て居りまして、奴隷は奴隷としての存在があつて、奴隷と良民は結婚が出來ない、奴隷の女と良民の男と通じて子が生れゝば其子は良民である。奴隷の男と良民の女と通じて子が出來ればそれは奴隷とすると云ふやうに非常に制限的な法律がある。併ながら奴隷も亦存在があつて大寶令と云ふ法律即ち大化革新の後を全くする爲に出來た法律には、天下の土地を皆國有の土地としてしまつて、豪族が澤山の土地を持つことを禁じて、土地は悉く分配をして、良民には一人二反歩、妻は一反歩半、其子供は其何分の一、奴隷は其何分の一と云ふ風に奴隷にも田を呉れるやうになつて居りまして、保護もあり制限もあつたのです。斯う云ふやうなことが段々續いて來まして奈良朝の終り迄ありましたが英吉利も丁度其頃は立派な奴隷制度でありまして、第十三世紀まで奴隷制度が續いたのです。それで大寶令と云ふのは大寶年間に出來た法律で、西暦八百年西洋の八世紀に當ります。其大寶令には天下の民を分けて奴隷と良民との二つにする。良民は三級に分ける。第一級は三十貫文の錢を持つて居るものが良民である。第三級の民は一貫文の錢を持つて居れば三級の民である。但し錢のない場合には米若くは奴隷を以て錢に換算する。奴隷一人は六百文に換算すると云ふ規則です。奴隷一人半持てば三級の民になる。さう云ふやうなことで立派に奴隷制度が成立つて居りました。所が英吉利の如きは十三世紀まで奴隷經濟が續きましたが、日本では西洋の九世紀の終り十世紀の初めに至つて此奴隷經濟がなくなつてしまひました。それはどう云ふ譯かと云ふと、自然の勢ひ奴隷經濟だけでは成立たぬので土地經濟が起きて來たのです。奴隷時代には土地は澤山あつて人口は少い、だから其邊の土地は勝手に取れる。唯之を耕作する耕作力がないから奴隷を集めて之を耕作するので奴隷經濟が起つた。然るに日本では西暦十世紀頃即ち奈良朝の終り平安朝の初めには人口が大分殖えて來まして、到る所耕作せられる土地がある。そこで豪族若くは大官は既に耕作せられた土地に繩張をして是は自分の領分であると云ふことを決めますから、多くの奴隷を持つよりは多くの土地を持つと云ふことが世の中の希望であつた。豪族は成べく多くの土地を持ちたい、土地から野菜が出る、農産物が出る、貢物が出ると云ふことであるから土地を澤山持ちたいと云ふことが希望で、それから土地を本とする經濟が成立つて來た。それで英吉
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