々《ひしひし》と縛《いまし》められぬ。その間《ひま》に彼の聴水は、危き命助かりて、行衛《ゆくえ》も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯《はぎしり》して吠《ほ》え立つれば。「おのれ人間《ひと》の子を傷《きずつ》けながら、まだ飽きたらで猛《たけ》り狂ふか。憎き狂犬《やまいぬ》よ、今に目に物見せんず」ト、曳《ひき》立て曳立て裏手なる、槐《えんじゅ》の幹に繋《つな》ぎけり。
倶不戴天《ぐふたいてん》の親の仇《あだ》、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少《わずか》の罪に縛められて邪見の杖《しもと》を受《うく》る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間《ひと》に牙向《はむか》ふこともならねば、ぢつと無念を圧《おさ》ゆれど、悔《くや》し涙に地は掘れて、悶踏《あしずり》に木も動揺《ゆら》ぐめり。
却説《かへつてと》く鷲郎は、今朝《けさ》より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度《いくたび》か門に出でて、彼方此方《かなたこなた》を眺《ながむ》れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一|他《かれ》が身の上に、怪我《あやまち》はなきやと思ふものから。「他《かれ》元より尋常《なみなみ》の犬ならねば、無差《むざ》と撲犬師《いぬころし》に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻《しき》りに案じ煩ひつつ。虚々《うかうか》とおのれも里の方《かた》へ呻吟《さまよ》ひ出でて、或る人家の傍《かたわら》を過《よぎ》りしに。ふと聞けば、垣の中《うち》にて怪《あやし》き呻《うめ》き声す。耳傾けて立聞けば、何処《どこ》やらん黄金丸の声音《こわね》に似たるに。今は少しも逡巡《ためら》はず。結ひ繞《めぐ》らしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎《あやにく》に、枳殻《からたち》の針腹を指すを、辛《かろ》うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐《えんじゅ》の樹《き》に括《くく》り付けられて、蠢動《うごめ》きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱《いだ》き起し、耳に口あてて「喃《のう》、黄金丸、気を確《たしか》に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭《こうべ》を擡《もた》げ、「こは鷲郎なりしか。嬉《うれ》しや」ト、いふさへ息も絶々《たえだえ》なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体《みうち》の痍《きず》を舐《ねぶ》りつつ、「怎麼《いか》にや黄金丸、苦しきか。什麼《そも》何としてこの状態《ありさま》ぞ」ト、かつ勦《いた》はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛《いまし》められし事の由来《おこり》を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退《の》かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍《ふかで》になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居《すみか》へと急ぎけり。
第七回
鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体《みうち》痛みて堪えがたく。加之《しかのみならず》右の前足|骨《ほね》挫《くじ》けて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜《くや》しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶《かな》へん。この宿願叶はずば、養親《やしないおや》なる文角ぬしに、また合すべき面《おもて》なし」ト、切歯《はぎしり》して掻口説《かきくど》くに、鷲郎もその心中|猜《すい》しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起《ななころびやおき》といはずや。心静かに養生せば、早晩《いつか》は癒《いえ》ざらん。某《それがし》身辺《かたわら》にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈《ののし》りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々《はかばか》しき験《しるし》も見《みえ》ぬに、ひたすら心を焦燥《いら》ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前《ひるまえ》より猟《かり》に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空|長閑《のどけ》く、斜廡《ひさし》を洩《も》れてさす日影の、払々《ほかほか》と暖きに、黄金丸は床《とこ》をすべり出で、椽端《えんがわ》に端居《はしい》して、独り鬱陶《ものおもい》に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助《たすけ》を呼ぶ鼠《ねずみ》の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍《かたわら》に、一匹の雌《め》鼠走り来て、股《もも》の下に忍び入りつ、救助《たすけ》を乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫《ふびん》に思ひ、件《くだん》の雌鼠を小脇《こわき》に蔽《かば》ひ、そも何者に追はれしにやと、彼方《かなた》を佶《きっ》ト見やれば、破《や》れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方《こなた》を窺《うかが》ふ一匹の黒猫あり。只《と》見れば去《いぬ》る日鷲郎と、かの雉子《きぎす》を争ひける時、間隙《すき》を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大《おおい》に怒りて、一飛びに喰《くっ》てかかり、慌《あわ》てて柱に攀昇《よじのぼ》る黒猫の、尾を咬《くわ》へて曳きおろし。踏躙《ふみにじ》り噬《か》み裂きて、立在《たちどころ》に息の根|止《とど》めぬ。
この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這《は》ひ寄りて、慇懃《いんぎん》に前足をつかへ、数度《あまたたび》頭《こうべ》を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾《にっこ》と打ち笑《え》み、「爾《なんじ》は何処《いずこ》に棲《す》む鼠ぞ。また彼の猫は怎麼《いか》なる故に、爾を傷《きずつ》けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝《ひざ》を進め、「さればよ殿《との》聞き給へ。妾《わらわ》が名は阿駒《おこま》と呼びて、この天井に棲む鼠にて侍《はべ》り。またこの猫は烏円《うばたま》とて、この辺《あたり》に棲む無頼猫《どらねこ》なるが。兼《かね》てより妾に懸想《けそう》し、道ならぬ戯《たわぶ》れなせど。妾は定まる雄《おっと》あれば、更に承引《うけひ》く色もなく、常に強面《つれな》き返辞もて、かへつて他《かれ》を窘《たしな》めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺《まくらべ》を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件《くだん》の鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目《しりめ》にかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴《しゃつ》はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨《うらみ》なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実《まこと》に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽|嘴《くち》に咬《く》はへて、猟《かり》より帰り来りしが。この体態《ていたらく》を見て、事の由来《おこり》を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労《てがら》を称賛しつ、「かくては御身が疾病《いたつき》も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰《くら》ひぬ。
さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕《あけくれ》黄金丸が傍に傅《かしず》きて、何くれとなく忠実《まめやか》に働くにぞ、黄金丸もその厚意《こころ》を嘉《よみ》し、情《なさけ》を掛《かけ》て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師《こうぐし》に飼はれて、種々《さまざま》の芸を仕込まれ、縁日の見世物《みせもの》に出《いで》し身なりしを、故《ゆえ》ありて小屋を忍出で、今この古刹《ふるでら》に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚《うろおぼ》えの舞の手振《てぶり》、または綱渡り籠抜《かごぬ》けなんど。古《むか》し取《とっ》たる杵柄《きねづか》の、覚束《おぼつか》なくも奏《かな》でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。
第八回
黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体《みうち》の痛みも失《う》せしかど、前足いまだ癒《い》えずして、歩行もいと苦しければ、心|頻《しき》りに焦燥《いらち》つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇《あだ》さへ討ちがたけん。今の間《あいだ》によき薬を得て、足を癒《いや》さでは叶《かな》ふまじ」ト、その薬を索《たずね》るほどに。或日鷲郎は慌《あわただ》しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某《それがし》今日|好《よ》き医師《くすし》を聞得たり」トいふに。黄金丸は膝《ひざ》を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処《いずこ》の誰《たれ》ぞ」ト、連忙《いそが》はしく問へば、鷲郎は荅《こた》へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅《めぐりあ》ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊《とくさ》が原といふ処ありて、其処に朱目《あかめ》の翁《おきな》とて、貴《とうと》き兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈《しばか》りの爺《じじ》がために、仇敵《かたき》狸《たぬき》を海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿《げっきゅうでん》より、霊杵《れいきょ》と霊臼《れいきゅう》とを賜はり、そをもて万《よろず》の薬を搗《つ》きて、今は豊《ゆたか》に世を送れるが。この翁が許《もと》にゆかば、大概《おおかた》の獣類《けもの》の疾病《やまい》は、癒えずといふことなしとかや。その犬も去《いぬ》る日|村童《さとのこ》に石を打たれて、左の後足《あとあし》を破られしが、件《くだん》の翁が薬を得て、その痍《きず》とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜《たより》よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日《あす》にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実《まこと》に嬉しき事かな。さばれかく貴き医師《くすし》のあることを、今日まで知らざりし鈍《おぞ》ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月《くらげ》の骨を得し心地して、その翌日《あけのひ》朝未明《あさまだき》より立ち出で、教へられし路を辿《たど》りて、木賊《とくさ》が原に来て見るに。櫨《はじ》楓《かえで》なんどの色々に染めなしたる木立《こだち》の中《うち》に、柴垣結ひめぐらしたる草庵《いおり》あり。丸木の柱に木賊もて檐《のき》となし。竹椽《ちくえん》清らかに、筧《かけひ》の水も音澄みて、いかさま由緒《よし》ある獣の棲居《すみか》と覚し。黄金丸は柴門《しばのと》に立寄りて、丁々《ほとほと》と訪《おとな》へば。中より「誰《た》ぞ」ト声して、朱目《あかめ》自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白《ましろ》に、眼《まなこ》紅《くれない》に光ありて、一目《みるから》尋常《よのつね》の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭《うやうや》しく礼を施し、さて病の由を申聞《もうしきこ》えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍《きず》を打見やり、霎時《しばし》舐《ねぶ》りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏《かしこ》くも月宮殿《げっきゅうでん》の嫦娥《じょうが》、親《みずか》ら伝授したまひし霊法なれば、縦令《たとい》怎麼《いか》なる難症なりとも、とみに癒《いゆ》ること神《しん》の如し。今御身が痍を見るに、時期《とき》後《おく》れたればやや重けれど、今宵《こよい》の中《うち》には癒やして進ずべし。ともかくも明日《あす》再び来たまへ、聊《いささ》か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途《みち》すがら只《と》ある森の木陰を過《よぎ》りしに、忽ち生茂《おいしげ》りたる木立の中《うち》より、兵《ひょう》ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻《ひね》りてその矢をば、発止《はっし》ト牙に噬《か》みとめつ、矢の来し方《かた
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