で、たうとう十二時近くなつてしまつた。
「私のはキザなんですけど……」斯う云つて、彼は肩書附きの名刺を自分に渡した。その裏に――音もなく秋雨けぶる湯の宿に、くみかはしけり別れの酒を――彼は斯う書いて呉れた。
辭退するのを、自分もまたゲートルを卷きレーンコートを着て、途中まで送つて行くことにした。
「僕に構はないで、あなたはドン/\先きを急いで下さい。あなたの姿の見える間、僕はついて行くんですから。あなたの姿が見えなくなつたところで、僕は引返すことにしますから、あなたは僕に構はないでドン/\急いで下さい。時間を遲らしてしまつたのですから……」湖畔の道を足弱の自分と並んで行く彼を、自分は斯う云つて促し立てた。
一町遲れ二町遲れして――が道がグルリと曲がると、三四町先きをステツキを振りながら大股に歩いて行く彼の後姿を見出して、自分はその度に「オーイ! オーイ!」と怒鳴つた。が彼の歩調はだん/\と早まつた。自分は一里十町――戰場ヶ原の中程の三軒家の茶店までは追付いて行つて、そこで茶を飮んで別れたいと思つたのだが、二十町も來ないうちに自分は息が切れてしまひ、路傍に打倒れさうになり、彼の姿を失
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