れを見るより一攫《ひとつか》みに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を撫《な》でつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは実《まこと》に危急《あやう》かりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は客品《かくぼん》にて、居ながら佳肴《かこう》を喰《くら》ひ得んに、なにを苦しんでか自ら猟《かり》に出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて痍《きず》を求むる、酔狂《ものずき》もよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の御命《おおせ》を受け、和主を今宵招かんため、今朝《けさ》より里へ求食《あさ》り来つ、かくまで下物《さかな》は獲たれども、余りに層《かさ》多ければ、独りにては運び得ず、思量《しあん》にくれし処なり。今和主の来りしこそ幸《さち》なれ、大王もさこそ待ち侘びて在《おわ》さんに、和主も共に手伝ひて、この下物《さかな》を運びてたべ。情《なさけ》は他《あだ》しためならず、皆これ和主に進《まい》らせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち笑《わらい》て、「そはいと易《やす》き事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に扛《か》き往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて大《おおい》なる古菰《ふるごも》を拾ひきつ、これに肴を包みて上より縄《なわ》をかけ。件《くだん》の弓をさし入れて、人間《ひと》の駕籠《かご》など扛くやうに、二匹|前後《まえうしろ》にこれを担《にな》ひ、金眸が洞へと急ぎけり。

     第十二回

 聴水黒衣の二匹の獣は、彼の塩鮭《しおざけ》干鰯《ほしか》なんどを、総《すべ》て一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、数多《あまた》の獣類《けもの》を呼び集《つど》ひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて称賛《ほめそや》すに、黒衣はいと得意顔に、鼻|蠢《うご》めかしてゐたりける。金眸も常に念頭《こころ》に懸《か》けゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その喜悦《よろこび》に心|弛《ゆる》みて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、茲《ここ》を先途《せんど》と機嫌《きげん》を取り。聴水が唄《うた》へば黒衣が舞ひ、彼が篠田《しのだ》の森を躍《おど》れば、これはあり合ふ藤蔓《ふじづる》を張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、頻《しき》りに笑ひ動揺《どよ》めきしが。やがて酔《えい》も十二分にまはりけん、照射《ともし》が膝を枕にして、前後も知らず高鼾《たかいびき》、霎時《しばし》は谺《こだま》に響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや退《まか》らんと聴水は、他の獣|們《ら》に別《わかれ》を告げ、金眸が洞を立出でて、※[#「人べん+稜のつくり」、98−15]※[#「人べん+登」、98−15]《よろめ》く足を踏〆《ふみし》め踏〆め、わが棲居《すみか》へと辿《たど》りゆくに。この時《とき》空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、隈《くま》なく冴《さ》えて清らかなれば、野も林も一面《ひとつら》に、白昼《まひる》の如く見え渡りて、得も言はれざる眺望《ながめ》なるに。聴水は虚々《うかうか》と、わが棲《す》へ帰ることも忘れて、次第に麓《ふもと》の方《かた》へ来りつ、只《と》ある切株に腰うちかけて、霎時《しばし》月を眺めしが。「ああ、心地|好《よ》や今日の月は、殊更《ことさら》冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃|気疎《けぶた》しと思ふ、黄金|奴《め》を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月|哉《かな》、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が虚誕《いつわり》を、それとも知らで聴水が、佻々《かるがる》しくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき[#「つき」に白丸傍点]、とは暁得《さと》らずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。
 折しも微吹《そよふ》く風のまにまに、何処《いずく》より来るとも知らず、いとも妙《たえ》なる香《かおり》あり。怪しと思ひなほ嗅《か》ぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の天麩羅《てんぷら》の香なるに。聴水忽ち眼《まなこ》を細くし、「さても甘《うま》くさや、うま臭《くさ》や。何処《いずく》の誰がわがために、かかる馳走《ちそう》を拵《こしら》へたる。将《いで》往《ゆ》きて管待《もてなし》うけん」ト、径《みち》なき叢《くさむら》を踏み分けつつ、香を知辺《しるべ》に辿《たど》り往くに、いよいよその物近く覚えて、香|頻《しき》りに鼻を撲《う》つにぞ。心魂《こころ》も今は空になり、其処《そこ》か此処《ここ》かと求食《あさ》るほどに、小笹《おざさ》一叢《ひとむら》茂れる中に、漸《ようや》く見当る鼠の天麩羅《てんぷら》。得たりと飛び付き咬《く》はんとすれば、忽ち発止《ぱっし》と物音して、その身の頸《くび》は物に縛《し》められぬ。「南無三《なむさん》、罠《わな》にてありけるか。鈍《おぞ》くも釣《つ》られし口惜《くちお》しさよ。さばれ人間《ひと》の来らぬ間に、逃《のが》るるまでは逃れて見ん」ト。力の限り悶掻《もが》けども、更にその詮《せん》なきのみか咽喉《のど》は次第に縊《しば》り行きて、苦しきこといはん方《かた》なし。
 恁《かか》る処へ、左右の小笹|哦嗟々々《がさがさ》と音して、立出《たちいず》るものありけり。「さてはいよいよ猟師《かりうど》よ」ト、見やればこれ人間《ひと》ならず、いと逞《たく》ましき二匹の犬なり。この時|右手《めて》なる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを見識《みし》れりや」ト、いふに聴水|覚束《おぼつか》なくも、彼の犬を見やれば、こは怎麼《いか》に、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び太《いた》く驚きて、物いはんとするに声は出でず、眼《まなこ》を見はりて悶《もだ》ゆるのみ。犬はなほ語を続《つ》ぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。爾《なんじ》よくこそわが父を誑《たぶら》かして、金眸には咬《く》はしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに人間《ひと》に打たれて、太《いた》く足を傷《きずつ》けられたれば、重なる意恨《うらみ》いと深かり。然るに爾その後《のち》は、われを恐れて里方へは、少しも姿を出《いだ》さざる故、意恨をはらす事ならで、いとも本意《ほい》なく思ふ折から。朱目《あかめ》ぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を掛《かけ》て、私《ひそ》かに爾が来《きた》るを待ちしに。さきにわがため命を棄《すて》し、阿駒《おこま》が赤心《まごころ》通じけん、鈍《おぞ》くも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも免《の》がれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、寸断々々《ずたずた》に噛みさきて、わが意恨《うらみ》を晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、掴《つか》みかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「※[#「口+約」、101−4]《やよ》黄金丸|暫《しばら》く待ちね。某《それがし》聊《いささ》か思ふ由あり。這奴《しゃつ》が命は今|霎時《しばし》、助け得させよ」ト、声かけつつ、徐々《しずしず》と立出《たちいず》るものあり。二匹は驚き何者ぞと、月光《つきあかり》に透《すか》し見れば。何時《いつ》のほどにか来りけん、これなん黄金丸が養親《やしないおや》、牡牛《おうし》文角《ぶんかく》なりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び魂《きも》を消しぬ。

     第十三回

 恁《かか》る処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。什麼《そも》何として此処には来《きたり》たまひたる。そはとまれかくもあれ、その後《のち》は御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は点頭《うなず》き、「その驚きは理《ことわり》なれど、これには些《ちと》の仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、鷲郎《わしろう》を指《ゆびさ》し問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、去《いぬ》る日|斯様々々《かようかよう》の事より、図らず兄弟の盟《ちか》ひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃|某《それがし》が噂《うわさ》したる、養親の文角ぬしなり」ト、互に紹介《ひきあわ》すれば。文角も鷲郎も、恭《うやうや》しく一礼なし、初対面の挨拶《あいさつ》もすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、怎麼《いか》なる仔細の候《そうろう》て、今宵此処には来たまひたる」ト、連忙《いそがわ》しく尋ぬれば。「さればとよよく聞《きき》ね、われ元より御身たちと、今宵此処にて邂逅《めぐりあ》はんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の廝《こもの》に曳《ひ》かれて、この辺《あたり》なる市場へ、塩鮭|干鰯《ほしか》米なんどを、車に積《つみ》て運び来りしが。彼の大藪《おおやぶ》の陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、肴《さかな》を取《とっ》て投げおろすに。這《しゃ》ツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。這奴《しゃつ》いまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を徘徊《はいかい》して、かかる悪事を働けるや。将《いで》一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に繋《つ》けられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや言語《ことば》通ぜざれば、他《かれ》は少しも心付かで、阿容々々《おめおめ》肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、代物《しろもの》の三分《みつ》が一《ひとつ》は、あらぬに初めて心付き。廝は太《いた》く狼狽《うろた》へて、さまざまに罵《ののし》り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた詮《せん》なしとあきらめしが。諦《あきら》められぬはわが心中。彼の聴水が所業《しわざ》なること、目前《まのあたり》見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。殊《こと》には他《かれ》は黄金丸が、倶不戴天《ぐふたいてん》の讐《あだ》なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕《ひっとら》へて、後黄金丸に逢ひし時、土産《みやげ》になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、端《はし》なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯《いたずら》作《な》しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、噬《か》みかかるをば文角は、再び霎時《しばし》と押し隔て、「さな焦燥《いら》ちそ黄金丸。他《かれ》已《すで》に罠に落ちたる上は、俎板《まないた》の上なる魚《うお》に等しく、殺すも生《いか》すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱《ここう》の臣なれば、他《かれ》を責めなば自《おのず》から、金眸が洞《ほら》の様子も知れなんに、暫くわが為《な》さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭《えりがみ》を引掴《ひっつか》み、罠を弛《ゆる》めてわが膝《ひざ》の下に引き据《す》えつ。「いかにや聴水。かくわれ曹《ら》が計略に落ちしからは、爾《なんじ》が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神《いなりだいみょうじん》の神使《かみつかい》なれば、よくその分を守る時は、人も貴《とうと》みて傷《きずつ》くまじきに。性|邪悪《よこしま》にして慾深ければ、奉納の煎《あげ》豆腐を以《も》て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠《みやしろ》を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊《さまよ》ひ行きつ。金眸が髭《ひげ》の塵《ちり》をはらひ、阿諛《あゆ》を逞《たく》ましうして、その威を仮り、数多《あまた》の獣類《けもの》を害せしこと、その罪|諏訪《すわ》の湖よりも深く、また那須野《なすの》が原《はら》よりも大《おおい》なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに割《さ》けず、三国《さんごく》飛行《ひぎょう》の
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
巌谷 小波 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング