まづ嗟嘆《さたん》して、「さても珍しき鼠かな。国には盗人《ぬすびと》家に鼠と、人間《ひと》に憎まれ卑《いやし》めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇《いさ》めり。これを彼の猫の三年|飼《こう》ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別《けじめ》あり。むかし唐土《もろこし》の蔡嘉夫《さいかふ》といふ人間《ひと》、水を避けて南壟《なんろう》に住す。或夜|大《おおい》なる鼠浮び来て、嘉夫が床《とこ》の辺《ほとり》に伏しけるを、奴《ど》憐《あわれ》みて飯を与へしが。かくて水退きて後、件《くだん》の鼠|青絹玉顆《せいけんぎょくか》を捧《ささ》げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐《ふくしゅう》の報恩《むくい》に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば免《のが》れぬ因果なりけん。さばれ生《いき》とし生ける者、何かは命を惜まざる。朝《あした》に生れ夕《ゆうべ》に死すてふ、蜉蝣《ふゆ》といふ虫だにも、追へば逃《のが》れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅《てんぷら》の、辛き思ひをなさんとは、実《まこと》に得がたき阿駒が忠節、賞《ほ》むるになほ言葉なし。……とまれ他《かれ》が願望《のぞみ》に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水《ちょうすい》を釣《つり》よせて、首尾よく彼奴《きゃつ》を討取らば、聊《いささ》か菩提《ぼだい》の種《たね》ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸《なきがら》を調理すれば、鷲郎はまた庭に下《お》り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。
第十回
不題《ここにまた》彼の聴水は、去《いぬ》る日途中にて黄金丸に出逢ひ、已《すで》に命も取らるべき処を、辛《かろ》うじて身一ツを助かりしが。その時よりして畏気《おじけ》附き、白昼《ひる》は更なり、夜《よ》も里方へはいで来らず、をさをさ油断《ゆだん》なかりしが。その後《のち》他の獣|們《ら》の風聞《うわさ》を聞けば、彼の黄金丸はその夕《ゆうべ》、太《いた》く人間《ひと》に打擲《ちょうちゃく》されて、そがために前足|痿《な》えしといふに。少しく安堵《あんど》の思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その痍《きず》意外《おもいのほか》重くして、日を経《ふ》れども愈《い》えず。さるによつて明日《あす》よりは、木賊《とくさ》ヶ原《はら》の朱目《あかめ》が許《もと》に行きて、療治を乞《こ》はんといふことまで、怎麼《いか》にしけんさぐり知《しり》つ、「こは棄《す》ておけぬ事どもかな、他《かれ》もし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる憂苦《うきめ》をや見ん。とかく彼奴《きゃつ》を亡きものにせでは、枕《まくら》を高く眠《ねぶ》られじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち小膝《こひざ》を礑《はた》と撲《う》ち、「爰《ここ》によき計《はかりごと》こそあれ、頃日《このころ》金眸《きんぼう》大王が御内《みうち》に事《つか》へて、新参なれども忠《まめ》だちて働けば、大王の寵愛《おおぼえ》浅からぬ、彼の黒衣《こくえ》こそよかんめれ。彼の猿弓を引く業《わざ》に長《た》けて、先つ年|他《かれ》が叔父|沢蟹《さわがに》と合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その後《のち》叔父は臼《うす》に撲《う》たれ、他《かれ》は木から落猿《おちざる》となつて、この山に漂泊《さまよ》ひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし取《とっ》たる杵柄《きねづか》とやら、一束《ひとつか》の矢|一張《ひとはり》の弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく射殺《いころ》してん。まづ他《かれ》が許《もと》に往《ゆ》きて、事の由来《おこり》を白地《あからさま》に語り、この件《こと》を頼むに如《し》かじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心|姦佞《ねじけ》し悪猿なれば、異議なく承引《うけあ》ひ、「われも久しく試《ため》さねば、少しは腕も鈍りたらんが。多寡《たか》の知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日|他《かれ》の朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「万《よろ》づは和主《おぬし》に委《まか》すべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、櫨《はじ》の弓に鬼蔦《おにづた》の弦《つる》をかけ、生竹《なまだけ》を鋭《と》く削りて矢となし、用意やがて備《ととの》ひける。
さて次日《つぎのひ》の夕暮、聴水は件《くだん》の黒衣が許に往きて、首尾|怎麼《いか》にと尋ぬるに。黒衣まづ誇貌《ほこりがお》に冷笑《あざわら》ひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの木賊《とくさ》ヶ原《はら》に行き、路傍《みちのほとり》なる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が帰来《かえり》を待ちけるが。われいまだ他《かれ》を見しことなければ、もし過失《あやま》ちて他《た》の犬を傷《きずつ》け、後の禍《わざわい》をまねかんも本意《ほい》なしと、案じわづらひてゐけるほどに。暫時《しばらく》して彼方《かなた》より、茶色毛の犬の、しかも一|足《そく》痿《な》えたるが、覚束《おぼつか》なくも歩み来ぬ。兼《かね》て和主が物語に、他《かれ》はその毛茶色にて、右の前足痿えしと聞《きき》しかば。必定《ひつじょう》これなんめりと思ひ。矢比《やごろ》を測つて兵《ひょう》と放てば。竄点《ねらい》誤たず、他《かれ》が右の眼《まなこ》に篦深《のぶか》くも突立《つった》ちしかば、さしもに猛《たけ》き黄金丸も、何かは以《もっ》てたまるべき、忽《たちま》ち撲地《はた》と倒れしが四足を悶掻《もが》いて死《しん》でけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より寸留々々《するする》と走り下りて、他《かれ》が躯《むくろ》を取らんとせしに、何処《いずく》より来りけん一人の大男、思ふに撲犬師《いぬころし》なるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み寄《よっ》てわれを遮《さえぎ》り、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず勢《いきおい》に。われも他《かれ》さへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが功名《てがら》を横奪《よこどり》されて、残念なれども争ふて、傷《きずつ》けられんも無益《むやく》しと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、他《かれ》は確《たしか》に仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、革屋《かわや》が軒に鉤下《つりさ》げられてん。思へばわれに意恨《うらみ》もなきに、無残なことをしてけり」ト、事実《まこと》しやかに物語れば、聴水喜ぶこと斜《ななめ》ならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず畏《かしこ》くも、大王までを仇敵《かたき》と狙《ねら》ふて、他《かれ》が足痍《あしのきず》愈《いえ》なば、この山に討入《うちいり》て、大王を噬《か》み斃《たお》さんと計る由。……怎麼《いか》に他《かれ》獅子《しし》([#ここから割り注]畑時能が飼ひし犬の名[#ここで割り注終わり])の智勇ありとも、わが大王に牙向《はむか》はんこと蜀犬《しょっけん》の日を吠《ほ》ゆる、愚を極めし業《わざ》なれども。大王これを聞《きこ》し召して、聊《いささ》か心に恐れ給へば、佻々《かるがる》しくは他出《そとで》もしたまはず。さるを今《いま》和主が、一|箭《ぜん》の下《もと》に射殺《いころ》したれば、わがために憂《うれい》を去りしのみか、取不直《とりもなおさず》大王が、眼上《めのうえ》の瘤《こぶ》を払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ偏《ひと》へに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に見《まみ》え、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。
第十一回
かくて聴水は、黒衣《こくえ》が棲居《すみか》を立出でしが、他《かれ》が言葉を虚誕《いつわり》なりとは、月に粲《きら》めく路傍《みちのべ》の、露ほども暁得《さと》らねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。喃《のう》、嬉れしやよろこばしや」ト。永《なが》く牢《ひとや》に繋《つなが》れし人間《ひと》の、急に社会《このよ》へ出でし心地して、足も空に金眸《きんぼう》が洞《ほら》に来《きた》れば。金眸は折しも最愛の、照射《ともし》といへる侍妾《そばめ》の鹿を、辺《ほとり》近くまねき寄《よせ》て、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ慇懃《いんぎん》に安否を尋ね。さて今日|斯様《かよう》のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地《ありのまま》に物語れば。金眸も斜《ななめ》ならず喜びて、「そは大《おおい》なる功名《てがら》なりし。さばれ爾《なんじ》何とて他《かれ》を伴はざる、他に褒美《ほうび》を取らせんものを」ト、いへば聴水は、「僕《やつがれ》も然《しか》思ひしかども、今ははや夜も更《ふ》けたれば、今宵は思ひ止《とど》まり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、下物《さかな》数多《あまた》索《もと》めて参らん」ト、いふに金眸も点頭《うなず》きて、「とかくは爾よきに計らへ」「お命《おせ》畏《かしこ》まり候」とて。聴水は一礼なし、己《おの》が棲居《すみか》へ帰りける。
さてその翌朝《あけのあさ》、聴水は身支度《みじたく》なし、里の方《かた》へ出で来つ。此処《ここ》の畠|彼処《かしこ》の廚《くりや》と、日暮るるまで求食《あさ》りしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて只《と》ある藪陰《やぶかげ》に憩《いこ》ひけるに。忽ち車の軋《きし》る音して、一匹の大牛《おおうし》大《おおい》なる荷車を挽《ひ》き、これに一人の牛飼つきて、罵立《ののしりた》てつつ此方《こなた》をさして来れり。聴水は身を潜めて件《くだん》の車の上を見れば。何処《いずく》の津より運び来にけん、俵にしたる米の他《ほか》に、塩鮭《しおざけ》干鰯《ほしか》なんど数多《あまた》積めるに。こは好《よ》き物を見付けつと、なほ隠れて車を遣《や》り過し、閃《ひら》りとその上に飛び乗りて、積みたる肴《さかな》をば音せぬやうに、少しづつ路上《みちのべ》に投落《なげおと》すを、牛飼は少しも心付かず。ただ彼《かの》牛のみ、車の次第に軽くなるに、訝《いぶか》しとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ暁得《さと》らねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。層《かさ》意外《おもいのほか》に高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは怎麼《いか》にせんと案じ煩ひて、霎時《しばし》彳《たたず》みける処に。彼方《あなた》の森の陰より、驀地《まっしぐら》に此方《こなた》をさして走《は》せ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、側目《わきめ》もふらず走り過ぎんとするに。聴水は連忙《いそがわ》しく呼び止めて、「喃々《のうのう》、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を掛《かく》れば。漸くに心付きし乎《か》、黒衣は立止まり、聴水の方《かた》を見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は可笑《おか》しさを堪《こら》えて、「慌《あわただ》し何事ぞや。面《おもて》の色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、問《とい》かくれば。黒衣は初めて太息《といき》吻《つ》き、「さても恐しや。今かの森の中にて、黄金《こがね》……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、豈《あに》計らんや他《かれ》は大《おおい》なる鷲《わし》にて、わ
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