掛でやることは西洋から學んだが、製鐵の事業は吾々は既に三四百年以前からやつて居つた。日本の清盛時代に支那に宋と云ふ朝廷があつた。歐陽修と云ふのは其時代の學者で、日本邊りでは歐陽修の文章を讀んで感服する學者が多い。其歐陽修が日本刀と云ふ歌を作つて居る。日本刀と云ふものは璞を切るべく龍を斬るべし精悍無比天下斯の如き名刀なしと云ふ歌を歌つて居る。是は誰が打つたかと言ふと、堺邊りの工人が打つたものである。小仕掛に砂鐵からそれだけのものを造り得る者が今日あれだけの製鐵所を拵へても少しも不思議はない。唯仕掛が大きく機械を學んだと云ふに過ぎない。それを動かす頭と手は吾々にあつたのです。又、吾々がポルトガルやオランダと貿易を始めた時は色々珍しいものが來る中に天鵞絨と云ふものがあつた。此天鵞絨と云ふものは如何にも軟かくて立派なものであるが、どうかして此製法を學びたいと思ふが、ポルトガル人は教へない。所が堺の商人が何とかして習ひたいと思ふが教へない、困つて居る所に、或年來に天鵞絨をほごして見ると、其隅の方に針金が一本入つて居つた。それで針金を中心にして織るなと云ふことを考へて直ぐ天鵞絨を拵へた。是程精工業
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