の役人は之を見て神社とお寺の眞似をしようと云ふので、或る土地を區劃して之に莊園と名付けて、是は自分の別莊であり必要な土地である。之を神社やお寺の持つて居る土地と同樣の取扱をして戴きたいと云ふことを朝廷に希望するのです。所が朝廷と言つても貴族が作つて居る朝廷ですから、有力な貴族が願へば直ぐ判を捺して許すと云ふことになり、どん/\莊園が出て來て、到る所に莊園が盛になつて來た。今の近衞總理大臣の先祖の近衞家と云ふものは九州に於て日向、薩摩、大隅と云ふ三つの國を莊園に持つて居つた。島津と云ふものは其莊園のマネージヤーに過ぎなかつたのです。それで近衞家はどう云ふ收入を得るかと云ふと、其處から毎年金を一包、鷹の羽を二十枚、鷹の羽は弓に使ふのです。馬を何匹と云ふ位の收入を得てそれだけの土地を持つて居る。其實際の利益は誰が持つかと云ふと其莊園を管理して居る人間が利益をして居る。さう云ふ譯であるから莊園と云ふものは大變都合の好いものである。相競うて莊園をどん/\拵へる。貴族の妾までも莊園を持つと云ふことになり、どん/″\莊園は許された。其結果はどうなつたかと云ふと――國家の持つて居つて地方官が租税を取り得る土地を公田と云ふのですが、公田よりも莊園の數が多くなつてしまつた。朝廷を支へるのは公田から來る租税で支へて行くのですが、公田が段々少くなつてしまつて皆莊園になつてしまつた。奴隷と云ふものは今まで公田即ち地方官の勢力のある公田と云ふ土地を耕して居る其百姓に使はれて居つたのですが、莊園と云ふものが出來て大變樂なものださうだ、彼處へ入れば苦役を免かれるのであるからと云ふので、奴隷が何時の間にか莊園へ流れ込んでしまつて行方が分らない。數百年の間逃げる途中で捕つたり殺されたりした者があるが、結局そんな有爲轉變の間に奴隷は何時の間にか砂に水を撒いたやうに引いてしまつた。さうして莊園が非常に強いものになつて來た。英吉利のマノール・ランドも其通りです。マノール・ランドにどん/″\人が入り込んでしまつて、其のときの王樣とか何とかの苦役を離れてしまひますから奴隷が何時の間にか分らなく消えてしまつた。莊園と云ふのは一面から見れば朝廷の土地を一個人が奪ふのであるから甚だ不法であるが、同時に之が爲に奴隷制度が消えたと云ふのは一つの好い效果だと思ふのであります。
偖てさう云ふ風に莊園が出來て、莊園は今までは唯畑や田圃にずつと連絡したものでありましたが、其莊園には役人が居り、支配人が居る。租税を取つたり何かするのには役人が要る。澤山の人が集まると泥棒も出て來ると云ふので、泥棒を防いだり租税の監督をしたりする爲に先づ郡役所と云ふやうなものが自然莊園に出來る。持主は京都に居る。唯出先の支配人が居る役所が出來る。其役所で自然に泥棒を防ぐ爲に、或は官吏が威張る爲に、段々一種の地方政府見たいなものが其處に出來て來る。さうすると地方政府の役人に奉仕する爲に小間物屋も出來れば機屋も出來ると云ふ譯で一種の町が出來る。さうすると其處に經濟上の中心が出來て來て、唯莊園から鷹の羽を取るだけでは詰らぬ。米、味噌を取るだけでは詰らぬ、物を買ふと云ふ必要が出て來て、貨幣制度が其處にやつと成立つて來て、どん/″\貨幣で物を買ふと云ふことになつて來て、莊園が貨幣制度の發祥地になつて來た。茲に於てか今までは天下の土地は澤山あつたが莊園に分割してしまつて餘分はないのである。誰でも取れると云ふ土地はなくなつて來たから、今度は其貨幣を澤山持つて居る人が勢力があると云ふことになり、是に於てか貨幣制度が出來て來たのです。此通り最初は奴隷經濟、次は土地經濟、其次は貨幣經濟になる。即ち何處の國を見ても第一奴隷經濟、第二は土地經濟、第三は貨幣經濟と言ふ順序になつて居る。是は世界共通何處の國でも其例を外れるものはないのです。日本獨り此例に外れることはない。皆西洋の歴史と同じことなのです。勿論人間は皆二つの目、一つの口、鼻、二つの耳、是は決まり切つて居るが、其人の血液の工合で色々顏の形が變つて來る。人の備ふべき機關は同じことであるが、それが集つて顏になるときには千萬人悉く違つた顏をするやうに、各國共に歴史の過程は同じことであり、起源も同じことであるが、其現れ方は別々になつて來る。だから各國共通と言つても同一とはいかない。江南の橘は江北に行けば枸橘となると云ふやうなもので、其土地に依つて形は變つて來るが原則は同じことである。然るに西洋人は日本が各國共通の過程を經て來たものであると云ふことを知らないで、突然日本へ來て此半開國が五十年の間に近世國日本になつたのは不思議だと思つて、どうも此疑問は解釋出來ぬと云ふが少しも解釋の出來ぬことはない。此通り西洋各國と同じことを經て來たのです。
そこでもう一つ同じことを申すが、此莊園の中から君臣の關係と云ふものが出て來た。今お話したやうに莊園は誰が持つて居るかと云ふと京都の公卿、豪族が持つて居つたのでありますが、京都の公卿も段々飯が食へなくなり豪族も段々狹い京都に居るよりは地方に出て、自分の持つて居る土地へ行つて自由に生活したいと云ふので地方へ分れて、それが後には源氏となり平家となりました。莊園が餘り激しいので後三條天皇と云ふ天子樣が、莊園は色々の弊害の本で、朝廷の持つて居る土地を莊園にしてしまつて、さうして朝廷へ出すべき租税が減ると云ふことは不法であるから、莊園は悉く沒却してしまふと云ふことをお考へになつた。但し莊園も朝廷から立派な認可状のあるものは之を許すが、認可状のないものは取上げると云ふことになつた。所が認可状なんてものは有る者は百人か二百人しかない。皆盲判を捺してどん/″\勝手に莊園にしてしまつたのですから、莊園の認可状を朝廷から貰つた者は昔は知らず今はないのです。そこで關東八州、今の東京を中心とした八箇國、此邊の莊園の者が非常に騷ぎ出した。皆さんが歴史や芝居で御承知の畠山莊司重忠と云ふ人がありますが、莊司と云ふのは其邊の莊園を司つて居る人なのです。即ち莊園のマネージヤーです。それが皆武士なのです。後三條天皇が莊園を取上げると云ふなら是は何か方法を考へなければならぬ。今源義家、頼家と云ふのが東北を征伐して前九年、後三年を經て歸つて來て、赫々たる大功を奏して武名天下に轟いて居る。丁度我國で滿洲事變を終へて歸つて來た軍隊のやうなものです。其源義家に吾々の莊園を獻上してしまつて是は源家のものであると云ふことにしたら、後三條天皇も武力に憚つてお取上げになるまいと云ふことを考へ出した。其頃は新聞もなければ政治家も居なかつたが此關八州の田舍の武士が中々巧いことを考へたのです。それで義家に吾々關八州の者は悉く莊園を源氏に獻上したいから受けて呉れと言つたら、義家は宜しいと言つて取つてしまつた。是に於て關東八州は一朝にして源氏のものとなつてしまひ、莊園は朝廷に取上げることは其武力に對して出來ないので其儘になつてしまつた。そこで今お話した通り莊園は初めは京都の公卿や豪族が遙に二三百里隔てゝ支配して居つたのですが、段々子供が多くなると其土地へ行つて土着すると云ふやうなことから莊園が武力の中心となつて來た。終ひには莊園と莊園と戰ふと云ふことになるから兵力を養はなければならぬやうになつた。そこで今までは朝廷と臣民は遙に離れて居つて、君臣ではあるが情誼が通じない。然るに武藏の誰、上總の誰と云ふ莊園を持つて居る者は其處へ土着してさうして百姓を育てゝ兵隊にして手柄があれば褒める、罪があれば殺す、恩威並に施すので土着の豪族と其莊園の中の人民との間に自然に君臣の關係が出て來た。此人に服從して手柄があれば褒められる、嬉しいことである。惡いことをすれば殺される、恐しいことだと云ふので、所謂君臣の關係が出て來た。それが段々數十年重なると君臣の情誼が出來て來て、君の爲には討死しなければならぬものだと云ふやうなことになり、其處から一種の道徳が出て來た。西洋の諺に光は堅いものが打當つたときに出る、道徳も戰爭から生れると云ふ言葉があります。其頃は將門も居れば那須與一も居ると云ふやうな譯で始終小戰爭が絶えない。其小戰爭の中から結束して戰ふ、結束して主に叛かないと云ふ道徳、主君の命令に叛かぬと云ふ道徳、戰場に出ては汚いことをしないで、敵を殺すのにも立派に殺さなければならぬと云ふやうな所謂英語で言ふとコード・オヴ・オノア、日本語で言ふと戰場の手前で、所謂戰場の手柄は唯敵の足を取つたり卑怯なことをして勝つてはいかぬ、立派に勝たなければならぬと云ふやうな一種の道徳が其處から守り立てられて、所謂武士道の本となつて來たのであります。それを我國では武士道は日本專有のものと言ひますが、西洋も皆共通です。西洋には諸君が御承知の通りナイト若くはシヴアーリーと云ふのがあります。所謂飜譯して騎士と云ふのです。シヴアーリーと云ふものは何かと云ふと貴族に仕へて其貴婦人の前では跪いて禮儀をする、婦人を保護すると云ふことがシヴアーリーの役目であると云ふやうに段々盛立てられて、それが終ひには一變してゼントルマンの紳士道になつて來たのである。此シヴアーリーが一種の日本の武士道と同じくナイト・フードと云ふものがありまして戰場に於て手柄を立て立派なことをした者は、王樣が刀の背を以て脊中を三つ叩く、之が即ち名譽を與へたのです。其名譽を受けた者は世間から非常に褒められると云ふやうなことで、名譽と權力を以てシヴアーリーの道徳は成立つて來ましたが、ラスキンと云ふ學者はシヴアーリーとは何ぞ、一本の劍、一匹の良き馬、一日食べられるだけのものがあれば滿足して公の爲に戰ふのが之がシヴアーリーであると言つたが、日本の武士道も其通り、十年も掛かつて貯へた金は何を買ふかと云ふと良き馬を買ふ。君から非常な賜物を貰つた、それは何にしたかと云ふと正宗の刀を買つたと云ふやうに、一本の劍一匹の馬に全力を盡したと云ふことは東西古今同じことなのである。西洋では之をシヴアーリーと云ふ。シヴアーリーと云ふのはコート・オヴ・アームと言ひまして、軍服に一種の標が付くのです。是は日本の武士の紋所のやうなものである。尤も東京では車夫でも紋を付けて居りますが、是は今日の話で、昔はやはり紋所と云ふものは立派な武士でなければ付けなかつたのです。西洋のコート・オヴ・アーム、日本の紋所皆同じことです。武士道に依つて己を押へて公の爲、主君の爲に盡すと云ふことは獨り日本に限つたことはない、世界共通のことです。
話が少し脇道に入りましたが、斯う云ふやうな譯で各國共歴史は皆共通であります。西洋人が笑つたとき日本が泣いてゐた譯ではない。西洋人と同じく悲しみ、西洋人が怒るが如く怒り、西洋人の喜ぶが如く二千五百年間送つて來たので、唯西洋人が來たときに文明の形が違つてゐたと云ふだけの話である。西洋人は西洋と交際して日本の文明が初めて生れたやうに言ふ。或は又それを日本で信ずる者もあります。さうでない、日本は歐洲と交通以前既に立派な文明を持つて居つた。今申上げた大化改新と云ふと西歴六百五十年であります。其頃はまだ農業をするのに鐵が少いから鐵で拵へた鍬と木で拵へた鍬と二つ使つて居つた。然るにそれが七八十年の後には木の鍬と云ふものは全く無くなつて、鐵の鍬ばかり使ふやうになつた。西歴の七百年、大寶元年文武天皇が右大臣|阿部の御主人《アベノオヌシ》と云ふ者に賜物を下さつた。それは絹五百匹、絹糸四百卷、金鍬一萬挺下さると云ふことが歴史に載つて居る。一萬挺の金鍬を下さると云ふことは如何に其ときの生産力があつたかと云ふことが分る。其頃はまだ都附近だけが鐵の鍬ばかり使つて居りました。田舍へ行けば木の鍬も混ぜて使つて居たことゝ思ふが、使つて見て木の鍬よりも鐵の鍬の方が良いから出來る限り皆鐵鍬を使ひ、期年にして皆鐵の鍬となつた。然るに英吉利はどうかと云ふと十世紀頃まだ木の鍬を使つて居つた。其農業状態は日本の方が餘程進んで居つたのです。是は唯鍬一つのことですが鍬を造ると云ふことは鐵を採る技術があると云ふことである。其多くは砂鐵です。其砂鐵を溶かして
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