日本の眞の姿
竹越與三耶

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)右大臣|阿部の御主人《アベノオヌシ》

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(例)右大臣|阿部の御主人《アベノオヌシ》

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 只今後藤さんから御紹介を得まして、頗る過當な御評價でくすぐつたい思ひを致しました。併ながら名物に旨いものなしと申しますから、御紹介通りのことを申上げることが出來るか、頗る自信を缺いて居ります。私は今晩は日本の眞の姿と云ふことに付てお話を申上げたいのであります。希臘の哲學者の言葉に、人間第一の務は己を知ると云ふことだと申して居ります。洵に適切の言葉と思ひます。是と同じく日本人は日本自體を知らなければならぬと思ふのであります。所が日本に付ての知識と云ふものは極めて貧弱なもので、吾々は第一東京に住んで居つて東京全市がどうなつて居るかと云ふことは能く分らない。向ふ三軒兩隣しか實際知らない。其他は風の噂、新聞の報道などで想像して居るやうな譯であります。吾々日本のことに付て色々言ふが、實は日本のことをはつきり分つて居る人はどの位あるか頗る疑問なのであります。それで日本を先づ寫して見なければなりませぬ。其寫す鏡が頗る乏しいのです。所謂山鳥のおろの鏡で、山鳥と云ふものは自分の體が非常に綺麗だと思つて、河へ臨んで自分の姿を寫して、あゝ綺麗な鳥だと思つて居る中に自分自ら迷つて水に落ちて死んでしまふ、愚ろかな鳥です。之を山鳥のおろの鏡と申します。日本を寫す鏡はどうも山鳥のおろの鏡もなきにしもあらず、又正しき鏡を持つて居つても其鏡は目を寫すなり、鼻を寫すとか、部分的にしか寫らないで、六尺大の一枚磨の大きな硝子へ寫すと云ふやうな鏡を持つて居る人は甚だ少いやうに思ふのです。そこで私は日本の眞の姿はどうなつて居るかと云ふことを研究して見たいと思ふのであります。
 日本に付ては三つの見方があると思ふのです。第一に外國人が見た日本、是は幾ら上手な油繪描でも西洋人が日本人の顏を描くと、目は吊上つて齒が飛び出て髮の毛が棕櫚見たいに突立つて居る妙な顏を描く、ポンチの顏を描く積りでないが、西洋人が描くと日本人がさう寫るのです。さう云ふことのあるやうに、日本も西洋人が見ると兎角間違ひ易い。第二には日本人自體が間違つて居る。近世文明と云ふが是は皆西洋人から借りたものである。西洋なかりせば日本は發達しない。是は西洋から歸つて來たり、新しい學問をする人がさう思ふ。第三は我國は神國であつて決して他國と同じ國でない、隨神の國であるから外國などと質が違ふのであると云ふ神憑の議論である。此三つがあると思ひますが、是は固より間違ひと思ひます。外國人がどうして間違ふかと云ふと、日本が嘉永六年亞米利加のペルリに迫られていや/\ながら國を開いたのでありますが、それから四十何年明治三十年頃には立派な近世化した日本となつた。西洋各國では封建時代の域を脱して近世國家となるのには長きは三百年、短いのでも百五十年掛かつて居る。然るに日本は僅に四五十年で近世日本を拵へた。不思議だ、ミラクルである、是はどう云ふ譯であらうか、此ことは餘程の問題だと云ふ譯である。それに付て第一疑を抱いたのが佛蘭西のオーギスト・ルボンと云ふ學者でありまして、群衆心理と云ふ説を唱へ出した人である。是は近頃の佛蘭西の軍人などが非常に多くルボンの門から出て居つて、歐洲大戰に參加した、愛國心もあり、哲學者でもある。此ルボンが今を去ること二十何年前に我が大使であつた本野一郎君に對して日本の出現は不思議だ、僅か四五十年で近世國家となつた。其有樣は恰も彗星が燦然として天體に現はれて來たやうなもので、世界を驚かして居る。併ながら彗星の運命は軈て地平線の彼方に消える運命を持つて居る。日本の如き國が四五十年にして近世國家となると云ふことは進化の法則に於て分らない。恐らくは彗星の運命ではないかと思ふと云ふ問題を出したのである。本野君は之に答へて、我國は四五十年で出來た國ではない、二千五百年の間掛かつて歩一歩踏締て出來て來た國民だと言つたらば、ルボンはいやそれは何處の國でも皆何千年も歴史を持つて居る。併し日本の歴史を讀んで見るが、大抵大名の戰爭と公卿の陰謀だ、是より他に記事はない。其日本がどうしてこんな長足の進歩をしたか分らない。君が二千五百年の間歩一歩踏締めたと云ふならばそれを一つ君の立場から書いたらどうかと云ふ譯で、本野が承知して、宜しい、然らば日本の立場を書くと云ふので歸つて來まして、自分の友人として君が一番適任であるからそれを書かぬかと云ふことを私に勸めました。それが土臺となつて私が日本經濟史を書いたのであります。是は獨りルボンばかりではない。日本の事が分つて居るやうな學者でもどうして四五十年の間に斯うなつたかと云ふことに疑を抱いて居る。然し日本が四五十年の間に近世國家になつたと云ふことが抑々間違ひなのである。彼等は歐羅巴と交際する以前に日本は殆ど文明らしいものを持つて居らなかつたやうに思ふのです。それから色々の間違ひが起る。其ことに付てお話を申上げて見たいと思ひます。
 何處の國でもあるのですが、西洋人は殊にひどいが、日本も亦其病は免かれぬ。國の歴史は其國だけの歴史であつて、世界共通のものがあつて何處の國でも世界史の一部分が其國の歴史であると云ふことを氣が附かない。日本の如きも日本は特別な國だと思つて居るが、皆世界の歴史の一部分であります。皆さん御承知の通り何處の國でも最初は奴隷を本として經濟を立てゝ居ります。奴隷と云ふのは勞働即ち勞働力です。其奴隷は隣の村へ行つて奪つて來る奴隷があり、戰爭で取る奴隷もあり、刑罰に依つて生れる奴隷もある。奴隷の源は色々ありますが、兎に角奴隷なかりせば勞働力がないから、奴隷を基礎として經濟を立てゝ行く。我國の如きも即ち最初は奴隷經濟であつた。あなた方は奴隷と云ふと日本にさう澤山ないもののやうにお思ひになるかも知れませぬが、歐洲の歴史は羅馬のスパルタカスの奴隷戰爭以來奴隷と自由人民の爭ひが歐洲の中世史であります。日本も其通りで奈良朝時代は純然たる奴隷經濟であります。奈良に正倉院と云ふ帝室のお藏があります。其處に殘つて居る戸籍斷片、昔行はれた戸籍のちり/\ばら/\になつたものがあります。それを見ますと其戸籍に主人は幾歳、妻は幾歳、男の奴隷何歳、女の奴隷何歳と皆籍が載つて居ります。斷片でありまして全體を見ることは出來ませぬが、それから推測して見ると大きな家には三人四人の奴隷が必ずあつたやうです。それから聖徳太子が蘇我の一族と戰はれたときは蘇我の一族には澤山の兵がありました。其奴隷がやはり四五百人あつた。さう云ふ風に總て奴隷を基礎として經濟を立てゝ居つたのです。是は何時頃まで續いたかと云ふと奈良朝の終り迄奴隷がありました。其奴隷は立派に大寶令と云ふ法律にも載つて居りまして、奴隷は奴隷としての存在があつて、奴隷と良民は結婚が出來ない、奴隷の女と良民の男と通じて子が生れゝば其子は良民である。奴隷の男と良民の女と通じて子が出來ればそれは奴隷とすると云ふやうに非常に制限的な法律がある。併ながら奴隷も亦存在があつて大寶令と云ふ法律即ち大化革新の後を全くする爲に出來た法律には、天下の土地を皆國有の土地としてしまつて、豪族が澤山の土地を持つことを禁じて、土地は悉く分配をして、良民には一人二反歩、妻は一反歩半、其子供は其何分の一、奴隷は其何分の一と云ふ風に奴隷にも田を呉れるやうになつて居りまして、保護もあり制限もあつたのです。斯う云ふやうなことが段々續いて來まして奈良朝の終り迄ありましたが英吉利も丁度其頃は立派な奴隷制度でありまして、第十三世紀まで奴隷制度が續いたのです。それで大寶令と云ふのは大寶年間に出來た法律で、西暦八百年西洋の八世紀に當ります。其大寶令には天下の民を分けて奴隷と良民との二つにする。良民は三級に分ける。第一級は三十貫文の錢を持つて居るものが良民である。第三級の民は一貫文の錢を持つて居れば三級の民である。但し錢のない場合には米若くは奴隷を以て錢に換算する。奴隷一人は六百文に換算すると云ふ規則です。奴隷一人半持てば三級の民になる。さう云ふやうなことで立派に奴隷制度が成立つて居りました。所が英吉利の如きは十三世紀まで奴隷經濟が續きましたが、日本では西洋の九世紀の終り十世紀の初めに至つて此奴隷經濟がなくなつてしまひました。それはどう云ふ譯かと云ふと、自然の勢ひ奴隷經濟だけでは成立たぬので土地經濟が起きて來たのです。奴隷時代には土地は澤山あつて人口は少い、だから其邊の土地は勝手に取れる。唯之を耕作する耕作力がないから奴隷を集めて之を耕作するので奴隷經濟が起つた。然るに日本では西暦十世紀頃即ち奈良朝の終り平安朝の初めには人口が大分殖えて來まして、到る所耕作せられる土地がある。そこで豪族若くは大官は既に耕作せられた土地に繩張をして是は自分の領分であると云ふことを決めますから、多くの奴隷を持つよりは多くの土地を持つと云ふことが世の中の希望であつた。豪族は成べく多くの土地を持ちたい、土地から野菜が出る、農産物が出る、貢物が出ると云ふことであるから土地を澤山持ちたいと云ふことが希望で、それから土地を本とする經濟が成立つて來た。それで英吉利の如きは丁度同じ時代に奴隷が段々少くなつて來てマノール・ハウスが出て來た。マノール・ハウスは日本の莊園見たいなものである。封建制度の前身でありますが、マノール・ランドと言ひまして別莊地と言ふのです。何處々々の土地は貴族のものである、豪族のものであると決めてしまつて、其處に住んで居る人民から税を取ると云ふことを本として來ましたから、茲に於てか奴隷が段々減つて土地を澤山取ると云ふ習慣になつて來まして、そこで土地を本として經濟を立てると云ふことになつて來た。日本では莊園と云ふものがあつたことは皆さん大抵御承知でせうが、之の起原は次の樣な譯であります。即ち大化革新に於て天下の土地を分けて百姓に平均一人二反歩づゝ呉れると云ふことになりましたが、是は支那の法律の飜譯なのです。其頃留學生や坊さんが支那へ留學して行きました。所が支那は其頃唐の大宗と云ふ天子の頃で盛んであつた。其唐の制度、唐以前の制度を見た所が、土地を持つことを制限して、豪族が餘り土地を兼併しないやうにすると云ふ時代であつたが、是こそ眞理である、之が國を救ふの道だと思つて歸つて來た留學生は持つて來た法律を飜譯して日本に應用したのです。其隋の法律や唐の法律を文字其儘使つて居りました。そこで日本の事情と云ふことを考へないで土地を[#「土地を」は底本では「士地を」]分割して制限すると云ふことになつて來たのですが、併し是は日本人の自然の勢ひに副はないのですから、段々何時の間にか毎年土地を變へると云ふことが三年に一度になり、五年に一度、十年に一度、甚しきは六十年に一度思出したやうに土地を分割すると云ふことになり、到頭土地分割は止めになつてしまつた。そこで人口は殖えて耕作せられた土地が多くなつて來たので之を持ちたいと云ふ希望が朝廷の貴族、大官あたりに非常に盛になつて來ましたから、土地を持ちたいと云ふことを法律化して來たのです。それはどうするかと云ふと、其頃お寺と神社には今申上げたやうに土地を澤山持つて居つても差支ない、之を分割して百姓に分けてやらないで宜いと云ふことであつた。そこで其神樣と佛樣の持つて居る土地は寺のものであり神社のものであるから、役人は入ることならぬ。其處から租税を取ることはならぬと云ふことにしたのです。そこで神社は人を使ひお寺も奴隷を使ひどん/\耕作して、其米の收入に依つて富を増すと云ふことになつて來た。朝廷
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