神通なければ、つひに鈍《おぞ》くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免《のが》れぬ因果応報、大明神の冥罰《みょうばつ》のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾|確乎《たしか》に聞け。過ちて改むるに憚《はばか》ることなく、末期《まつご》の念仏一声には、怎麼《いか》なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、速《すみや》かに心を翻へして、われ曹《ら》がために尋ぬることを答へよ。已《すで》に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を讐《あだ》と狙ひ。機会《おり》もあらば討入りて、他《かれ》が髭首|掻《かか》んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、路《みち》嶮《けん》にして案内知りがたく。加之《しかのみならず》洞の中《うち》には、怎麼なる猛獣|侍《はん》べりて、怎麼《いか》なる守備《そなえ》ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡《ためら》ひしが、早晩《いつか》爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ曹《ら》が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷《くわし》く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実《まこと》を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹|更《かわ》る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦《うきめ》を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終《いまわ》の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量《しあん》して返答せよ」ト、あるいは威《おど》しあるいは賺《すか》し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落《はふりおつ》る涙|堰《せ》きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理《ことわり》切《せ》めし文角ぬしが、今の言葉に僕《やつがれ》が、幾星霜《いくとしつき》の迷夢|醒《さ》め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿《わどの》が言葉にせめられて、今こそ一|期《ご》の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ咳《しわぶき》一咳《ひとつ》して、喘《ほ》と吻《つ》く息も苦しげなり。

     第十四回

 この時文角は、捕へし襟頭《えりがしら》少し弛《ゆる》めつ、されども聊《いささ》か油断せず。「いふ事あらば疾《と》くいへかし。この期に及びわれ曹《ら》を欺き、間隙《すき》を狙《ねら》ふて逃げんとするも、やはかその計《て》に乗るべきぞ」ト、いへば聴水|頭《こうべ》を打ちふり、「その猜疑《うたがい》は理《ことわり》なれど、僕《やつがれ》すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯《ひきょう》なる挙動《ふるまい》をせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼《いか》にしてかく恙《つつが》なきぞ」ト。訝《いぶか》り問へば冷笑《あざわら》ひて、「われ実《まこと》に爾《なんじ》に誑《たばか》られて、去《いぬ》る日|人間《ひと》の家に踏み込み、太《いた》く打擲《ちょうちゃく》されし上に、裏の槐《えんじゅ》の樹《き》に繋《つな》がれて、明けなば皮も剥《はが》れんずるを、この鷲郎に救ひ出《いだ》され、危急《あやう》き命は辛く拾ひつ。その時足を挫《くじ》かれて、霎時《しばし》は歩行もならざりしが。これさへ朱目《あかめ》の翁《おきな》が薬に、かく以前《もと》の身になりにしぞ」ト、足踏《あしぶみ》して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時《かのとき》人間《ひと》に打たれて、足を傷《やぶ》られたまひし事は、僕|私《ひそ》かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身|仇敵《かたき》と附狙《つけねら》はれては、何時《いつ》また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様《とさまこうさま》思ひめぐらし。機会《おり》を窺《うかが》ふとも知らず、和殿は昨日彼の痍《きず》のために、朱目の翁を訪れたまふこと、私《ひそ》かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴《きゃつ》に欺かれしか」ト。いへば黄金丸|呵々《からから》と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途《かえるさ》、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟《ひっきょう》村童們《さとのこら》が悪戯《いたずら》ならんと、その矢を嘴《くち》に咬《く》ひ止めつつ、矢の来し方《かた》を打見やれば。こは人間と思ひのほか、大《おおい》なる猿なりければ。憎《にっく》き奴めと睨《にら》まへしに、そのまま這奴《しゃつ》は逃げ失《う》せぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨《うらみ》を受くべき覚《おぼえ》なければ、何故《なにゆえ》かかる事を作《な》すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、他《かれ》が狼藉の所以《ゆえ》も知りぬ。然るに他《かれ》今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度《こたび》もその矢われには当らず、肩の辺《あたり》をかすらして、後の木根《きのね》に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切《くいしば》り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々《おめおめ》欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕《ゆうべ》他が棲《す》を訪づれて、首尾|怎麼《いか》なりしと尋ねしなれ。さるに他《かれ》事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、躯《むくろ》は人間《ひと》に取られしなどと、いひくろめしも虚誕《いつわり》の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの後《のち》和殿に逢ふことあらば、事|発覚《あらわ》れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、太《いた》く物に畏《お》ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の報《むくい》なりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴《しゃつ》なかりせば今宵もかく、罠目《わなめ》の恥辱はうけまじきに」ト、悔《くい》の八千度百千度《やちたびももちたび》、眼を釣りあげて悶《もだ》えしが。ややありて胸押し鎮《しず》め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても捨《すつ》る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を渉《わた》ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、僅《わずか》十町ばかりにして、その洞口《ほらのくち》に達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化《こんか》(羆《ひぐま》)黒面《こくめん》(猪《しし》)を初めとして、猛き獣|們《ら》なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、己《おの》が持場を守りたれば、常には洞の辺《ほとり》にあらずただ僕《やつがれ》とかの黒衣のみ、旦暮《あけくれ》大王の傍《かたわら》に侍りて、他《かれ》が機嫌を取《とる》ものから。このほど大王|何処《いずく》よりか、照射《ともし》といへる女鹿《めじか》を連れ給ひ、そが容色に溺《おぼ》れたまへば、われ曹《ら》が寵《ちょう》は日々に剥《そ》がれて、私《ひそ》かに恨めしく思ひしなり。かくて僕|去《いぬ》る日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸《つきまる》が遺児《わすれがたみ》、僕及び大王を、仇敵《かたき》と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他《か》れもまた少しく恐れて、件《くだん》の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身《おのれ》も佻々《かるがる》しく他出《そとで》したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜《ななめ》ならず、忽《たちま》ち守護《まもり》を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝《いわい》なりとて、盛《さかん》に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒|酌《く》みしが、独り早く退《まか》り出《いで》つ、その帰途《かえるさ》にかかる状態《ありさま》、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方《あなた》の山を佶《きっ》と睨《にら》めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣|們《ら》、酒宴《さかもり》なして戯《たわぶ》れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那《あな》喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続《つ》ぎて、「実《げ》に今宵こそ屈竟《くっきょう》なれ。さきに僕|退出《まかりで》し時は、大王は照射《ともし》が膝を枕として、前後も知らず酔臥《えいふ》したまひ。その傍《ほとり》には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自《おのおの》棲居《すみか》に帰りしかば、洞には絶えて守護《まもり》なし。これより彼処《かしこ》へ向ひたまはば、かの間道より登《のぼり》たまへ。少しは路の嶮岨《けわし》けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿《たど》るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠《みそな》はせ、彼処《かしこ》に見ゆる一叢《ひとむら》の、杉の森の小陰《こかげ》より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦《おにづた》あまた匐《は》ひつきたれど、辺《ほと》りに榎《えのき》の大樹あれば、そを目印《めじるし》に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。爾《なんじ》今前非を悔いて、吾|曹《ら》がために討入りの、計策《はかりごと》を教ふること忠《まめ》なり。さればわれその厚意《こころざし》に愛《め》で、おつつけ彼の黒衣とやらんを討《うっ》て、爾がために恨《うらみ》を雪《すす》がん。心安く成仏《じょうぶつ》せよ」「こは有難き御命《おおせ》かな。かくては思ひ置くこともなし、疾《と》くわが咽喉《のど》を噬《か》みたまへ」ト。覚悟|極《き》むればなかなかに、些《ちっと》も騒がぬ狐が本性。天晴《あっぱれ》なりと称《たた》へつつ、黄金丸は牙を反《そ》らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。

     第十五回

 黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙《いそがわ》しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間《はざま》に出でしが、これより路次第に嶮岨《けわし》く。荊棘《けいきょく》いやが上に生《お》ひ茂りて、折々|行方《ゆくて》を遮《さえぎ》り。松柏《しょうはく》月を掩《おお》ひては、暗きこといはんかたなく、動《やや》もすれば岩に足をとられて、千仞《せんじん》の渓《たに》に落ちんとす。鷲郎は原来|猟犬《かりいぬ》にて、かかる路には慣れたれば、「われ東道《あんない》せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして只《と》ある尾上《おのえ》に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は稀《まれ》なれば月光《つきあかり》に、路の便《たより》もいと易《やす》かり。かかる処に路傍《みちのほとり》の叢《くさむら》より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「這《しゃつ》伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ佶《きっ》と見れば、いと大《おおい》なる黒猿の、面《おもて》蘇枋《すおう》に髣髴《さもに》たるが、酒に酔ひたる人間《ひと》の如く、※[#「人べん+稜のつくり」、109−3]※[#「人べん+登」、109−3]《よろめ》きよろめき彼方《かなた》に行きて、太き松の幹にすがりつ、攀《よじ》登らんとあせれども、怎麼《いか》にしけん登り得ず。幾度《いくたび》かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処《かしこ》を見ずや。松の幹に攀らんとして、頻《しき》りにあせる一匹の猿あり。もし彼の
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