが、何分世間の口が面倒だから暇を出すのだけれども、又縁があれば一旦|主従《しゅうじゅう》となったのだもの、出入の出来ないことは無いから、まあ/\気を長く、兄《あに》さんの処におとなしくしているが好い、軽はずみな心を出して、こんな淋しいお寺なんぞにいられるものかって、ふいと何処《どこ》かへ姿を隠すような事でもあられると、どんなに案じられるか知れないから、ようく心を落着けて時節を待ってゝ呉れなくちゃア私が困るよ」
 粂「ヘエ、有難うございます、誠に何うも面目次第もございませぬ」
 内儀「さ、早く行くが好い、何時までも此処《こゝ》にいると面倒だから、谷中のお寺へ行ったら能く兄さんのいう事を聴いて、身体を大事にして時節の来るのを待っていなよ」
 粂「ヘエ有難う存じます」
 と袂《たもと》から手拭《てぬぐい》を取出し、涙を拭いながら店へ出て来ると、番頭は粂之助が暇《いとま》になって好い気味だと喜んで居る。
 粂「えゝ、番頭さん、私は唯今お暇《いとま》になりまして谷中の兄の方へ参りますから、何分お店の事をよろしく願います」
 番頭「左様じゃげな、根《ねっ》から些《ちっ》とも知らんかったが、何う云う理由《わけ》で粂之助がお暇になりますかと云うて、私《わし》も色々言葉を尽してお詫をしたが、なか/\お聴き容《い》れがない、お前方が知った事《こっ》ちゃない、此様《こない》に云われるで何うにも仕ようがないじゃて、併《しか》し何うも気の毒な事《こっ》ちゃな、根《ねっ》から、全体|商人《あきんど》はお前の性分に合わぬのじゃから、却《かえっ》て谷中のお寺へ行《ゆ》きなはった方が心が沈着《おちつ》いて宜《い》いやろう」
 粂「ヘエ有難う、何うも長々お世話さまでございました、お店の方も段々忙しくなりますから、人が殖《ふ》えなければならぬ処を少なくなるんですから、何分|宜《よろ》しくお頼み申します、あの定吉《さだきち》どんは何処《どっ》かへ行《ゆ》きましたか」
 番頭「いや今|其処《そこ》に居ったッけ、定吉イ定吉」
 定「おや粂どん、今お
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