金物を造ると云ふ技術があつたといふことなのです。唯一人や二人で出來るものではなく一般の風習にならなければ其技術は出來るものではない。其位な文明があつたのである。今申上げた大寶令時代には貴族の家は立派な瓦で屋根を葺いて居りました。今日言ふ金漆が既に大寶時代には出來て居ります。今何と言ひますか透して先の見える透織と云ふ綾織があります。是は中々精巧な織物でありますが、此透織の織物がもう大寶時代には出來て居る。奈良の大佛はあれは其後變つたものでありますが、一丈六尺の金銅、金と銅と合せた金銅の佛像を作つて居りますが、其金銅佛を作ると云ふことはそれだけぢやない。それを生出す計畫を立て原圖を拵へてやるだけの技術が最早出來て居つたのです。是は僅に其一例を擧げたに過ぎませぬ。
 西洋ではジヤスチニアンの法律と云ふものがあつて、是は古今の法律の中でも立派なもので西洋の歴史の中で最も秀でた山と言はれて居る。其ジヤスチニアンの法典と云ふものは西洋の法典の中最高峯と言はれて居ります。それは西洋の紀元五百二十九年に發布せられたもので、我國の大寶令はそれから百七十年程遲れて居りますが、大寶令と云ふものは一つの立派な憲法でありまして、聖徳太子の憲法などは道徳を言ふだけであるが、大寶令は政府の組織、それから奴隷制度、商賣の制度、監獄の制度、交通の方法一切を規定した立派なものなのである。是は支那の法律を餘程採りましたが、さう云ふ立派な法律を作り得る程の頭の學者、政治家があつたのです。其位に立派に出來て居つたのですから、歐羅巴から文明を受けて初めて日本が半開國から立派な國になつたと云ふことは是は誤解であります。
 もう一例を擧げますと、今申上げたやうに西洋では貨幣經濟時代になりまして色々に經濟機構が變つて來て、此數百年間の經濟機構の中心はギルド即ち同業組合と云ふやうなものであつたのです、吾々は此ギルドと云ふものを見て、あゝ成程西洋の商人は立派なことを考へると思うて居ると、豈圖らんや、日本では既に座と云ふものが出來て居つて、是が即ち一種のギルドである。座と云ふものは何かと言ふと、金座、銀座と云ふ、諸君が人形町をお通りになると金座と云ふ處がある。あれは金貨を拵へる金座と云ふものがあつた其跡だから金座と言ふ。座と云ふものは何かと言ふと、特許せられたる商賣であります。それで我國でも貨幣經濟となつて色々の制度が出て來ましたが、其中から西洋と同じことを言へば座と云ふものが出來た。座は同業が相聯合して政府に冥加金のやうなものを納める。何百年來やつて居つたとか、親の代からやつて居つたとか、色々理窟があつて政府が認定して座とすると云ふことになると、外の競爭を許さい[#「許さい」はママ]。絹は絹の座、鹽を扱ふ者は鹽の座、鎌倉へ行くと材木座と云ふ處をお通りでせうが、あれは材木商人が寄つて政府の許可を得た特許商人の所です。此座が段々擴がつて京都の近邊の大津邊りには馬の座といふものがある。即ち物を運ぶ馬です。其馬は大津が日本全國の馬の座の中心であつて、大津の座の許可を得なければ馬を取扱ふことは出來ぬと云ふやうなことに迄なつて來た。所謂特許商人です。最も著しいのは、京都の山崎の八幡宮であつて、朝廷の由緒の深い所で、八幡樣にお燈明を上げるが、燈明には荏の油を使ふのである。荏の油は何處から出るかと言ふと、播磨の國から出る。播磨の國から荏の油を取寄せて、山崎の神樣にお燈明を上げるのである。其山崎の神主がそれを管理して居る。そこで其中に經濟論が出て來て、其頃淀川を上る舟から税を取りましたが、荏の油は神樣へ捧げる油であるから税を取ることはならぬ、一切自由と云ふことを要求して、是は又權力者が之を認めたのです。さうすると山崎の神主も男ばかりでなく、細君もあり子供もあるから段々子供が殖える、子供が殖えると山崎の家に居られませぬから、それが京都へ移つて町人となる。町人となると此荏の油の特許權は山崎の神主が持つて居るのであるから、神主の體から出た子供の體にも特許權がある筈だと云ふので、京都へばら/\散つて居る其神主の子供の體に荏の油の特許權がついて、京都に於ては此座の外は油を賣ることはならぬことになつた。それから小野宮の神主と云ふものが又麹と云ふものは小野の神樣へ仕ふるものが元であるから、麹の特許權は小野の神主が持つて、其小野の神主の體から生れた子供は京都へ行つても特許權を持つて居ると云ふやうなことで、京都で色々な座が澤山さう云ふ風に出來て來た。それは上から出たのですが、下から出たのもある。そこでさう云ふやうなものが政府からも許され、仕來りにも據る座と云ふものが出來て、座でなければ商賣が出來ないと云ふことになつた。歐洲の自治體と云ふものは何かと言ふと、皆座の商人が自治體の中心でありまして、即ち自治體と云ふものは一種の村若くは町であります。其中で座をやるやうな人間が有力者なのであり口利であり金が使へる。それが中心となつて所謂人民自治、自治してゐながら、實は權力者がやる。上の者がやらないで下の權力者がやつて居る。然るに京都に於てやはり同じ状態で上京下京と云ふものがある。足利時代の中頃に上京と下京とが戰爭をしたことがあります。上京も下京も其中心は何であつたかと言ふと、座の商人が中心で戰爭をした。上京下京は自治體とは今日言ひませぬが、其頃は自治體であり、座がその中心で、それが戰爭せいと言ふと戰爭をすると云ふやうなことで、此點は西洋のギルドと同じことで、而も是は何かと言ふと、ギルドはキリスト教の神に仕へる儀式から是が出來て、向ふのギルドの元は神樣にあるやうに、日本の座の元はやはり神樣から起きて居る。洵に不思議な位一致して居るのであります。斯う云ふ譯ですから、日本の歴史は即ち西洋史と同じく世界史の一部分なのです。違つた所はあるが、共通の所がある。地理學者から聽きますと、世界の地層と云ふものは何萬年前には斯う云ふ土があり、何萬年後に斯う云ふ土があつて、地球を横斷して見ると地層は皆同じことだと、言ふのです。然るに或る處に於て其地層が引つ繰返つて居る。何かと言ふと、それは地震の爲めだと言ふのです。歴史も其通りで歴史の斷面を取つて見ると、西洋も日本も皆共通で、第一は奴隷經濟、第二は土地經濟、第三は貨幣經濟、貨幣經濟の中から、經濟機構が生れて來て、座(ギルド)と云ふものが生れる、同じことである。唯其間に政治上の革命や外國との關係で一種の變動は來て居りますが、歴史の斷面と云ふものは、略※[#二の字点、1−2−22]相似たものであります。
 それから歐羅巴では八世紀の中頃即ち七百二十年頃東ローマのレオ・イソーリアンと云ふ法王が偶像を禁止する法令を發して、他宗を皆悉く滅してしまふと云ふ運動を起した。所謂宗教の規格統一で、スタンダルゼーシヨンをやつた。それから色々殘酷なことが行はれて來ました。然るに日本では略※[#二の字点、1−2−22]同時代に行基と云ふ坊さんが出て來た、是は非常な博學で、偉い人であつた。其頃坊さんは皆朝廷に仕へて紫の着物を着たり爵位を貰つたりして威張つて居つたが、行基だけは朝廷に仕へない。木の下、山の中、野の端を勸化して歩いて佛法を説いて廻つた。是が神佛混淆と云ふことを考へた。佛樣と云ふものも外ではない、大日如來は即ち天照皇太神である。現はれる所は違つて居るが元は同じことなんだと云ふ説を唱へ出して、神道と佛教の統一を圖つた。それが數百年經つてから神佛混淆して、神樣の所に佛樣があつたり、佛樣の所に神樣があるやうになつたのですが、今申上げたやうに、東ローマのイソーリアン法王は權力を以て宗教を統一して、反對の宗教を滅してしまひましたが、行基は反對を滅さぬで、反對の方も皆統一してしまつて、天照皇太神は即ち大日如來だと云ふことで、之を統一をしかけた。結果は違ひますが、宗教を統一すると云ふ考は同じことであります。
 それから日本に近年自由貿易と云ふことも唱へられて來ました。斯う云ふ統制時代になつては、自由貿易と云ふことも行詰つたやうでありますが、併しながら自由貿易なるものは世界普通の状態に於ては立派な眞理である。唯各國が墻壁を築いて重税をかける、割當をする、禁止をすると云ふやうなことをするから、自由貿易が行はれないが、世界の形勢が變れば、やはり自由貿易になるであらうと思ひます。其自由貿易と云ふフイロソフイーは吾々は西洋の學者から習つたのでありますが、併しながら學者が説を立てる以前に日本には事實に於て自由貿易はあつたのです。今申上げたやうに、商賣が總て座の專有物になつて、特許を經たる商人でなければ商賣が出來ないと云ふことになつて、流弊甚だしく、京都大津の座の商人は、京都から伊勢へ至る道路を悉く座の商人に取つてしまつた。座の商人の仲間でなければ商品を持つて其處を通過することはならぬ。又座に屬して居らぬ商人があるから、それを通したい場合には、税を納めて荷物を通すと云ふことにして、座が天下を占領してしまつた。日本全國到る處座の組織が立派に成立つて來たのです。其弊害が餘り甚だしいので、座以外の商人が非常に苦痛を訴へ、商賣は自由にして貰ひたいと云ふ聲を出して來たのです。自由貿易とか、政治上の自由とか哲學で申しますが、是では商賣が出來ないから自由に商賣さして呉れと云ふ聲を代表したのは織田信長でありまして、織田信長は唯比叡山を燒討したとか、明智光秀に殘酷なことをしたとか云ふやうなことだけ傳はつて居るが、立派な政治家で、座が天下を專有することは善くない、商人が自由に商賣することは尤もであるから座を禁止してしまへと云ふので、信長の政權の到る處座を皆廢してしまつた。秀吉は信長の弟子だから此説を信じて、一切の座を禁じた。九州征伐に行つた時第一に博多に行つて大きな旗を立てゝ「此處座あるべからず」と云ふ號令を出した。是が内地に於ける自由貿易の元祖であります。此説が又外國貿易にも行はるゝやうになつて來ました。是は唯商人が苦痛であるばかりでなく、實驗から行つて自由にした方が天下の爲になると云ふことを考へられたのであります。日本ではどうも學者よりは實行家が先になるやうであります。其頃港へ入れば必ず港で税を取られたのでありますが、數百年の經驗が税を取らないと船が澤山寄る、澤山寄れば港が繁昌すると云ふことを考へて、樂津と云ふことを考へた。樂津と云ふのは税を取らない自由港と云ふ意味です。樂津は即ち自由港であります。それから又市場を立てゝ商賣をする、日本橋にも四日市などゝ云ふ名前が殘つて居る。あれは四日目々々々に市を立てた。今のやうな店を張つて居るのでなく、月に三日目とか四日目に離れた處から其處へ行つて市を開いて商賣をする。其市が大名の狙ひ場所で、市を開くと市へ行つて大名の家來が入用な品物を取上げる、税を出せとか云ふことになる。所が多年の經驗に依つてどうも物を取つたり税を取ると人が集まらぬ。すつぽかして自由にさしたらどうだ。町人もさう言ふから、それを許して見たらどうだと云ふので自由にしたのを名づけて樂市と言つた。所謂フリーマーケツトです。それをやつて見ると、どん/″\人が寄る。成程之に限る。人が澤山寄れば町が潤ふ、町が潤へば大名に税を出すことも出來ると云ふことで、樂津、樂市と云ふムーヴメントがありまして、信長は其樂津、樂市の説を採つて、之を實行してさうして、秀吉が更に之を大成したのであります。偖て秀吉の後に徳川家康が出て來たことは御承知の通りであります。是は又秀吉と同じことで商賣は自由でなければならぬと云ふことを信じて居ります。是が元和二年と云ふと西暦千六百六十年ですから、家康が天下の主人となつて二十年以後でありますが、安南へ商賣に行く彌七郎と云ふ船乘がある、之に對して商賣を差許すチヤーターを與へる。但し此許可を與へるに付ては此事を心得ろと云ふ訓令があります。「凡そ會場の事は、有無を通じて以て人と己れとを利する也、人を損じて自ら益するに非ず、利を共にする者は小と雖も却て大也、利を共にせざる者は大と雖も却て小也異域の我國に於ける風俗原理異なると雖も、天賦の理
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹越 与三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング