方宿に歸つた。そしていつしよに湯にはひり、別れの晩餐を共にした。が彼はその翌日も、一日延ばして呉れたのだつた。彼は、一人取殘される自分に、同情して呉れたのだつた。自分が宿の女中たちにも飽きられ、厄介者視せられて、みじめな、たよりない氣持で日を送つてゐるのを、青年の純な心から、同情してゐて呉れたのだつた。何と云ふ親切!……牧場行きの場合でも、彼は終始先きに立つて熊笹に蔽はれた細徑の樹の根、刺のある枯薊――さう云つたものにまでも注意して呉れ、また彼には自由に飛び越えられる小川だつたが特に自分のためにそこらの大きな石を搜して來て川の中に路を造つて呉れたりした。酒を飮んでゐる場合以外の、自分のさびしげな、物悲しげな姿が、すくすくと眞直ぐに伸びた若い彼の心を、何かしらそゝるところがあつたのかも知れない。……
 いよ/\の十七日は、朝から霧のやうな雨が降つてゐた。馬返しまで五里餘の道を、彼は歩いてくだるのだつた。すつかり支度の出來たところで、彼は自分の部屋で、別れの杯を擧げることになつた。
「かつきり一時間だけ……」彼の腕時計を見ながら斯う云つて酒をすゝめはじめたが、もう三十分、もう十分と云ふこと
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