たことでござります。
彼《か》の浅草三筋町の甲州屋の娘お梅が、粂之助の後《あと》を慕って家出をいたす。何程《なんぼ》年が行かぬとは申しながら、実に無分別極まった訳でござります。左様な事とは毫《すこ》しも知らぬ粂之助が、丁度お梅が家出をした其の翌朝《よくあさ》のこと、兄の玄道《げんどう》が谷中の青雲寺まで法要があって出かけた留守、竹箒を持って頻《しき》りに庭を掃いていると、表からずっと這入って来た男は年頃三十二三ぐらいで、色の浅黒い鼻筋の通ったちょっと青髯《あおひげ》の生えた、口許《くちもと》の締った、利口そうな顔附をして居ますけれども、形姿《なり》を見ると極《ごく》不粋《ぶすい》な拵《こしら》えで、艾草縞《もぐさじま》の単衣《ひとえ》に紺の一本独鈷《いっぽんどっこ》の帯を締め、にこ/\笑いながら、
男「え、御免なさいまし」
粂「はい、お出でなさい」
男「えゝ、長安寺というのは此方《こちら》ですか」
粂「ヘエ、左様でございます」
男「あの此方に粂之助さんというお方がおいででござりますか」
粂「ヘエ、粂之助は私《わたくし》でございますが…」
男「ア左様でげすか、是は何うも…左様ならちょいと表まで顔を貸してお貰い申したいもので」
粂「ヘエ………あの生憎《あいにく》兄が居ませぬで、何うも家《うち》を空《から》にして出る訳には参りませぬから、若《も》し何《なん》ぞ御用がおあんなさるなら庫裏《くり》の方へお上《あが》んなすって」
男「左様でげすか、じゃア御免なせえまし」
粂「さ、何卒《どうぞ》此方《こちら》へ」
男「へい」
紺足袋の塵埃《ほこり》を払って上へ昇《あが》る。粂之助は渋茶と共に有合《ありあい》の乾菓子《ひがし》か何かをそれへ出す。
男「いえ、もうお構いなせえますな、へい有難う、え、貴方《あなた》にはお初にお目にかゝりますが、私《わっち》は千駄木《せんだぎ》の植木屋|九兵衞《くへえ》という者でございまして」
粂「へえへえ」
九「実ア其の、昨夜《ゆうべ》、お嬢|様《さん》が突然《だしぬけ》に私《わっち》ん処へおいでなすったんで」
粂「え、嬢さんと仰しゃるのは……………」
九「へえ鳥越桟町《とりこえさんまち》の甲州屋のお嬢さんで」
粂「へえー、何ういう理由《わけ》で貴方の処へお嬢|様《さん》が……」
九「いや、これは解りますめえ、斯《こ》ういう理由なんでげす、あのお嬢さんが二歳《ふたつ》の時に、私《わっし》の母親《おふくろ》がお乳を上げたんで、まア外《ほか》に誰も相談相手が無いからって、訪ねておいでなすったから、母親もびっくりして、まアお嬢さん、今時分何ういう理由《わけ》で入らしったてえと、犬に吠えられたり何かして、命からがら漸《ようよ》うの事でお前の処《とこ》へ来た理由は、誠に乳母《ばあ》や面目ないが、長らく宅《うち》に勤めて居た手代の粂之助というものと、人知れず懇《ねんごろ》を通じて夫婦約束をした、処がお母《っか》さんが世間の口がうるさいから一時《いちじ》斯《こ》うはするものゝ、後《のち》には必ず添わせてやると仰しゃって、粂之助に暇《いとま》を出して了《しま》った後《あと》で、外《ほか》から聟を取れと仰しゃる、それじゃアどうも粂之助に義理が済まないから、私は斯うやって駈出したんだと仰しゃるんです、そうすると私《わっし》の母親は胆《きも》をつぶしてね、素《す》ッ堅気《かたぎ》だから、なか/\合点《がってん》しねえ、それはお嬢|様《さん》飛んでもない事で、お店の奉公人や何かと私通《いたずら》をするようなお嬢様なら、私の処へは置きませぬ、只《た》った今出てお出《いで》なせえというから、私《わっし》が仲裁をして、まアお母《っか》ア待ちねえ、そうお前《めえ》のように頑固《かたくな》なことばかりいっちゃアしょうがねえ、折角頼りに思っておいでなすったお前まで、そんな邪険な事を云ったら娘心の一筋に思い詰め、此家《こゝ》から又駈出して途中|散途《さんと》で、何様《どん》な軽はずみな心を出して、間違《まちげ》えがねえとも限らねえ、まア/\己のいう通りにして居ねえといって、それからお嬢様を此方《こっち》へ呼んでお母《ふくろ》はあんな事を云いますが、お前《まえ》さんは何処《どこ》までも粂之助|様《さん》と添いたいという了簡があるなれば、私《わっし》がまア何うにでもしてお世話を致しましょう、貴方はお宅《うち》を勘当されても、粂之助様と添遂げるという程の御決心がありますかてえと、屹度《きっと》遂げます、一旦粂之助も私と夫婦約束をしたのですもの、確《たしか》に私を見捨てないという事もいいましたし、又そんな不実な人ではありませぬ、じゃア宜《よ》うがすが、何処か行《ゆ》く所がありますかと云うと、何処も目的《あて》がねえ、こ
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