黒衣にてはあらぬか」ト、指《さ》し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違《みまご》ふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴《きゃつ》松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕《ひっとら》へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「他《かれ》果して黒衣ならば、われまづ往きて他を噬《か》まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、逃《にぐ》るとて逃さんや」ト、一声高く吠《ほ》えかくれば。猿は礑《はた》と地に平伏《ひれふ》して、熟柿《じゅくし》臭き息を吻《つ》き、「こは何処《いずく》の犬殿にて渡らせ給ふぞ。僕《やつがれ》はこの辺《あたり》に棲《す》む賤《いや》しき山猿にて候。今|宣《のたも》ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々《からから》と打笑ひ、「爾《なんじ》黒衣。縦令《たと》ひ酒に酔ひたりともわが面《おもて》は見忘れまじ。われは昨日|木賊《とくさ》ヶ原《はら》にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀《しろかね》殿か、われは一向|親交《ちかづき》なし。鉄《くろがね》を掘りに来給ふとも、この山には銅《あかがね》も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖《とおつおや》巌上甕猿《いわのえのみかざる》は。和殿が先祖|文石大白君《あやしのおおしろぎみ》と共に、斉《ひとし》く桃太郎子《もものおおいらつこ》に従ひて、淤邇賀島《おにがじま》に押し渡り、軍功少からざりけるに。何時《いつ》のほどよりか隙《ひま》を生じて、互に牙を鳴《なら》し争ふこと、実《まこと》に本意なき事ならずや。さるによつて僕《やつがれ》は、常に和殿|們《ら》を貴とみ、早晩《いつか》は款《よしみ》を通ぜんとこそ思へ、聊《いささ》かも仇する心はなきに、何罪科《なにとが》あつて僕を、噬《かま》んとはしたまふぞ。山王権現の祟《たた》りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙《すきま》を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎|大《おおい》に焦燥《いら》ちて、「爾《なんじ》悪猿、怎麼《いか》に人間に近ければとて、かくはわれ曹《ら》を侮るぞ。われ曹|疾《と》くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を巧《たくみ》にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕《いつわり》いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、※[#「口+畫」、110−10]叫《おめきさけ》んで飛びかかるほどに。元より悟空《ごくう》が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、争《いか》で犬にかなふべき、黒衣は忽ち咬《く》ひ殺されぬ。

     第十六回

 鷲郎は黒衣が首級《くび》を咬ひ断離《ちぎ》り、血祭よしと喜びて、これを嘴《くち》に提《ひっさ》げつつ、なほ奥深く辿《たど》り行くに。忽ち路|窮《きわ》まり山|聳《そび》えて、進むべき岨道《そばみち》だになし。「こは訝《いぶ》かし、路にや迷ふたる」ト、彼方《あなた》を透《すか》し見れば、年|経《ふ》りたる榎《えのき》の小暗《おぐら》く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居《すみか》なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに違《たが》はず、岩高く聳えて、鑿《のみ》もて削れるが如く、これに鬼蔦の匐《は》ひ付きたるが、折から紅葉《もみじ》して、さながら絵がける屏風《びょうぶ》に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、堆《うずたか》く積みてあるは、年頃金眸が取り喰《くら》ひたる、鳥獣《とりけもの》の骨なるべし。黄金丸はまづ洞口《ほらぐち》によりて。中《うち》の様子を窺《うかが》ふに、ただ暗うして確《しか》とは知れねど、奥まりたる方《かた》より鼾《いびき》の声高く洩《も》れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては他《かれ》なほ熟睡《うまい》してをり、この隙《ひま》に跳《おど》り入らば、輒《たやす》く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と面《おもて》を見合せ、「脱《ぬかり》給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射《ともし》ともろともに、岩角《いわかど》を枕として睡《ねぶ》りゐる、金眸が脾腹《ひばら》を丁《ちょう》と蹴《け》れば。蹴られて金眸|岸破《がば》と跳起《はねお》き、一声|※[#「口+皐」、第4水準2−4−33]《ほ》えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭《えりがみ》咬《く》はへて引据ゆれば。その隙《ひま》に逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸|確《たしか》に聞け。われは爾《なんじ》が毒牙《どくが》にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児《わすれがたみ》、黄金丸といふ犬なり。彼時《かのとき》われ母の胎内にありしが、その後《のち》養親《やしないおや》文角ぬしに、委敷《くわし》き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病《やみ》て歿《みまか》りたれば、取不直《とりもなおさず》両親《ふたおや》の讐《あだ》、年頃|積《つも》る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼《まなこ》を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執《もうしゅう》晴れやらで、わが酔臥《えいふ》せし隙《ひま》に著入《つけい》り、祟《たたり》をなさんず心なるか。阿那《あな》嗚呼《おこ》の白物《しれもの》よ」ト。いはせも果てず冷笑《あざわら》ひ、「愚《おろか》や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他《かれ》が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱《ここう》と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此《ここ》にあり」ト、携へ来りし黒衣が首級《くび》を、金眸が前へ投げ遣《や》れば。金眸は大《おおい》に怒り、「さては黒衣が虚誕《いつわり》なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴《つか》みかかるを、引《ひっ》ぱづして肩を噛《か》めば。金眸も透《とお》さず黄金丸が、太股《ふともも》を噛まんとす。噛ましはせじと横間《よこあい》より、鷲郎は躍《おど》り掛《かかっ》て、金眸が頬《ほお》を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊《せ》に閃《ひら》りと跨《またが》り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶《もが》きつつ、鷲郎が横腹を引※[#「爪+國」、112−7]《ひきつか》めば、「呀嗟《あなや》」と叫んで身を翻へし、少し退《しさ》つて洞口の方《かた》へ、行くを続いて追《おっ》かくれば。猛然として文角が、立閉《たちふさ》がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構《みがまえ》たり。「さては加勢の者ありや。這《しゃ》ものものし金眸が、死物狂ひの本事《てなみ》を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その※[#「口+皐」、第4水準2−4−33]《ほ》ゆる声百雷の、一時に落ち来《きた》るが如く、山谷《さんこく》ために震動して、物凄きこといはん方なし。
 去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術|剽挑《はやわざ》、右に衝《つ》き左に躍り、縦横|無礙《むげ》に暴《あ》れまはりて、半時《はんとき》ばかりも闘《たたか》ひしが。金眸は先刻《さき》より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手《あいて》は名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常《なみなみ》の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入《つけい》る黄金丸、金眸が咽喉《のんど》をねらひ、頤《あご》も透れと噬《か》みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸《ふぐり》をば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所《きゅうしょ》の痛手に金眸は、一声|※[#「口+翁」、112−16]《おう》と叫びつつ、敢《あえ》なく躯《むくろ》は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に※[#「手へん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と俯伏《ひれふ》して、霎時《しばし》は起きも得ざりけり。
 文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼《まなこ》も放たず見てありしが、この時|徐《おもむ》ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐《ねぶ》り勦《いた》はり。漸く元に復《かえ》りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛《ほめたた》へつ。やがて金眸が首級《くび》を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走《は》せ下《くだ》り、荘官《しょうや》が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件《くだん》の金眸が首級《くび》を奉れば。主人《あるじ》も大概《おおかた》は猜《すい》しやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来《でか》したり黄金丸、また鷲郎も天晴《あっぱ》れなるぞ。その父の讐《あだ》を討《うち》しといはば、事|私《わたくし》の意恨にして、深く褒《ほ》むるに足らざれど。年頃|数多《あまた》の獣類《けもの》を虐《しいた》げ、あまつさへ人間を傷《きずつ》け、猛威日々に逞《たくま》しかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類《けもの》のために害を除き、人間のために憂《うれい》を払ひしは、その功けだし莫大《ばくだい》なり」トて、言葉の限り称賛《ほめたた》へつ、さて黄金丸には金の頸輪《くびわ》、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛《まもり》となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。



底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
底本の親本:「こがね丸」博文館
   1891(明治24)年1月初版発行
※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
※ルビの「却説《かへってと》く」は、歴史的仮名遣いのままと思われますが、底本通りとしました。
※「堪え」のように歴史的仮名遣いの規則に合わない表記も、すべて底本通りとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:hongming
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2003年9月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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