こがね丸
巌谷小波
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)或《あ》る深山《みやま》の奥に
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(例)一山|万獣《ばんじゅう》の、
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(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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少年文学序
奇獄小説に読む人の胸のみ傷《いた》めむとする世に、一巻の穉《おさな》物語を著す。これも人|真似《まね》せぬ一流のこころなるべし。欧羅巴《ヨーロッパ》の穉物語も多くは波斯《ペルシア》の鸚鵡冊子《おうむさっし》より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新|暖簾《のれん》、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷《いの》るものは、
[#地から9字上げ]本郷千駄木町《ほんごうせんだぎちょう》の
[#地から3字上げ]鴎外《おうがい》漁史なり
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凡 例
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一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学[#「少年用文学」に白丸傍点]との意味にて、独逸《ドイツ》語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語[#「穉物語」に白丸傍点]も、同じ心なるべしと思ふ。
一 されば文章に修飾を勉《つと》めず、趣向に新奇を索《もと》めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴《あっぱ》れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦《しょう》しやすく解しやすからんか。
一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔《こんじゃく》物語』、『宇治拾遺《うじしゅうい》』などより、天明ぶりの黄表紙《きびょうし》類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。
一 ちと手前味噌《てまえみそ》に似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有《けう》のものなるべく、威張《いばり》ていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令《たとい》わが作[#「わが作」に傍点]の取るに足らずとも[#「取るに足らずとも」に傍点]、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学[#「少年文学」に白丸傍点]といふものにつきて、充分|論《あげつ》らひ賜ひてよト、これも予《あらかじ》め願ふて置く。
一 詞友われを目《もく》して文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。
[#ここで字下げ終わり]
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庚寅《かのえとら》の臘月《ろうげつ》。もう八ツ寝るとお正月といふ日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]昔桜亭において 漣山人《さざなみさんじん》誌《しるす》
[#改丁]
上巻
第一回
むかし或《あ》る深山《みやま》の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜《いくとしつき》をや経たりけん、躯《からだ》尋常《よのつね》の犢《こうし》よりも大《おおき》く、眼《まなこ》は百錬の鏡を欺き、鬚《ひげ》は一束《ひとつか》の針に似て、一度《ひとたび》吼《ほ》ゆれば声|山谷《さんこく》を轟《とどろ》かして、梢《こずえ》の鳥も落ちなんばかり。一|山《さん》の豺狼《さいろう》麋鹿《びろく》畏《おそ》れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を逞《たくまし》うして、自ら金眸《きんぼう》大王と名乗り、数多《あまた》の獣類《けもの》を眼下に見下《みくだ》して、一山|万獣《ばんじゅう》の君とはなりけり。
頃《ころ》しも一月の初《はじめ》つ方《かた》、春とはいへど名のみにて、昨日《きのう》からの大雪に、野も山も岩も木も、冷《つめた》き綿《わた》に包まれて、寒風|坐《そぞ》ろに堪えがたきに。金眸は朝より洞《ほら》に籠《こも》りて、独《ひと》り蹲《うずく》まりゐる処へ、兼《かね》てより称心《きにいり》の、聴水《ちょうすい》といふ古狐《ふるぎつね》、岨《そば》伝ひに雪踏み分《わげ》て、漸《ようや》く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃《いんぎん》に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面《そとも》に出《いず》る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然《つれづれ》におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《オー》聴水なりしか、よくこそ来りつれ。実《まこと》に爾《なんじ》がいふ如く、この大雪にて他出《そとで》もならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物《かて》漸く空《むな》しくなりて、やや空腹《ものほし》う覚ゆるぞ。何ぞ好《よ》き獲物はなきや、……この大雪なればなきも宜《むべ》なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし実《まこと》に空腹《ものほし》くて、食物《かて》を求め給ふならば、僕《やつがれ》好き獲物を進《まいら》せん」「なに好き獲物とや。……そは何処《いずこ》に持来りしぞ」「否《いな》。此処《ここ》には持ち侍《はべ》らねど、大王|些《ちと》の骨を惜まずして、この雪路《ゆきみち》を歩みたまはば、僕よき処へ東道《あんない》せん。怎麼《いか》に」トいへば。金眸|呵々《からから》と打笑ひ、「やよ聴水。縦令《たと》ひわれ老いたりとて、焉《いずく》ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠《たれこ》めしも、決して寒気を厭《いと》ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処|偽《いつわり》ならずば、速《すみやか》に東道《あんない》せよ、われ往《ゆ》きてその獲物を取らんに、什麼《そも》そは何処《いずく》ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引《うけがい》たまひて、僕《やつがれ》も実《まこと》に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の麓《ふもと》の里なる、荘官《しょうや》が家の飼犬にて、僕|他《かれ》には浅からぬ意恨《うらみ》あり。今大王|往《ゆき》て他《かれ》を打取たまはば、これわがための復讐《あだがえし》、僕が欣喜《よろこび》これに如《し》かず候」トいふに金眸|訝《いぶか》りて、「こは怪《け》しからず。その意恨《うらみ》とは怎麼《いか》なる仔細《しさい》ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日《おとつい》の事なりし、僕かの荘官が家の辺《ほとり》を過《よぎ》りしに、納屋《なや》と覚《おぼし》き方《かた》に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、即《すなわ》ち裏の垣より忍び入りて※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]宿《とや》近く往かんとする時、他《かれ》目慧《めざと》くも僕を見付《みつけ》て、驀地《まっしぐら》に飛《とん》で掛《かか》るに、不意の事なれば僕は狼狽《うろた》へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、他《かれ》わが尻尾《しりお》を咬《くわ》へて引きもどさんとす、われは払《はらっ》て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し齧《か》み取られて、痛きこと太《はなはだ》しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人《としより》の襟巻《えりまき》にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても適《かな》はぬ処なれば、復讐《あだがえし》も思ひ止《とど》まりて、意恨《うらみ》を呑《のん》で過ごせしが。大王、僕《やつがれ》不憫《ふびん》と思召《おぼしめ》さば、わがために仇《あだ》を返してたべ。さきに獲物を進《まいら》せんといひしも、実《まこと》はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに訴《うったう》れば。金眸は打点頭《うちうなず》き、「憎き犬の挙動《ふるまい》かな。よしよし今に一攫《ひとつか》み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を前《さき》に立てて、脛《すね》にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え渓《たに》を渉《わた》り、ほどなく麓に出でけるに、前《さき》に立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処《かしこ》に見ゆる森の陰に、今煙の立昇《たちのぼ》る処は、即ち荘官《しょうや》が邸《やしき》にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、徒《いたず》らに人間《ひと》を驚かすのみにて、敵《かたき》の犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策《はかりごと》あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語《ささやき》しが、また金眸が前《さき》に立ちて、高慢顔にぞ進みける。
第二回
ここにこの里の荘官《しょうや》の家に、月丸《つきまる》花瀬《はなせ》とて雌雄《ふうふ》の犬ありけり。年頃|情《なさけ》を掛《かけ》て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実《まめやか》に事《つか》ふれば、年久しく盗人《ぬすびと》といふ者|這入《はい》らず、家は増々《ますます》栄えけり。
降り続く大雪に、伯母《おば》に逢ひたる心地《ここち》にや、月丸は雌《つま》諸共《もろとも》に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]宿《とや》の方《かた》に当りて、鶏の叫ぶ声|切《しき》りなるに、哮々《こうこう》と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲《こら》しつるに、はや忘《わすれ》しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度《こたび》こそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立《けだ》てて真一文字に、※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]宿の方へ走り往《ゆけ》ば、狐はかくと見《みる》よりも、周章狼狽《あわてふためき》逃げ行くを、なほ逃《のが》さじと追駆《おっか》けて、表門を出《いで》んとする時、一声|※[#「口+翁」、66−5]《おう》と哮《たけ》りつつ、横間《よこあい》より飛《とん》で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼《いか》にわれよりは、二|層《まわり》も大《おおい》なる虎の、眼《まなこ》を怒らし牙《きば》をならし、爪《つめ》を反《そ》らしたるその状態《ありさま》、恐しなんどいはん方《かた》なし。尋常《よのつね》の犬なりせば、その場に腰をも抜《ぬか》すべきに。月丸は原来心|猛《たけ》き犬なれば、そのまま虎に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くっ》てかかり、喚《おめき》叫んで暫時《しばし》がほどは、力の限り闘《たたか》ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中《うち》に息|絶《たえ》たる。その死骸《なきがら》を嘴《くち》に咬《くわ》へ、あと白雪を蹴立《けたて》つつ、虎は洞《ほら》へと帰り行く。あとには流るる鮮血《ちしお》のみ、雪に紅梅の花を散らせり。
雌《つま》の花瀬は最前より、物陰にありて件《くだん》の様子を、残りなく詠《なが》めゐしが。身は軟弱《かよわ》き雌犬《めいぬ》なり。かつはこのほどより乳房|垂《た》れて、常ならぬ身にしあれば、雄《おっと》が非業《ひごう》の最期《さいご》をば、目前《まのあたり》見ながらも、救《たす》くることさへ成りがたく、独《ひと》り心を悶《もだ》へつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻《しき》りに吠《ほ》え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事《ただごと》ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血|夥《おびただ》しく流れたるが、只《と》見れば遙《はるか》の山陰《やまかげ》に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くも
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