染の人に別れるのは辛《つれ》えもんだね、何《ど》うかまア成るたけ煩らわねえように気い付けて、好《よ》いかね」
粂「有難う」
娘のお梅に逢いたいは山々だが、お内儀さんのお言葉添えもあるから、その儘|暇《いとま》を取って、これから谷中の長安寺へ参り、いまに好《い》い便りがあるだろうと待って居りました。此方《こちら》はお梅、あれきり何の便りもないが、もしや粂之助の了簡が変りはしないかと、娘心にいろ/\と思い計り、耐《こら》え兼ねたものか、ある夜《よ》二歩金《にぶきん》で五十両ほどを窃《ぬす》み出して懐中いたし、お高祖頭巾《こそずきん》を被《かむ》り、庭下駄を履いたなりで家を抜け出し、上野の三橋《さんはし》の側まで来ると、夜明《よあか》しの茶飯屋が出ていたから、お梅はそれへ来て、
梅「御免なさいまし」
爺「ヘエおいでなさいまし、此方《こちら》へお掛けなさいまして」
梅「はい、あの谷中の方へは何う参ったら宜《よろ》しゅうございましょう」
爺「えゝ谷中は何方《どちら》までお出でなさるんですい」
梅「あの長安寺と申す寺でございますがね」
爺「えゝ仰願寺[#「仰願寺」に欄外に校注、「小さき一種のろうそく江戸山谷の仰願寺にて用いはじめしより云う」]《こうがんじ》をくれろと仰しゃるんですか、えへゝ仰願寺なら蝋燭屋《ろうそくや》へお出《いで》なさらないじゃアございませぬよ」
梅「いえあのお寺でございますがね」
爺「何《なん》ですいお螻《けら》の虫ですと」
梅「いゝえ長安寺というお寺へ参るのでございますが」
すると小暗い所にいた一人の男が口を出して、
男「えゝ、もし/\お嬢さん、その長安寺というのは私《わっち》が能く知ってますよ」
と云いながらずっと出た男の姿《なり》を見ると、紋羽《もんぱ》の綿頭巾を被《かむ》り、裾短《すそみじか》な筒袖《つゝそで》を着《ちゃく》し、白木《しろき》の二重廻《ふたえまわ》りの三尺《さんじゃく》を締め、盲縞《めくらじま》の股引腹掛と云う風体《ふうてい》。
男「まア御免なさい、私《わっち》アこんな形姿《なり》をしてえますが、その長安寺の門番でげす」
梅「おや/\、それじゃア貴方《あなた》にお聞きをしたら分りましょうが、あの粂之助はやっぱり和尚様のお側に居りますか」
男「えゝ、粂之助さんは、おいででござえます、あなたは何《なん》ぞ御用でもあるんでげすか」
梅「はい、あの、粂之助は私《わたくし》どもに長らく勤めて居ったものですが、少し理由《わけ》がありまして先達《せんだって》暇《いとま》を出しましたが、それきり何の沙汰もございませんで、余《あんま》り案じられますから出て参りましたのでございます」
男「ヘエー左様でございますか、じゃアまア私《わっし》と一緒においでなさい、どうせ彼方《あっち》へ帰るんですからお連れ申しましょう、其の代りお嬢様に少しお願《ねげ》えがあるんでげす、毎度私は和尚様から殺生をしてはならねえぞとやかましく云われるんでげすが、嗜《すき》な道は止《や》められず、毎晩|斯《こ》うやって、どんどん[#「どんどん」に欄外に校注、「三橋の側にあった不忍池の水の落口」]へ来ては鰻の穴釣《あなづり》をやってるんでげすが、どうぞお嬢さま私が此処《こゝ》で釣をした事は和尚様に黙ってゝおくんなさい」
梅「御不都合の事なら決して申しは致しませぬ」
男「おい老爺《じい》さん」
爺「へい」
男「あのね、此のお嬢様は己の方へ来るお方だから、己が御案内をして行《ゆ》くんだ、さ、喰った代《でえ》を此処《こゝ》へ置くぜ」
爺「あなた、これは一分銀で、お釣はござりませぬが」
男「なに釣は要らねえ、お前《めえ》にやっちまわア」
爺「それは何うも有難う存じます、左様なら夜《よ》が更けて居りますから、お気を附けあそばして」
男「なに大丈夫《でえじょうぶ》だ、己が附いてるから」
と怪しの男がお梅を連れて、不忍弁天《しのばずべんてん》の池の辺《ほとり》までかゝって参りました。
二
えゝ引続《ひきつゞき》のお梅粂之助のお話。何ういう理由《わけ》か女子《おんな》の名を先に云って男子《おとこ》の名を後《あと》で呼ぶ。お花半七とか、お染久松とか、夕霧伊左衞門とかいうような訳で、実に可笑《おか》しいものでござります。さて日本も嘉永《かえい》の五年あたりは、まだ世の中が開《ひら》けませぬから、神信心《かみしんじん》に凝《こ》るとか、易占《うらない》に見て貰うとかいうような人が多かったものでござります。丁度嘉永の六年に亜米利加船《あめりかぶね》が日本へ渡来をいたしてから、諸藩共に鎖国攘夷などという事を称え出し、そろ/\ごたつきはじめましたが、町家《ちょうか》では些《ちっ》とも気が附かずに居っ
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